休日出勤の代休を取った、火曜日の朝だった。
テレビからは今日の天気や、鉄道各線の情報を知らせるアナウンサーの声が聞こえる。食事の片付けも終わって、夕飯の下ごしらえに冷蔵庫から豆腐を取り出していると、普段は見られない情報バラエティ番組が始まっていて、聞き慣れないメインキャスターの挨拶の声がした。
おはようございます、以降は知らない単語ばかりで聞き取れない。
ここに住み始めてそろそろ1ヶ月が経つ。テレビを見るのは朝食と夜の晩酌時間だけだ。
最初は夕食時間も見ていたけど、七海さんと話していて見てないので消すことが増えた。晩酌時間は動画配信サイトで映画やドラマを見るので、地上波放送と疎遠になった。大学院にいた頃は寂しさをまぎらわせるために、家に帰ったらずっとラジオのようにテレビをつけていたので、ぼんやりと世の中の流行りを追えていた。
「みょうじさん」
髪もスーツもきれいに整えた七海さんがスマホを片手にキッチンに戻ってきた。さっきまで髪の毛をゆるくかきあげて、コーヒーを飲みながらベッドを整えていたはずなのに。これが昔とったスーパーブラックサラリーマン杵柄の身支度の早さだ。
今日の七海さんは伊地知さんと任務だ。現場方向にちょうど家があり、伊地知さんが車で迎えに来てくれるため遅い出発時間である。

「急遽、任務の依頼主と打ち合わせを兼ねた食事が入って、夕食が家で取れなくなりました。すみません」
「あー……了解です。残念でしたね」
「全くですよ」
七海さんの眉間に皺が寄る。依頼主からの“打ち合わせを兼ねた食事”は大抵面倒なことだ。費用を安くしろとか、フリーになってここで働かないかとか。七海さんがそれについて直接愚痴を言ったことはないが「そういう話を持ちかけられたら、一切権限が無いと言って退室して、すぐに補助監督に連絡してください」と過去に指導された。私達の会話を聞いていた日下部さんは「そういうことするヤツは、将来また別のヤツを同じように連れてきて挿げ替えるから、使い捨てにされるだけだぞ」と言っていた。

「なら麻婆豆腐は明日にまわして、明日の夕食当番もしてもいいですか?」
「勿論です。では木・金は私が担当ということで。……食べたかったですね……麻婆豆腐」
七海さんは冷蔵庫に戻されたシンプルなパッケージの豆腐をじっと見つめた。
この豆腐はマンションの管理人さんの親戚が生産しており、きまって2ヶ月に1回住人に配布される。七海さんは今まで豆腐を美味しく食べることに自炊パワーをイマイチ発揮できなくて、味噌汁に入れてばかりだったらしい。それを知らずに、先月の夕食当番の時に私がスーパーの豆腐で麻婆豆腐を作ったら美味しかったそうで、今度この豆腐で作ってみてほしいと頼まれていたのだ。
「明日中に使い切った方がいい食材ありますか?」
「そうですね……私が買い出したもので使う予定だったものは、ほぼ冷凍庫にまわしておきましたから……」
冷蔵庫を2人でのぞき込んでいると、七海さんのスマホが震えた。通知に伊地知さんの名前が浮かぶ。下に来てくれたのだろう。
「食材は問題ありません。昼食を兼ねた夕食になるので、帰る時間はあまり遅くならないと思います」
「はい、どうぞお気をつけて。いってらっしゃい」
立ち上がった七海さんを見上げる。上着からいつもの腕時計を出してつけると、彼の顔が急にこちらに近くなって過ぎていく。歪みなく正しく締められたネクタイの結び目が眼前で止まって、額と頬、それから唇に柔らかいものが軽く押し当てられて離れる。
「いってきます」
七海さんの背中が遠ざかり、足音だけになった。外の鳥の声や子どもたちの走る音が一瞬クリアに聞こえた後、玄関ドアが音をたてて閉まる。

食材や包丁を片付け、テレビを消す。
キッチンを離れて掃除機を手にしたが、充電器から抜けなくて手こずってやめた。
落ち着こう。せっかくの休みだ。やりたい家事、でかけたい場所、やりたかったことのリストを作ろう。ソファに座ってスマホのメモアプリを起動して、TODOリストに打ち込もうとして1個目から全く埋まらない。
シャツを腕まくりする。
二の腕の内側にスマホを当ててみる。違う。
指を当てる。ちょっと似てるが違う。
唇を当ててみる。5、6回当ててみる。似てるな。もう4回当てる。どう考えても似てるな。これしかないな。つまり、キスされたな。
七海さんにキスされたな。
いや結婚してるんだし、ベッドも一緒だし、キスされても全く問題ない間柄だけど。
なぜいまこのタイミングではじめてのキスを……?
この疑問が、0.25倍速されてゆっくりと頭の中を流れていく。
今日の任務は1級相当だったろうか。確か軽かったと聞いたが……。スケジュールを再度確認してみると、ハイクラスホテルの定期祓除任務だった。任務の難易度は低いが、依頼人が面倒でトークを求められるタイプ。「呪術師は見た目も中身も頼りになる人を連れてきてくださいね」案件だ。どうりで“打ち合わせを兼ねた食事”をねじ込む。
ならなんでキスを今。人生で初めてのキスだったけども、そのことに対する戸惑いではない。任務前に突然、しかもなんてことのない朝にされたことに1種のフラグのような恐怖を感じて、喜び、余韻、記憶までも飛んだ。気がつくとベンチに下げられて落ちこんだ野球選手のような体勢で2時間が過ぎていた。
気を紛らわして建設的なことをしよう。そうだ掃除をしよう。一応、七海さんに「任務終わったらお手数おかけしますが、なんでもいいので連絡をください」とメッセージを送って、気を紛らわすために、飲むタイミングを逃していたお酒を自室から持ち出した。

▼ ▼

後輩や同期に冷静だと評価される。そういうタイミングにかぎって、デスクの上のものを全部薙ぎ払ってやりたい激情を抱えていた。
上司からクレバーで安心できるプレイヤーだと上客に紹介された時。自分に少しも得にならない、別の客への情に流された提案を検討するのに夢中になっていた。
会社勤めを経験した七海は少しだけ自分のことが分かって、呪術師界に出戻るにあたり、大切なものは作らないか、さっさと消費してしまおうと決めた。例えば手に入れた貴重な酒は期限を決めて飲み切ってきた。大切な友人、大切な恋人、大切な仲間。これは作らないと決めた。なのにそれらをまとめたような大切な人を作ってしまった。
だから七海は人一倍、みょうじを大切にする。今まで大切にしたものは、この世界にいくつか奪われてしまったから。だから今、早く帰りたくてたまらない。

「いやー、七海さんお久しぶりです!伊地知さんも!また来てもらえて助かりますよ。前の若い学生さんはちょっとねえ……」
「お久しぶりです。学生の彼らも責任を持って祓除を行っています。ご心配でしょうが、私と結果は変わりません。ところで急なお話とは?」
任務依頼主であるホテルのオーナーとの食事会場は、ホテル内のレストランの個室だった。1食数万するコースを出すだけあって、客層も服装も限られており、これではまるで昔の仕事のように金の話をしに来たみたいだな。まあ金の話だろうが、と、七海は出された水を飲みながら思う。
それよりもみょうじが気になって仕方がない。彼女にしては珍しい連絡がきて、体調でも悪いのだろうかと心配が募っていく。
食事はダラダラと世間話や、ホテルの内情が続き、コースの料理が次々出たり引っ込んだりする。味はオーナーへの不快感で口に入れてもぼやけてはっきりしなかった。これもまた会社員の頃と同じだ。
しかし後輩である伊地知にこの手のタイプを相手させるのは忍びなく、七海が主導で適当に話を合わせていると、メインディッシュの直前でオーナーの顔つきが変わった。
「最近祓除を依頼してから、実際に来ていただくまでの時間が長くて。もう少し短くなりませんかね?」
「……以前からこの期間でしたが。上に一応その旨、報告をしておきます」
「いえいえ!上に言ってもそう変わらんでしょう!どこもそういうもんです。どうでしょう。私は七海さんと伊地知さんを信頼しています。おふたりとなら直接やり取りをしても大丈夫だと思っています」
「私達に依頼料やスケジュールを融通する権限はありません。ですよね、伊地知君」
伊地知にはスケジュールを融通する権限が多少あるが、わざわざ振るということは検討の余地無しということである。伊地知も頷いて、常に人手が足りない業界ですから。と同意した。
「それは理解してます。なので時間外や休日、おふたりのタイミングが良い時に副業的にご対応いただくのは難しいでしょうか?勿論、個人的にお礼をさせていただきます。お礼以外にも、私ホテル業以外にこういうサービスも手掛けておりまして……」
テーブルに乗る派手なパンフレットたち。露骨な賄賂に時間外対応。やり方の下手さにも、メインディッシュから湯気がなくなっていくのにも、明日に回された麻婆豆腐にも、七海はため息をついた。
「お気持ちは分かりますが、やはり私達では対応ができません。ですがご要望にお応えできるように、持ち帰って上と相談させていただきます」
七海はテンプレートのような返事を言い切った。不快感を隠さずに、むしろ全てが伝わるようにオーナーに最後の視線を寄越して立ち上がる。焦ってオーナーは何か言ったが、無視して伊地知を連れてホテルを出た。オーナーの要望を通すだけで、何人人死が出るか教えてやろうかと思ったがやめた。“言う”だけなら簡単だが、“教える”のには労力がいる。きっと今度ここに来るのは、七海よりもっと厳しい術師で、その人がきっとそれを“教える”。
駐車場に停めた車は山道を走って泥汚れがひどかったが、ご機嫌伺いのように美しく磨かれていた。伊地知はそれを見て、ずっと気が重そうにしていた顔をゆるませた。
「もし賄賂の話を祓除前に断ったら、傷だらけにされてそうですね」
「どうでしょうね。そこまでの度胸が彼にあるのか……。ところで伊地知君、すみませんが個人的な急用ができたので帰りの運転を変わってもらってもいいですか。速度違反はしませんので安心してください」


そして車を降りてからは、ほとんど走るような早足で自宅に戻った。しかし七海は玄関ドアを開けて、動きが一瞬とまった。玄関の明かりでフローリングが眩しいくらいに光っている。隅々まで拭き上げられ、ワックスまで塗られていた。みょうじの靴はすべてある。外出はしていない。
「みょうじさん、どこにいますか」
声をかけても返事がない。しんと静まり返った中に夕食の匂いはなく、その代わり酒の匂いがした。匂いの元は探さずとも見つかった。リビングのテーブルには日本酒の瓶が1本置かれていたからだ。
部屋の中は真っ暗だったが、唯一ついていたのはバスルームの明かりだった。風呂かと安堵のため息をつきそうになったが、そのドアは開け放たれている。
「……みょうじさん?」
「…………ななみさん?」
そっと中を覗くと、みょうじが少し赤い顔で掃除ブラシを握って、力なくバスタブに腰掛けていた。浴槽も床も、蛇口も、頑固な水垢が完璧に落とされ、床にはスポンジや布、洗剤が力尽きたように転がっている。
「ずっと掃除をしていたんですか」
「……まあそんな……かんじで……早かったですね。よかった」
「家入さんから頂いた、あのお酒を飲みましたか?」
「飲みましたねえ」
「何時頃」
「お昼くらいに……」
「それからこの掃除を?」
みょうじは頷く。
酔って掃除で良かったと、七海の長いため息がバスルームに響いた。
七海はみょうじから掃除ブラシを取り上げると、抱きかかえてソファに下ろし、テーブルの酒瓶をみょうじから遠ざけるように移動させた。
「このお酒は貴女にはかなり強いですよ」
「……なるほど……」
「水を飲んでください」
「なるほど……」
「なるほどではなく」
酒は甘口で度数の高い貴醸酒だった。みょうじは酒にまあまあ強く、同じ度数でもワインならけろりとしているだろうが、日本酒には弱いので早く酔う。この日本酒は、日本酒好きな家入が日本酒専門居酒屋に付き合った土産にと、みょうじに買ってくれたものだ。「たぶんこういうの、家にはないだろ」と彼女が言う通り、七海は酒は料理に合わせるか、単独で時間をかけてゆっくり楽しむ飲み方が好きなので、貴醸酒のような甘いものは家においていない。

ペットボトルの水を渡すとみょうじは受け取ったものの、ゆらゆらと揺れているだけだ。七海はみょうじを抱きかかえてソファに座りなおし、頭を支えて唇の間にペットボトルの口を差し込む。急に冷たい水が口の中に入ってきたせいか、みょうじは大きく目を見開く。
「あ、あ、あぶなかった……お、おかえりなさい。七海さん」
「ただいま帰りました……。確かに酒に酔って風呂掃除は危険です」
「え……?私、風呂掃除してたんですか……?」
聞けば、みょうじにはこんなに掃除をした記憶がないという。最後の記憶は七海のメッセージに返信をして、掃除機で床のゴミを吸った、という所までだ。みょうじは水を半分くらいまで一気に飲み干して、そのままずるりと彼の腿の上に仰向けに寝転がる。
温かい彼女の感触を受けて、七海はやっとすべての緊張がほどけた。七海もまたソファの背中にもたれて、天井を見上げる。
「七海さん、お尋ねしてもいいですか。七海さんはなんで今朝、キスしてくれたんですか?」
みょうじは腹筋だけで起き上がってくる。その動作のあまりのなめらかさに、七海はまたみょうじが強くなっていることを知る。
たっぷり数秒、ふたりは見つめ合って、七海は彼女への解答が見つからないということが分かった。
そして普段、彼女はこんなに自分に密着してこない。みょうじの目は薄暗い部屋のせいもあり、いつもより丸く大きな瞳孔が七海をじっと見てくる。目が離せなかった。答えの出ない質問を少しだけ忘れて、まるで黒くて温かい海のようなその中に入って、たゆたっていたいと感じた。

「……したかった、からです。ずっと。少し長い話ですが……。恐らく私の祖父と母が」
キスをすることは27歳の七海にとって、もう世の中が想像するほど特別なことではない。10代の頃は人並みにキスは特別なものだと思っていたが、父や母の年齢に近づくにつれ、初めてのキスは誰にもできていないのに、同世代よりキスを贈るというのは気安いものになっていた。
久しぶり、おはよう、おめでとう、いってきます。そういう時にしょっちゅう七海の額や頬にキスをしてきた、デンマークの祖父とその娘の母のせいである。キスはすでに、今の七海にとっては家族のみに贈る親愛表現という意味合いが強い。

「……だから、自然にしてしまったのだと思います」
尋ねられて思い出すまで、七海はみょうじにキスをしたことについて記憶が朧げだったことに気がつく。そのくらい衝動的でありながら、自然にキスをしていたのだ。
そしてなぜ今なのか。みょうじの疑問はその通りだろう。七海もまたそれが分からなくて、ひとつひとつ朝のことを思い出して、再現するように記憶を辿る。みょうじが家事当番の日だったので彼女が作ってくれた朝食を一緒に食べて、七海は出る時間が遅く、みょうじは休みだったから朝からたくさん話しをした。そして時間が来たからベッドを整えて、身支度をして、キッチンで夕食について話しをした……。

七海の腿の上から降りて、隣に座っていたみょうじが酒瓶に手を伸ばそうとしていたので、その手を制した。やんわりとした注意だが、いつもならそこで手を離すのに、七海の指は意思とは逆にそのまま彼女の指に自分の指を絡ませる。
「あなたと、キスをしたいと思っていました。けれど踏ん切りが、つかなかった。キッチンでやり取りをしているときに、その気持ちが……溢れたんだと思います」
上手く言い表せないのに、口から言葉がたどたどしく溢れる。みょうじを前にすると、七海は自分を律するのがとても難しくなった。
少しうつむき気味だった七海の頭が、不意に撫でられる。みょうじはやはりあの黒い瞳のまま七海を見つめていた。
「七海さんの髪の毛の後ろ、ぱさぱさしてちょっと跳ねてたの、好きだったんですよ」
「……聞いていましたか?」
「聞いてます」
七海はみょうじの手を好きにさせて、目の前の酒をもうみょうじに1滴も渡さず飲み干してしまおうと決めたときだった。
思い切りみょうじに引き寄せられて唇と唇が重なる。その柔らかさに今度は七海が目を見開く。朝に衝動的にしてしまった軽いキスでは分からなかったみょうじの唇の柔らかさが、部屋の暗さで研ぎ澄まされた五感に余す所なく伝わってくる。湿って、温かくて、柔らかくて、弾む。自分のものとは違う感触を追いかけそうになって、みょうじを抱きしめることで唇を離し、衝動を律する。
『指輪も買えてない。式もまだ、だ』
心臓がいつもより早く血をめぐらせる。体が熱い。
「それ以上はちょっと待ってください」
「七海さんの耳、熱いんですけど、キスに慣れてるのでは……?」
薄暗くてよかった。きっと今、私は首まで赤くなっている。そう七海は自覚した。
「アナタ、酔うと絡むタイプですね」
「いや、割といま、酔いはさめてます」
「ならどうして」
「私も七海さんを愛してるのと、私は動揺したのに七海さんはサラッとしてるので。なんかこう、なぁ…………なんかなあ……という。酔ってません」
いややはり、彼女は酔ってるな。と七海は思った。
「……さっきの言葉は取り消します。貴女のキスは私の家族がくれたキスとは意味が違うので、慣れていません」
みょうじは七海の肩口から逃げ出すと、七海の太腿の上に座って彼を見下ろした。あの黒い、たゆたっていたいと思った海がザワザワと波立っている。波にさらわれる、と思ってすぐ3度目の唇もみょうじからだった。甘い。酒の甘さではない。今まで七海が食べたことも飲んだこともない甘さだった。そして温かく、柔らかで、ぬるい湯に浸かっているように安心するのに、海流に飲まれたように腹の底がざわめく。
4度目は七海からで、その次からはお互いの唇の境界は分からなくなってしまった。

次の日の朝、みょうじは2日酔いを乗り越えるために頭痛薬を飲んだ。
七海がキスをした理由までは覚えていたが、その後は覚えていないらしい。七海に額へキスを贈られて「私からはちょっと……いや、嫌じゃないですよ。ちょっと、もうちょっと時間くださいよ」と笑いながら逃げるように出ていった。
七海はその姿を見送って、ゴミステーションに空の酒瓶を捨てて、家入にメッセージアプリから連絡を入れた。
『おはようございます。みょうじさんは日本酒を飲むと危険な酒癖が出ることが分かりましたので、あまり外で飲ませないようにしてください。』
そして理容室に行ってみょうじの言ったあの後ろ髪を作るか悩んで、保留にした。

2021-09-20 リクエスト作品
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