※渋谷事変がなかったIF

今日は珍しく五条さんが高専にいて、私も任務で扱う呪物が未着で手が空いていたから、2時間も体術の訓練をつけてもらった。七海さんや虎杖くんとの日頃の手合わせの成果が出たのか、「動きも良くなったし、戦術も上手くなってきた。これなら呪力を軽く乗せれば非術師相手には負けないね。体格差がある男でも、腕に覚えがある相手でも問題ない」と汗だくの私に対して、汗ひとつかいていない五条さんは軽い拍手を交えて評価をくれた。

定時を過ぎても待っていた呪物は届かなかった。到着次第すぐに着手して欲しいという案件だったので泊まりで待とうと構えていると、0時近くになって発送が明後日になると連絡が入った。待つ必要がなくなって帰宅のためにタクシーを呼ぼうとしたら、同じ方向へ補助監督さんが帰るというので車に乗せてもらった。
しかし私の自宅まであと2駅ほどの距離で補助監督さんに急用が入り、高専に引き返さなくてはいけないという。無理に送ってくれようとするのを断って、その場で降りた。
今晩はひどく冷え込んでいた。すれ違う人々が肩をすぼめ背中を丸めて通り過ぎていく。私の体もぶるりと震えて、タクシーを呼ぼうと顔を上げると、すぐ近くにあるタクシー乗り場には遠目でも分かるほどに人が溢れていた。金曜のちょうど終電がなくなった時刻。人も殺到する。吐いた息が白く街灯に照らされていた。

いつもは通り過ぎるだけの場所だったが、マップアプリで検索すると家までの道は入り組んでおらず、アプリ頼りに2駅分を歩いて帰った。
見知らぬエリアでも迷わずに家に帰りつけたこと、そして明日が休みだという達成感から、からぶった任務を忘れて上機嫌で体を休めることしか考えていなかった。
だから家のドアを開けて七海さんと出くわし、彼の顔を見た途端に、あ、と間抜けな声が出てしまった。部屋着の上に、仕事用のスーツに合わせるコートを羽織ったちぐはぐな七海さんは、明らかに急ぎの服装で少しこわばった顔をしていた。大きく見開かれ、それから細まった彼の目は、私を探しに出ようとしていたことを無言で訴えていた。

七海さんは私を部屋に入れると、廊下まで招き入れて言った。
「車内に傘を忘れていたと、アナタを途中まで送ってくれた補助監督から伊地知君を介して連絡がありました。約束しましたよね。降りた時点でなぜ私を呼ばなかったのですか」
外の気温より冷たい声に、歩いて温まった体温がみるみる下がる。
遅くなったら七海さんに迎えを頼むというのは、結婚してすぐに決まった約束である。だから連絡をしない理由はなかったが、それを選択しない理由はたくさんあった。
今日は約束をしてから初めて、夜になって急に帰れるようになった日だったこと。今まで迎えに来てもらっていた時間の中でも今日は特に遅かったこと。七海さんが一昨日からの出張から戻ったばかりで、金曜だから時間的にもうくつろいでいるか、寝た可能性を考慮したこと。今日はとびっきり寒いこと。そして最後にもうひとつあった。
「だいぶ体術が強くなって、非術師相手には負けないって五条さんに評価もらったんです。だから迎えの心配は大丈夫ですよ」
これが大きかった。これでひとつ七海さんの心配ごとが減るという朗報だった。浮かれていた私は、空気が重く、はりつめたものに変わっていたと、ここで気がついた。

「そういう話はしていません」
いつもより低い声は、内臓に石を詰め込まれたようにずしんと響いた。そして七海さんは私の手首をつかんだ。
「私も若干呪力を回しています。なまえさんも呪力を回して、全力で振りほどいてみてください」
手首に回った彼の手は痛くない。日常動作程度の力の入れ方で、戦闘時の3分の1も呪力を回していない。それなのに一切その手を振りほどけなかった。

「できないのは単純にアナタのパワー不足です。ですが五条さんが言ったとおりアナタはもう非術師には負けないでしょう。負けない、だけです」
急いで脱いだパンプスが玄関で倒れる音がした。スエード生地のせいで音は小さかったが、まるで七海さんを刺激しないために気を遣っているようだった。
「常に呪力で身を守っているわけではありませんから、真夜中に刃物を持った非術師に不意をつかれて襲われれば、私だって怪我を負う可能性はあります。それなのに2級のアナタが不意をつかれて無事に帰れる保証はありますか?」
リビングの明かりだけが、ぼんやりと七海さんの輪郭を照らす。
七海さんには2パターンの振る舞いがある。配偶者としての振る舞いと、指導者の1級術師としての振る舞い。後者はいつも命に関わるからと指導も指摘も手加減なく厳しい。ただこの振る舞いを彼は家でほとんどしたことがなくて、私は動揺していた。
「保証があるのですか?」
手を離される。七海さんは廊下の明かりをつける。影が取り払われた彼の表情は険しく、眉間には皺が深く刻まれて、伏せた目の中の眼光は鋭く私を見下ろしていた。いつもは存在をシャープにみせている彼の骨格は、顔の表情を際立たせる装甲のように見える。

全ての会話を終えた今なら簡単に分かる。七海さんは心配してくれていた。けどその時の私は、自分の強さが大したことないと分からせられた失望。七海さんがいる家に帰りたかっただけで、結果は無事だから、もう許して欲しいという感情。約束を守らなかったことへの後悔と反省に追い詰められていた。しかし頭のごく一部はひどく冷静だった。
なんと答えようかと私はそこで考えていた。言葉だけの謝罪に意味がないのは、任務現場で呪詛師や悪意を持った非術師を詰問する彼の姿を見て知っている。
話を振り返りながら頭を回していると、論点のずれたあるひとつが首をもたげる。そしてそれが、今日の私の選択は間違っていないと叫ぶ。

「なまえさん」
「ないです。保証はない。でも七海さんが私を迎えに来る途中で、刃物持った一般人に刺されたら私はどうすればいいんですか。それは嫌です。私が刺された方がマシだ」
答えを急かす七海さんの言葉に、反射的に返事をした。
七海さんが私に無い保証を要求するように、七海さんにも保証はない。彼自身が怪我を負う可能性はあると言ったのだから。しかし自分で言って怖くなった。七海さんが私を迎えにくる途中で刺されたらどうする?それを考えると、なぜか肩に鋭い燃えるような痛みが走って意識がそちらに持っていかれる。
「そういう、話では」
七海さんの平坦で低い声色が少し高く、いつもの口調にまで揺れた。あきれられたか、失望されたか。心臓がわしづかみにされたみたいな感覚だった。
「す、すみません。話をずらしました。心配してもらってるのはわかります。本当にすみません……次からは……遅くなったら帰らずに、必ず、絶対に、高専に泊まるんで。ここにはもう帰らないので……今日は、頭冷やすんでこっちで寝ますね」
廊下のすぐそばの、開け放っていた自室に入る。ドアを閉めて勢いで鍵までかけた。鍵をかけたのは初めてで、思いの外大きい施錠音にびくついてしまった。

七海さんはドラマでよくある、不幸なすれ違いを起こさない。
例えばAとBが一緒に歩いている所に、Aと付き合っているCがそれに遭遇する。Cが浮気だと勘違いし、Aは「待ってくれ」というがCは走り去ってしまう。
そういうよくある場面で、七海さんがAだったらCを全力で追いかけて、捕まえて、Cが状況を理解し納得するまで説明するだろう。そういう人なのだ。勘違いがあったらその場で適宜確認を取り、要領を得ない意思疎通は避ける。私も根っこはそのタイプなので今まで上手くやって来られたが、今の頭では、話の筋道ひとつ立てられなかった。だから逃げた。これ以上まぬけな反応をして、失望されたくなかったから。七海さんのことを尊敬している。配偶者であるまえに、人として。だから彼に失望されるのは、私にとって痛みを伴うほどに辛い。

▼ ▼

真っ暗な部屋で、起きたことを思い返す。電気をつける気にはならなかった。
別々に寝る必要ができた時のために買っておいて、まだ1度も使っていない布団をクローゼットからひっぱり出す。腕に力が入らず、布団は重力に引かれてぐんにゃりと折れ曲がって床に落ちる。これを今から部屋の真ん中まで持っていって、クローゼットにまた戻って新品のシーツを探して、シーツをはって、枕も探して……。
その場で布団に倒れ込む。端が丸まって、いい感じにできた段差に頭を乗せる。

呪霊を避けるには人を避ける必要があり、人を避けるためには過度な協調も孤立も良くない。適度に人当たり良くやる必要があった。誰の心も大きく動かさない人付き合いを、呪霊が見えるようになった中学生の頃から初めてもう10年近く。高専に来てやっとそれをやめられた。好きな人ときまりが悪くなったら、謝るのはもちろんだが、そこからどうやって仲を修復してたっけ?昔はできていたはずなのに。

ドアの下の隙間から漏れていた廊下の明かりが消えて、リビングに向かう足音がした。
どっと襲ってきた感情の疲れに押し流される。視界半分は部屋の天井、半分はクローゼットの天井。どちらも見慣れない景色だ。
「言い訳がましいけど、ただ七海さんにゆっくりしてほしかっただけなんだよな……」
問題があったらその場で解決してきたから、翌日に持ち越すのはほとんどない。結婚して3ヶ月、こういう小さな積み重ねが、離婚に繋がるんだろうか。……明日、朝イチで謝ろう。部屋は寒くなってきたが、暖房のリモコンを探す気になるはずもなく、なげやりに脱いでいたコート被って眠りに落ちた。

▼ ▼

眠りが浅く、聞き慣れない音に目が覚めた。耳をすますが音は何もしていない。夢におこされたのだろうか。ドア下の隙間からは廊下の照明が漏れている。時間は最後に時計をみてから1時間ほど経っていた。七海さんがお手洗いにでも立ったのだろうと、また横になろうとした時だった。
ドン、と部屋が揺れそうなほど大きな音がした。その後に聞き慣れない、細い硬いものがすれ合うような、パリ、パリパリと乾いた軽い音がする。
夜間工事?そんなお知らせ見てないけど、あまりにも音が近い……マンションのそばで事故でも起きたのかもしれない。音がしたドアの方をもう1度見上げたときだった。
ドン、とさらに大きな音がして、ドアの真ん中に光の筋ができた。バリバリ、ギチギチ、ミシミシと木が悲鳴を上げる。事故はそこで起きてる。なにかがドアを、分厚いドアをベニヤ板のように破壊して、廊下の光がその隙間からどんどん溢れている。
「うわ、わああああ、ああ!?」
フィクションではよくあることだが、現実では1度もない非日常が目の前で突然起こっている。寝起きの頭に、ドアがど真ん中から破壊されるというイベントを剛速球でぶつけられ混乱し、私は悲鳴というよりはジェットコースターのてっぺんから落とされたような声を上げていた。

「なまえさん!?意識があるんですか!?」
聞き慣れた声がドアの向こうからした。七海さんが「鍵を開けてください!」と言う。疲れていた体に嘘みたいにアドレナリンがみなぎって、転がるように走ってドアを開けると、ドアに七海さんの鉈がぶっ刺さっていた。シャイニングだ。
座ったまま鍵を開けた私に、七海さんは膝をついて目線をあわせてくれた。降りた前髪がぱらぱらと揺れていて、あの廊下での顔つきとはまるで別人だった。感情で表情を大きく変えない人だけど、まるで美味しい食事をしているときと、悲しい映画を見ているときのちょうど中間のような表情だった。

「体調はどうですか」
「え、な……?大丈夫、です」
「なまえさんを責めてしまった時に、最後の方は貴女の顔色が真っ青だったので……責めすぎたか、あるいは体調が悪かったのではないかと。普段なら、2、3回呼びかけるだけでなまえさんは起きるのに5分以上呼びかけても起きないので……」
「でもドアぶっ壊します?」
「ブッ壊して貴女の無事が確認できるならやりますよ」
「……その。約束やぶってすみません。心配してくださってありがとうございました」
「違います、私が責め過ぎました。すみません。…………抱きしめてもいいですか」
両手を広げたら、痛いぐらいに抱きしめられた。七海さんは私の肩に顔を埋めて続ける。
「……準2級術師が、任務先に向かう途中で不意をつかれて非術師に刺されたという情報が今朝、共有されました。重症を負ったのに、上は気の緩みだけで片付けた。職業柄、逆恨みをされてこういうことはたまにあります。……そのせいで過敏になっていました」
「上も、刺した非術師も、本当にクソですよ」
七海さんの口真似をすると、彼は小さく笑う。そして私の存在を確かめるように背中や頭をさすって、首や額を唇で撫でていき、また最後にぎゅうぎゅうと抱きしめられた。ふと、いつもと違う肌ざわりを感じる。部屋着とはほど遠い、目がつまった肉厚の硬い感触。七海さんはまだコートを着ていた。
「もしかしてずっと起きてました?」
「……ここに帰らない、と言われて、自分でも驚くほど動揺しました。おかげで全然眠れません。だからベッドで寝てください」
「え、あの言葉でそんなに!?」
「アナタは寝ていたみたいですね」
「浅く!ちょっと!!あと七海さんが思ってる意味ないで」
「それは分かっています」
七海さんは言葉を遮って、もう1度同じ言葉を繰り返して立ち上がると私の手を引いた。
どんな仕事でも先が読める人が強い。七海さんはきっと私には思いつかない先まで考えたんだろう。彼を休ませたくてしたことが、余計に疲れさせてしまった。
「ドア、なんて言いましょうか」
「……はしゃぎすぎた、ということにします」
今度はふたりで笑ってしまった。

ベッドに入ると、すぐにいつもより大きく、ゆるやかで深い寝息が聞こえてきたが、私を抱きしめる腕の力はいつもより強かった。
七海さんの背中に腕を回す。前に伝えて首をかしげられたけど、青々とした広大な森のように凹凸を繰り返す広い鍛えられた背中は、手のひらと同じで柔らかくしなやかで、その中には岩のような肩甲骨がある。
七海さんと話している時に、急に走った肩の痛みの理由を思い出した。安心できる場所に横たわったことで、頭がさえて来たのだ。
彼と組んで最後に受けた喫茶店の任務で、肩から肘までナイフで切り裂かれたときに最初にナイフを刺し込まれ、最も深く刺さった場所だった。
七海さんには非術師の刃物が刺さると彼自身から言われたことは、血の気が引くほど恐ろしいことだった。キッチンにある昨日研いだばかりの包丁が思考に割り込んできて、ぶるりと震えた。
自分が強くなって、彼の強さがより解るようになると、私は鼻血が出ても、骨が折れても、私でこの程度なら七海さんは無事だと思うようになった。凄惨な現場に遭っても、呪霊が見えるようになってから学長に出会うまでの約10年間、やり過ごしたと思っていた孤独や疎外感が遅効しても、殺されたおねえさんのことを“過去”にしようとしている自分への言葉にできない不快感に気がついても、前ほど感情を動かされにくくなった。
今日も明日も変わらない幸せな日常が、七海さんのいるこの部屋にだけはあると信じ初めていたから。
ただ漠然と、無性に帰りたくて帰ってきたけど、無理をしたのはこの感情のせいだったのかと理解する。同時に、七海さんが無理に私を前線から下げるために結婚を持ち出した感情を思い知る。こんな自分より薄っぺらで頼りない体が、自分でさえ怪我を負う前線に出るのを見続けるのはどれだけ神経がすり減るだろうか。

こうやって私は時々、七海さんの感情を追体験する。その度に七海さんへの愛情と思いが強くなる。死んでほしくない、と。ただ生きて幸せでいてほしいと。この感情もまた、七海さんが五条さんに語った私への気持ちにあった。そして七海さんは私との結婚を選んでくれた。じゃあ私は七海さんに対して何ができるのだろうか。
七海さんが愛してくれる以上に彼を愛して、そして彼の死の確率を0.01%でも下げる。これしかないだろう。
『遅くなったら帰らずに、必ず、絶対に、高専に泊まる。』
これは逃げるために出た言葉だったが、あながち間違ってはいなかったな。
私もまた抱きしめる手が強くなる。匂いと、心音と、体温を感じて出た涙をシーツに染み込ませて眠った。
世界中の呪霊が、祈るだけで消えればいいのに。昔、毎晩思って、そうならないからやめたことを、祓う力を持った今になってまた祈り始めている。ただ頭に「七海さんのために」にが追加されたけども。

2021-09-04 リクエスト作品
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