※名前付きモブがでます

確かに地図の通りの場所に店はあった。
最近塗り替えられた看板がなければ、時代に取り残され疲れきった商店にしか見えない。脹相は手元の地図を丸めると地面に捨てる。音もなくそれは転がり、ガードレールの下をくぐり抜けて川に落ちた。

引き戸を開けると室内には所狭しと商品が置かれていた。中は狭く壁にそって商品がいくつも積み上がり、中央のガラスケースにはピックアップされた商品が飾られているが、そのケースの上にも商品が積まれている。そのわりには空気が淀んでおらず、ほこり臭くもない。多くの人間は手入れがきちんとされている古書店を思い出すだろうが、彼にとっては空気や店の纏っている風合いなどどうでもよく、視覚情報があまりに多すぎる店としか思えなかった。
だから店の戸を開けた時点でひどくうんざりした気分になり、平坦な眉間に深く皺が刻まれた。他の店と同じく適当に手についたものを持って出て行きたかったが、そうはいかない。

「店員を殺してはいけない。ものを盗るのもだめだ。あそこは品揃えがいいし、買ったもののルールは聞かなければ分からないものが多い。店員が珍しく説明がうまくてね、こちらにストレスなくものを伝えることができる人間というのは貴重だよ。他の店を探すのは面倒だし、当分はあそこで買い物をしたいからね」

そう夏油に釘を刺されていた。
店内には日焼けしたパッケージから、最近入荷したことが分かるハリのあるビニールフィルムが貼られたものまで様々なボードゲームがひしめき合っていた。脹相は戸から一直線の灰色の通路を突っ切る。道は狭く、服の袂が商品を次々撫でて行く。


脹相がこのボードゲーム店に足を運ぶことになったのは、真人が気に入っていたボードゲームのコマを脹相が壊したせいだった。
夏油がこの店に新しいものを注文したが、到着日の今日は夏油には用事があって受け取りに行けない。真人はしつこく急かしてくる。だから脹相が夏油の代わりに商品を取りに行かなければならなかったのだ。
「おい」
店の1番奥まで行き、教えられた通り無人のカウンターへ声をかけると、カーテンの向こうから若い女性が出てきた。彼女は脹相の姿を見ると一瞬目を丸くしたが、すぐに愛想のいい笑みを浮かべて脹相が無言で差し出したメモ紙を受け取る。
「ヤマダさまの商品を取りに来られた方ですね。少々お待ち下さい」
彼女はもう1度奥に引っ込む。脹相が店内を改めて見回すと様々なパッケージが目についた。和風、洋風、アニメ絵、ロゴのみ、商品写真が載っているだけのもの。ガラスケースの中にディスプレイされているものにはポップが付いている。ポップの発色と字の丸さが相まって全く読む気にならなかったが、初めて見る大量のボードゲームには好奇心をくすぐられた。
長いこと狭い封印の中に閉じ込められていたのに、受肉してしまうとあの時間より遥かに短い時を持て余している。だからボードゲームは彼にとって戦闘知識を増やす一環であり、今1番の暇つぶしだった。

「おまたせしました、こちらですね」
大きな平べったい箱を持って店員は戻ってくると脹相に内容確認のために見せるが、勿論彼はそんなことどうでもいい。彼は一瞥して「そうだ」とあしらい、また店内を見回した。
「なにかお探しのものがありますか?」
「……ルールを覚えるのが面倒でなくて、2人でできるものをくれ」
ボードゲームの管理は基本的に真人が行っており、なにかするとなると必ずそこに真人が入る。脹相は時として彼と非常にそりが合わない。それは彼の気質であったり、ゲームのプレイスタイルだったり、ゲーム中の発言だったりした。2人でやれるゲームを自分で持っていれば気が向いた時にしたい相手を1人選べばいい。誘う前からプレイ中まで始終穏やかな花御でも、誘う前は悪態をつくものの夢中になればゲームを楽しみ、良い相手になる漏瑚でも。
「小さな子供さんが分かるくらいのレベルがいいですか?」
ふっと脹相の頭に陀艮が過る。
「そのくらいがいい」
「承知しました」
店員はカウンターから出てくると商品を次々平積みの山から抜いていく。その淀みなく進む選択があまりに早かったので、適当に選んでいるのではないかと脹相が感じたほどだ。店員はカウンターにボードゲームを積み上げ、そのうち1つをカウンターを挟んだお互いの目の前に下ろし、ビニールを剥がして彼に中身を見せた。
「まずこれはですね、バックギャモンといいまして……」

最初はカウンターに乗せられたこの全てのゲームのルールを、この女の口から聞かされるのかと脹相は辟易した。しかし話を聞いているうちにその説明にのめり込んで行く。何に使うか分からないコマ、華美で理解できないカード、壊しそうな貧弱なパーツ。そのすべての使い方を店員は過不足無く説明していく。
脹相には現代の知識がある。ただそれは受肉の際に得たもので自らの体験ではない。自転車に乗る動画をずっと見せられて自転車に乗れる気になっているが、実際はどのくらいの力をいれて漕げばいいかは分からないように、彼の知識は経験を伴わない。だからたまに情報吸収にタイムラグが起きることがあった。
しかしそんな彼でも1度で分かるように説明を終えた彼女に対し、成程便利だと彼は顔に出さず夏油の評価を理解した。

「全部貰おう」
「いいんですか!ありがとうございます。ビニールをかけなおして来ますね」
「いや、そのままでいい」
会計されて出た金額を見て、脹相はまた眉を顰める。夏油から預かった財布の金が足りないのだ。店員を殺してもいけない。盗ってもいけない。ぴくりと動いた中指を止める。
「お金が足りませんか?」
「ああ。取ってくるから少し待ってろ」
脹相は店を出ると、通りを右に曲がり、川沿いを道なりに歩き、店からすぐのコンビニから出てきた男の首をはねる。残った体が脱力して倒れる前にポケットからはみ出ていた財布を抜き取り、昨晩の雨で増水した川に今度は自分で男を投げ入れた。


2人で遊べるボードゲームは、彼の要望にぴたりと合っていた。
そして別の問題が立ちはだかった。相手になる花御や漏瑚がゲームにのめり込み過ぎたのだ。
『人間が作ったものにしては非常に良くできていますね。これらの遊戯の楽しみの本質は、勝ちまでの道筋を思考することでしょう』と花御は言い、「待て。まだ次の手を考えている。次は必ず勝つ」と漏瑚はそっぽを向く。
脹相が買ったボードゲームはサイコロ任せで運要素を楽しむものではなく、戦術を考える脳内での展開こそがその娯楽の本質であった。これにより、ゲームの負けは思考力が相手に劣るということをまざまざと証明する。
最近になって戦闘の愉悦を知った花御と、本気になると手がつけられない漏瑚は、次の手が決まるまで脹相とボードゲームを再開してくれなかった。その間は、否が応でも真人と時間つぶしをしなければならない。

▼ ▼

「もっと考えないゲームをくれ」
「難しいお話ですね……」
「それか……1人用のものはあるか」
「もちろんありますよ!」
店員がまたボードゲームを用意しにカウンターを離れる。脹相はそれを待ちながらぼんやりと視線をさまよわせていると、カウンターの脇に積み上がった山の中に知っているものを見つけた。
「オマエ、将棋は指せるか」
「できますよ」
店員は戻ってくるとボードゲームの塔から上も下も崩さず、器用に「将棋」と脇に書かれた箱を抜いた。
「将棋は入荷するとすぐ売れてしまうんですよね。いろんな世代に人気がありますから」
「1局、俺とやれ」
「私がですか?」
「ああ。オマエ、名前は何だ」
「みょうじです」
「みょうじ、オマエが先でいい」

将棋は経験を伴った知識として脹相の中にあった。遠い昔にこの世に産み落とされた時に、経験として積んだ少ないもののなかに将棋はあった。将棋は好きだったが駒の動きなどのルールを他人に教えるのは面倒だった。花御や漏瑚は知っている可能性が高いが将棋は思考を楽しむボードゲームの代表格で、どうなるかなど考えなくても分かった。
みょうじは言われるままに駒を並べ、ゆるやかに歩を1歩進めた。

5分後。脹相はみょうじに惨敗した。みょうじが飛び抜けて強いわけではない。脹相は駒の動かし方を思い出すので精一杯だった。
「次だ」
「いいですよ」

さらに15分後。脹相が負けた。
「次だ」
「いいですよ!」
彼は結局その日、6局やって1度も勝てなかった。


その日から脹相は足繁くボードゲーム屋へ通うようになった。
彼に取って勝敗はどうでもよく、文句を言わず何度も相手をしてくれる存在、それこそが今ボードゲームより必要な相手だった。朝と昼は住処で過ごし、夕方はボードゲーム屋に行き将棋を指す。それが生活サイクルになるのには時間はいらなかった。
脹相がボードゲーム屋へ初めて訪れた時から2週間が経ち、対局数は20を越えた。陣形などの知識を思い出し、さらに思考のためのひと晩を挟むことで1局が徐々に長くなる。
夕方のボードゲーム屋には客は来ず、カウンターを挟んでふたりは交互に駒を差し合う。たまに走っていく子供の声がする。猫が通りすぎる。考える時に口元に当てた指に、乾燥した唇がはりつく。そんな中、ふと脹相は気がついた。

「この店は潰れないのか」
「え?」
突然の質問にみょうじは驚いて駒を落としそうになった。
「誰も来ないな。俺には都合がいいが」
「来てはいるんですよ。午前中とか、週末のお昼とか。平日の夕方に来る人がいないだけで」
「潰れないんだな?」
「大丈夫だと思いますよ」
みょうじは1手指す。
「オマエは昼間、何をしている?」
「大学に行ってます」
「学生だったのか」
「はい、ここは叔父が趣味でやってる店で。バイトです」
「もっと長い時間ここにいられないのか」
「……ルール変えます?」
「そういう意味じゃない」
対局数が30を超えた頃、みょうじは脹相に提案をした。
ヤマダさんが勝ったら将棋は終わりにしましょう。将棋盤ごと記念に差し上げますよ、と。対局に飽きて体よく断るための提案かと脹相は思ったが、そうではなかった。手を抜く様子もなく、みょうじは脹相を何度も負かしていく。脹相が成長するにつれてみょうじもまた成長する。先に伸びた線に、なかなか追いつかない。

▼ ▼

昨晩眠る間際に思い出した囲いについて考えながら脹相がボードゲーム屋に出かけようとすると、ロッキングチェアに座って読書をしていた夏油が顔をあげる。
「店に行くのかい?」
「あぁ」
「真人が読みたがっている本があるんだが、取って来てもらえないかな」
「構わん」
夏油は椅子から立つと、テーブルの上のメモ紙に本の題名を書いた。
「脹相は随分あのボードゲーム屋が気に入ったみたいだね」
「店員の女は将棋が上手い。相手として退屈もしない」
「もしかして気に入った?」
極めて不愉快そうに顔を歪めたのを見て、夏油は笑った。

そんな昼のやり取りを思い出しながら、脹相は目の前のみょうじを見つめる。
いつもと同じ白いブラウスに濃紺のデニム。赤いエプロンを着ている。その姿にはひとつも惹かれるものは無い。
「その顔わかりやすいぞ」
「そうですか?」
「次は負けんからな」
「アハハ」
脹相34敗目。
みょうじには癖があった。良い手が見つかると、いつもの愛想笑いから心底嬉しそうな顔つきに変わるのだ。脹相はその顔を見るたびに、また俺は負けるのかと駒を指す手が強くなるが不思議と嫌ではない。指すほどに新しい戦術が浮かぶ。そしてそれを試したい相手がいる。未だ飽きない遊び。尽きない欲求。暇潰しが今やきちんと娯楽になった。
しかし35局目。60手ほど指した所でも、未だいつもの顔つきがみょうじから出てこない。脹相有利で対局は進んでいる。
(……次の手はここ1つだろうが……)
ここでみょうじの持ち駒の歩を脹相の角の前に刺さなければ、彼女の陣形は数手先で崩れる。脹相は苛立ちながら目をそらすように時計を見上げた。いつも滞在する時間より2時間も長く居座っていて、それに気がつかなかったことに驚く。視線の端で白い手が動く。みょうじが刺そうとしたのは全く別の手だった。
脹相は反射的に彼女の手を掴んでいた。手首は細く、少し力を入れれば折れそうで、親指が触れた彼女の血管はどくどくと脈を打っている。

「オマエ、そんな悪手でこの時間を打ち切る気か?」

みょうじは驚いて目を見開いた。彼女の表情を見た瞬間、脹相もまた困惑した。
この女がはただの店員だ。それ以上でもそれ以下もない。それなのに、この気分は何だ?
何でもない、と言って手を離そうとした時、立て付けの悪い戸が大きな音をたてて引かれた。その音に驚いたみょうじの肘が反射的に将棋盤にぶつかり、駒が床に落ちる。
「あ!!す、すみません!並べ直しますので!岬州さん!少し待ってくださいね!」
脹相が振り返った先には若い男が1人立っていた。年はみょうじと同じくらいだった。
岬州と呼ばれた男はへらりと笑って2人の方に来ると、駒を拾うみょうじを手伝おうとしゃがむ。
「みょうじちゃんは将棋も指せるんだ。俺ともやろうよ。多分結構強いよ」
「そうなんですか。今度やりましょう」
脹相は眉を顰めた。突然入ってきた男に対してみょうじが盤上にて最良の手を思いついた時の様に笑っていたからだ。そして今まで持ったことのない感情を感じた。怒り、苛立ち、焦り、不快。もっと別の何か。
「みょうじ」
「はい?」
「俺の名前はヤマダじゃない、脹相だ」
脹相も自分の足元の駒を拾う。塵ひとつなかった床が男の靴にこびりついていた砂利で汚れて、駒は灰色にくすんでいた。脹相は駒をカウンターに乗せると、また来ると言って店を出ていった。拳は強く握り込まれていた。

▼ ▼

次の日、脹相が店に向かうとシャッターが降ろされていた。雨ざらしの塗装が剥げて錆びついた丸椅子に、いつものエプロンではなくブルゾンを羽織ったみょうじが座っていた。ぼんやりと向かいの川を見つめる表情は、どこか浮かない様子だった。

「今日はもう閉めたのか」
「脹相さん!お会いできてよかった!」

みょうじは椅子から立ち上がると、早仕舞いの経緯を話した。
向かいの川の下流で、昨日来ていた岬州という男の死体が上がったこと。捜査のために川をさらったら他にも死体が何人も上がったこと。物騒だから早めに閉めようと叔父が昼にシャッターを下ろしたが、脹相が来るのでこの事を伝えるためにここで待っていたこと。

「ところで、昨日のあの男はなんだ」
「その方がその岬州さんなんですけど……。近くの学童のスタッフさんです。子供さん用のボードゲームを買いによく来てました」
「……そうか」
「脹相さんも早く帰られたほうがいいですよ」
脹相は返事をせず、普段の雰囲気とは違うみょうじを頭の上からつま先まで見た。彼の視線を追うように、みょうじもまた彼の姿を見る。
「……あの、前からお尋ねしたかったんですけど。ヤマダさんと脹相さんはどういうご関係ですか?お仕事仲間とか?」
「なんのだ?」
「モデルさん……とか?」
脹相は財布がしょっちゅう変わるし、和装も髪型も奇抜なのにそれが馴染んでサマになっている。ヤマダと名乗る男も額に縫い目のペイントをしているのに、受け答えは上品で穏やか。時々袈裟を着ているが、その方面の仕事ではないという。表情も受け答えも雰囲気も違うが、2人には不思議とどこか同じ所で生まれ育ったような印象があるとみょうじは感じていた。
「違う。利害関係で一緒に住んでいるだけだ。それ以外はなにも無い」
「ルームシェアされてるんですね」
否定するのも面倒だし、どう説明するかも今は浮かんで来なかったので脹相は返事をしなかった。
「昨日落とした盤は元に戻せたか」
「……すみません。半分くらいしか。それに王将がどこかに行ってしまって」
脹相は袖の下を弄り、みょうじの前に拳を突き出す。みょうじは一瞬反応が遅れたが、理解して拳の下に手を出す。緩んだ拳から落ちてきたのは王将の駒だった。
「あ!そこに入ってしまったんですね」
「……邪魔が入ったからゼロから仕切り直しでいい。俺は明日、店に来られない。次に来られるのは明後日以降だが、当分早仕舞いか」
「そうですね、恐らく1週間くらいで元の時間に戻ると思います」
「解った」
「……では、さようなら」
みょうじは軽く頭を下げると去っていく。彼女の姿が脹相が最初に財布を取った男と出会った位置まで行った時、脹相は彼女の名前を呼んだ。
「みょうじ。明日の夜は渋谷に行くなよ」
みょうじはその言葉を毎年ハロウィンでごった返す渋谷への警告と解釈し、いつもの愛想笑いではない笑みを浮かべて頷いた。

2020-09-05
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