※120話if後の話

目頭を押さえると暗闇の中で白い光が明滅する。ただそれを見つめてやり過ごし、手探りでお弁当箱をあけて目を開くと、暗褐色ばかりが並ぶ部屋には無い彩りが詰められていた。
箸を割ったと同時にノックの音がする。返事をすると黒髪を結びながら家入さんが入ってきた。後ろに髪を束ねると青白い隈がはっきりと出て、物憂げな雰囲気が整った顔を引き立てた。
「美味そうじゃないか」
彼女は横に腰掛けるとバインダーを机上に置いて、お弁当を眺めた。
「七海が作ったのか?」
「そうです。リハビリも兼ねて」
「それはいいな。家事は手の複雑な動きを網羅するから。しこたまやってもらえ」
「七海さんもそう言ってくれたんですけどね、全部の家事を人にしてもらうのは逆に落ち着かなくて、料理と掃除が七海さんであとは全部私ですよ」
「ふぅん。家事代行に全部任せている私には無い罪悪感だが……。でも一緒に住んでる相手がいるならその考えは健康的だよ。それ昼食か?もう大分過ぎてるぞ」
「今日は忙しくて……なかなか」
「……もう1つ包みがあるが、それは?」
「夕飯です。最近家で夕飯を取れてないので作ってくれました」
「へえ、七海は暇してるのか?」
「下手したら私より忙しいかもです。高専に手が足りないのを七海さんも知ってるので積極的に仕事取ってて、リハビリやトレーニングもしてますし」
「暇という回答を期待してたんだけどな、療養中だろ」
硝子さんはため息をついて持ってきたコーヒーを啜った。

七海さんは渋谷での大怪我が日常生活を送れる程度まで回復した。今は呪術師を引退前提で休職して、火傷痕の残った左腕のリハビリと左目が無い生活に慣れる傍ら、在宅で高専の書類仕事を請け負っている。渋谷で多くの補助監督が亡くなったので、七海さんは毎日山のように送られてくる仕事をさばきまくっていた。
家には新しくパソコン用のモニターが2台増えて、複合機までやってきた。七海さんは自分の机を見るたび、昔を思い出しますね、とうんざりしたような声を出すが仕事には全く手を抜かない。9時きっかりに始めて、18時ピッタリまでやっている。
「なるほどな……なまえも脳をあまり使いすぎるなよ」
渋谷の事件で七海さんを救出した時、私は他者を囮にした遠隔攻撃という自分の術式を理解した。
初めてできた理由は感情の大きな揺れか、限界まで追い詰められたせいか、発動できる素養に偶然あの時至ったのかわからないけど、格上の呪霊を大量攻撃したせいで事件から2週間近く意識不明だった。目に見える後遺症はなかったが、前と違って術式を使うと脳が疲れて瞼が落ちる。眠気とは違い、考えがまとまらず視界が暗くなり、小さな光が頭の奥で弾ける。

「それが渋谷の後遺症か、そもそもなまえの術式自体が脳に負担をかけるものかは、もう判断がつかない。呪術と脳の関係は未だ解明できていない。MRIで見た限り脳に問題はないが、術式の高度な使用はやめておいた方がいい。ただこれは高専医師としての意見で、友人として言わせてもらうなら七海を助けるのに使ったような術式は1日1回にしておけ。単純な呪物を介した探索も視界がおかしくなったら即時中止しろ。任務でもだ。そこは負担をかけていい場所じゃない」
入院中、私の部屋を訪れてくれた硝子さんはそう語った。私が高専に戻ってからも毎日顔を見に来てくれる。

今日も目や体の動きを診てくれて、脳におかしな兆しがないか確認し、バインダーの書類に記録した。
私は昼食を再開する。七海さんは在宅業務が決まってから、家で自分の分だけ昼食を作るのは面倒だし、リハビリにもなると、彼自身のと私のお弁当を作るようになった。最初は昨晩の夕食のおかずがメインの簡単なものだったが、元々自炊が趣味だったせいで七海さんはどんどん趣向を凝らし初め、中華、フレンチ、イタリアン、和食とコンセプトが日替わりになって来ている。
一昨日なんてかなり難しい顔でタブレットを睨んでいたので、リハビリが順調だから現場任務を受けようとしてるんじゃないかと心配したら、コックコートを着て崩し気味の腕組みをした、絵に描いたような星持ちシェフがにこやかに笑うレシピ本を見ていた。シェフの隣には『タコス、その真髄』と大きく書いてある。タコスの真髄がお弁当に入る日も近い。しかしなぜ有名なシェフは高確率であの格好を取らされてしまうのか。

「それ、七海が作った卵焼きか?」
「そうです。食べます?」
硝子さんはひとつつまむと、いい寿司屋で出るヤツじゃん……と呟いた。
「そういえばマレーシアの移住の話、進んでるのか?」
「順調に。今はMM2H申請に必要な書類を集めてる所ですね。代行会社使わないので、1年くらいかけて準備していく予定です」
「MM2H……?ああ、長期滞在ビザだな。……そうだな、それだけあれば七海も火傷痕の扱いに慣れるだろ。あっちでの病院は冥さんに紹介してもらえ。あの人とは上手く行ってるか」
「はい。意外と話しやすい人で驚きました」
「よかったな。冥さんは金を持って来そうな相手には優しいんだ」

渋谷で七海さんは治らない怪我を負った。1級術師としてはもう前線に出られない。だから七海さんの昔の夢を叶えるためにマレーシアへ移住を決めた。
海外の物価の安い所に移住して、誰とも、何事とも無縁の暮らしを送る。
私の知らない頃の七海さんが持っていた夢を、死の間際に思い出したと彼は病室で語った。
渋谷の事件でお互いがお互いのことを、この人は帰りたくても死にたくなくても、結局死ぬまで術師をやると思い知らされたから。七海さんは私のそういう所を早々に見抜いて、結婚をもちかけてまで生き方に介入してくれたんだなと、今になってこの結婚をすべて理解できた。
だから今度は世界から、ふたりで引き剥がされないといけない。今までの生活を捨てる不安や戸惑いは、七海さんが死ぬと感じたあの時の恐怖を思い出せば少しも抵抗にならなかった。

「冥さんに紹介してもらった現地の建築会社はどうだ?」
「そっちは七海さんがやり取りしてて、かなり盛り上がってます。相手の社長と趣味が合うみたいで。希望の土地に空き家があったんで今はリフォームの相談をしてます」
「客間は作ってくれよ。やばくなったら私が逃げ込む。食事があうといいな……」
「マレーシアはイオンもセブンも伊勢丹もあるんで大丈夫ですよ」

術師を辞めてマレーシアに行くことを最初に相談したのも硝子さんだった。
彼女は返事として、クアラルンプールにいるフリーの呪術師の冥冥さんを紹介してくれた。連絡を取ってみると、彼女はこちらが困っていたことをすでに知っていたと言わんばかりに、マレーシアで住む家の買い付けからリフォーム関係の業者手配などを一気に引き受けてくれた。
「なまえさんのような術式は私の知人にいないからね。気にしなくていいよ。末永くよろしくね」
そう言ってにっこりと笑ったが「仲介手数料は家の代金に入れとくね」と見積をくれた。結構高い手数料だったが、不動産業者や建築会社は日本でさえ信頼できる相手を見つけるのは難しいので、情報量と仲介料をそれなりに払うのは間違いではないと感じた。七海さんも同意見で、冥さんはお金で雇った以上は信用できると手数料は妥当と結論づけたが「でも彼女は末永くよろしくしていい人ではないですからね」と渋い顔をした。


▼ ▼

眼球を失うと目が落ちくぼみ、顔の形が崩れるので左目には義眼をいれた。火傷も左に集中し、外出時は顔の半分を眼帯で覆うようになった。家入さんや乙骨君の尽力で感染症や長い入院もなく生活に戻れたが、広範囲に濃い火傷痕が残った。
不満はない。髪がまた生え揃っただけで御の字だ。
ただ30年近く使っていた手のひらは思っていた以上に使い勝手がよかったらしい。右手にネクタイを巻く時、鉈を両手で握り込む時、ドアノブを回す時、手が軋んで滑る。革の手袋を指紋の代わりにすると日常生活ではそこまで問題は無いが、戦闘においては前のような動きは困難になった。
呪術師はもう辞めるので、問題はないが。

最近は読書に没頭する時間が短くなった。以前は1冊手に取ると酒を飲みながらどっぷりと浸かり、読み切るまで何もしなかったが、今は2時間程度でふっと別のことが頭をよぎる。任務や家事、作品の中に出てきた事柄と関係した昨今のニュース、なまえさんのこと。理由は分かっている。私にとって酒を飲みながらの読書は最も手軽な現実逃避だった。呪霊も、私を巻き込む人間関係も、私の過去も未来も存在しない世界に没頭することは、凄惨な現場の記憶ややりきれない感情を緩和する数少ない手立てだった。
読書に没頭する時間が短くなったのは呪術師を辞めることが決まったからか、それともなまえさんと暮らすこの生活が、私にとって現実逃避先の世界のように夢のような生活だからか。


「七海さん、起きてください」
焼けた左手を誰かが握っている。小さい手だが、握力は弱くない。緩急をつけた握り方がまるでタイヤに空気を押し込むようで、まどろみから覚めていく。
「……すみません」
「本、曲がってますよ」
読んでいたはずの本が隣に転がっていた。なまえさんは拾い上げると曲がってしまったページを正して、テーブルに積んである本の1番下に入れた。彼女の風呂を待っている間に眠っていたらしい。まどろみの中で何を考えていたか……ソファの背から頭を上げると、微かにあった記憶さえ消え失せていた。

「はい、いつものどうぞ」
そう言って隣に座った彼女は、右手をしっかり開いて私に向ける。その手に呪力が回ったことを確認して左右の拳を入れた。乾いた音が響くが、接触した彼女の手のひらは分厚いマットのように衝撃を拡散させた。毎日やっていることだが、彼女に向かって拳を振るうと首筋に寒気が走る。乾いた口内を潤すために唾液を飲み込んだ。
「右はもう前と変わらないですけどね。左は6割と言った感じでしょうか……」
「でしょうね。やはり左は握り込めない分、力がまだ入らない」
「退院した時は右でさえ以前の4割くらいだったんですよ。3週間でこの戻り方はすごいです。呪力乗せられたら私の右手が吹っ飛びます」
「乗せませんよ。まあ、乗せたとしても貴女も相当強くなっているので問題ないと思いますが」
目頭に伸ばした指が空を切る。もう眼鏡はかけなくていいのに癖が抜けない。
なまえさんが呪力の使い方を理解していなかった新人の頃、何度かトレーニングの一環で手合わせをした。その時の記憶を頼りに私の回復度を計ってくれているが、彼女はあの時と比べて格段に強くなった。だから今の彼女の「前と変わらない」という評価は、右手の腕力は以前より向上しているということだ。今の体でジムへ行くには他人の視線が面倒だと、早々にトレーニング機器を買う決断をして良かった。激しい運動はできないがゆっくり体に負荷をかけるトレーニングは仕事中にもできるので、入院して鈍った体を戻すのにも役立った。鍛えた体を積極的に使うことはないが、マレーシアの治安は日本ほど良くはない。鍛えておいて損はないだろう。
そうだった。今日も読書にふけっていたのは、マレーシアに送る荷物を少しでも減らすためだ。やっと頭がはっきりとして来た。

「仕事はどうですか?伊地知さんが泣いて喜んでましたけど、心配してました」
「会社員時代に比べればなんてことないですよ。もう少し回すようになまえさんが帰ってくる直前に電話をしました」
「仕事ができすぎるのも問題だなあ……何か飲みます?炭酸水切れてたんで買ってきましたよ。あと頼まれてた食材と、安かったもの色々」
「ありがとうございます……今日はもう寝ますので……なまえさんは」
「私ももう寝ようかなあ……」
彼女が噛み殺した欠伸に私もつられる。火傷痕が落ち着くまでは酒を禁じられているのと、回復にエネルギーを割いているせいか夜はすぐに眠気がくる。これからは長生きしたいので元々減酒は視野に入れていたが、一気に禁酒まで行くと口寂しくて最近は炭酸水でごまかしている。

なまえさんと横になる。ベッドは今朝シーツを替えたばかりで香ばしい匂いがした。禁酒は健康にいいが……ひとつだけ欠点があった。私は彼女と暮らすようになってから夕食や晩酌で必ず酒を飲んでいた。料理と合わせたり味を楽しむ程度の少量だったので、酒は私に何も影響を与えていないと思っていたが、それは間違いだった。彼女と同じベッドで平常心のまま寝られていたのは酒の力を借りていたと、ここ数週間で痛感している。


約1ヶ月の入院生活を経て、季節は冬本番になっていた。厚手の羽毛布団を被ると2人でこのベッドの中に閉じ込められたような気分になる。匂いや息遣い、体の動きが全て彼女に伝わると思うと気が気ではない。
変わった環境に私の眠りは浅く、それはなまえさんに気づかれていた。前までは向かい合って眠ることが多かったが、彼女は私に背を向けて眠り始めた。とうとう愛想をつかされたかと思ったが理由は予想した悪いものではなく、彼女は私の焼けた左腕を、彼女の腹の位置を抱くように持ってきて、その腕を抱いて眠ってくれた。密着した背中から彼女の速い鼓動を感じた。首筋に顔を埋めるとますます速くなった。体の下になった右腕は不自由で、左腕を動かして彼女に触れようと苦心した。
おかげで日が経つにつれ、彼女の肌の温度や柔らかさを触覚を通して感じるようになった。
少しずつ左腕が感覚を取り戻していくのを感じた頃、ある朝起きると、彼女は私と向かい合って私の頭を彼女の胸に抱え込むようにして眠っていた。
やけに冷え込んだ朝だった。長く深く、外から聞える鳥の声より小さく安堵のため息を誰にも知られずに吐いた。彼女は外見で人を判断しないと理解していたが、私はあまりにも変わりすぎたから。
もし私がなまえさんと出会わず、1人で生き残ったとして――今のような生活を送ることができただろうか。半分くらいは送れただろう。リハビリをして、昼は任務に出て、夜は酒を飲んで、読書に没頭し、長生きなど考えずにまた同じ日々を繰り返す。やはり彼女との暮らしは過去の私からすれば最も現実から遠い世界だ。


なまえさんはいつもどおり私に背を向けて横になると、私の左腕を抱き込んだ。
「マレーシアのリフォーム業者とのやり取りはどうですか?」
「順調ですよ。ただ、クアラルンプールじゃなくていいのかと何度も聞かれます。クアンタンに移住する日本人は少ないので。まだ物件を仮押さえしただけで、詰めている内装や間取りはそのまま転用できますが……」
「……確かにクアラルンプールは便利ですけど、長く住むなら七海さんが言ってた海がそばにある方がいいですよ。それにクアラルンプールは今後もっと人が増えます。あんまり人が多い所は私も好きじゃないので。……ああ、あと、硝子さんが日本がヤバくなったら逃げ込むから、客間を間取りに入れてくれって言ってました」
「明日の朝、物件の確定と間取りの変更を依頼しておきます」
思わず笑ってしまうと、なまえさんの肩も笑い声に合わせて揺れた。
「……明日のお弁当なんですか」
「良い豚肉を選んで来てもらったので、カツサンドです」
「朝から揚げ物するの大変じゃないですか?」
「夜は眠くなりますけど、朝は体力が余っているんですよ。体が回復にエネルギーを回しているせいか高カロリーなものが欲しくなりますし。ただ量を食べると後で戻すのが大変なので量はほどほどにカロリーを取るのがいいかなと」
「なるほどなあ……」
「おかげで掃除機も毎日かけてしまいますし、今日はラグも洗ってます」
「もしかして、ワックスもかけました?」
「かけました」
「無理はしないでくださいよ……」
「任務に比べれば全く問題ないですよ。カツサンドは家入さんの分も作っておきますので、差し入れてください」
「了解です」
眠りに入るため、ベッドサイドランプを消して後ろから抱きしめると、なまえさんは具合が悪そうに何度か体の位置を変え、最後は寝返りをうって私に向き合った。
近い、あまりにも近い。けれど離れて欲しくはない。体温が低い彼女は、冬は更に体が冷たくなりやすい。風呂上がりなのにもう手足が冷たいその体を抱きしめると、彼女の手がのびてきて、私の脇の下を通って肩や背中を撫でてくる。
「やっぱ右だけ筋肉すごいついてますよ。前よりもついてる。激しい運動は火傷痕が落ち着くまで避けてくださいね」
「気をつけるので…………分かったので……ここでその触り方はやめてもらえませんか……」
なまえさんは目を丸くし動きを止めて、また笑った。
「私の反応で遊んでいませんか?」
彼女は目を伏せて気まずそうにしたが、遊ばれているような気もする。私が触れなくなった分、お返しのように彼女からのボディタッチが増えたのだ。キスやハグはできるが、以前のようにベッドの中で触れるのはまだ素面ではできない。完全に立場が逆転している。
なまえさんが私の顔を撫でる。何もない左目の縁を親指で撫で、手のひらで頬を覆う。凹凸がある皮膚が彼女の柔らかい肌にぴたりと沈み込む。気持ちがいい。こんな風に、誰かに触れられたことはなかった。こめかみから後頭部へ手櫛が通されて、緩やかに髪が流れていく。退院直前に病院の床屋で整えてもらった髪は、彼女と初めて出会った頃と同じ長さになっていた。

なまえさんが左腕を抱いて眠ってくれるのには深い愛情を感じる。だがたまには前のように向かい合って眠りたい。しかしそれを私から言い出すにはまだ勢いが足りなかった。この機会を逃さないように腰に手を回し、そして彼女の首筋に頭を埋めると、私だけのたったひとつの平穏が訪れるのだ。

2021-08-13 リクエスト企画作品
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