「いま間違ったヤツ誰ですか」
「真希さん」
「うげ」
小テストの結果に来週末の夕飯を賭けている真希さんは、採点のペンが紙の上をすべる音に一喜一憂している。
「なまえさん、飲み物もらってもいいですか」
「どうぞ。2台目が入ったから、小さい方が飲料用です」
「どうも」
真新しい冷蔵庫を開けて、真希さんは中身におお、と歓声をあげる。限定サイダー入れといたからね。
この部屋は呪詛師・術師探索のために、私の術式発動部屋としてあてがわれたものだ。探索対象の物品保管も兼ねていて、物品はよくある武器や古物がほとんど。たまに皮膚片や生物などのナマモノもあるので大きな冷蔵庫が入った。そしてこの部屋の1番の目的は、呪詛返しを受けた場合に私を含め部屋ごと鎮圧できるようにだろう。
だから部屋は家入さんの処置室に近く、そして学生を守るために寮から遠い。けれど休みの日は真希さんや野薔薇ちゃんが遊びに来てくれる。今日の真希さんは部屋に来ると、ソファに寝転んで持参した漫画を熟読していた。新築のここは冷房の効きがいいらしい。
「賭けた夕飯は何ですか?」
「鮨」
「パンダくんは……雑食?」
「何でも食いますね、好物でカルパス買い込んでるくらいなんで」
私が作った小テストでそんな賭け事されるのはいいのか悪いのか。市販の進学校採用参考書を元に調整した問題を、抜き打ちなしで教えた範囲を出したので問題は悪くない……と思う。
前線に出ない任務を割り当てられるようになってから、空いた時間に学生の授業もみることになった。ひとえに人員不足のせいである。授業指導、小テスト作成・採点作業、ノートチェック、教材管理、日下部さんに授業進度を聞くための捕獲・連絡・相談。

真希さんの採点を終えると、待っていたように視界の端のスマホが光る。ロック画面からトーク画面に移動する間に、続けてもうひとつ連絡が入った。
「……真希さん、おなかすいてます?」
「あんまり。朝昼兼用で飯食べたんで」
「七海さんが事務室にミスドを差し入れてくれたんですが」
「マジですか。行きます」
立ち上がって伸びをすると、ベキッと関節から音が出た。真希さんが後ろに回り込み私の肩を掴む、揉む。ゴリゴリと骨と筋肉の隙間を潰すような不穏な音がするが気持ちがいい。
「小テスト、どうでした」
「真希さんは2番だね」
「またか。パンダ頭いいな……」
「授業終わった後とか質問に来てくれるから、そういう所ですかね」
「やっぱアイツ抜くにはそのくらいしないとダメか」

▼ ▼

昼間の事務室では五条さんがチョコファッションを咥えて、私と同じく赤ペンをプリントに走らせていた。採点してるのにサインを書くような動きをする。
そして五条さんからできる限り離れたソファで、七海さんはコーヒーを啜っていた。私達が来る前に何かあったことをこの距離が暗に示している。本来いるべきはず補助監督は全員いない、珍しい光景だった。
「お、真希も来たの?」
「なんで悟がいるんだよ」
「僕、教師だよ?採点作業くらいするさ」
「他の方はどこ行っちゃったんですか」
「まだまだ溜まってる交流会の後始末と、休みの伊地知のカバー」
「伊地知さん、5、6人分働かれてますもんね」
「だよねー。振られた仕事は全部処理するから、そんな風になったんだけど。アイツ事務指導も優秀なんだから、もっと胸はって人にどんどん仕事回せばいいのに」
胸をはれないのは五条さんが脅かすせいでは……?と思ったが言わなかった。
七海さんもこちらに来ると真希さんと軽く会釈をしあい、私の耳元に困っていることはありませんか。と小さく囁いた。
「あ!なんか夫婦っぽいことしてる!」
「これは教育係の方です。アナタが任せたのでしょうが。ドーナツはそこにありますのでどうぞ」
「あざっす。どうしたんですかコレ。七海サンが好きなんですか?」
「いえ、猪野君と任務に向かう途中で高齢の方の荷運びを手伝ったら貰ってしまって。猪野君の分も入っています」
真希さんが開けた箱の他に、大きい箱が2つもあった。パーティーでしか見たことない量である。
「ああ、だからこんなに……」
「たまにあるよね。任務先でモノもらっちゃうヤツ。僕もおばあちゃんに道を聞いて雑談しただけで生卵3パックもらってマジに困ったよ」
「それどうしたんですか?ロッカーに預けたりとか?」
「いや山の中だったからさ、仕方ないから片手でね」
五条さんは食べかけのドーナツを左手に、右手の指先をひょいひょいと動かした。まるで特売のスーパーに寄ったような最強呪術師に祓われる呪霊。

「やっと採点終わった。1年は恵以外ちょっとマズいね。特に悠仁は授業に出てなかったし。真希も勉強してる?」
五条さんは赤ペンを投げると真希さんに視線を送る。
「七海サン、やっぱ勉強っていりますか?」
「学力は将来の選択肢を増やせます。そして選択肢は多いに越したことはありません。任務面でも重宝しますよ。化学的知識が術式に絡んでいても、使う本体にその知識が入っていない事も少なくないですから。特に真希さんは呪力で防御ができないので、知識はあった方が良いでしょう。みょうじさんは理系科目全般得意なので頼りになりますよ」
「やっぱそうか……ありがとうございます」
「たしかになまえみたいに理系学科の大学出てる術師なんて今いるのかな。しかも座学指導にコンスタントに入ってくれるのはありがたいよ」
「ちゃんと指導できるのは大学入試レベルが限界ですけどね。座学専門職員は雇わないんですか?」
「それねー、定期的に話は出るんだけど、大体の学生は今のやり方で平均程度の学力あるし、ヤバイやつは秤みたいに術師としては実力あるタイプばっかなんだよ。まあいいか?ってなりつつも検討してる間にヤバイのが卒業して話はおしまい。結局僕らが学生の頃から担任、補助監督、窓で適当になんとかするって感じ」
「だからみょうじさんが重宝されて東京校常駐に推されました。ここは特殊ですが高等専門学校。対外的にも座学の優秀な指導員は多い方が良い」
結婚後、七海さんが上に私を現場任務から高専常駐での任務実施への変更を強く推薦した際、何を言ったかは教えてくれなかったが、今その一端がちょっと見えた。


ドーナツの箱をのぞくと、中は色とりどり。色数にしてみればたった4色くらいなのに、こんなにワクワクしてしまうのはなんでだろう。甘い匂いがほんのりと香る。
「ハニーディップいただきます。久しぶりだな、美味しそうですね」
「あまり食べないんですか?」
「実家にいた頃は家族が買ってきてくれましたけど、1人になるとなかなか……七海さんはどれが好きなんですか?」
七海さんが口を開こうとした直前に、五条さんの手が私達の間に割り込む。
「フレンチクルーラーだよ」
七海さんは五条さんを避けて私の両肩を掴むと、熟練陶芸師のろくろ回しのようにソファへ流して座らせた。慣れている。
「ミスドってさ、この箱に何つめるかで性格がでるじゃない?」
そのとおりだ。現にこの箱は好みのわからない人へのボックスで、人気ドーナツが2個ずつ入った万人向けのオールラウンダーボックス。子供向けならカラフル重視、大人向けなら甘さ控えめでパイ多めなど、アレンジの幅は大きい。
「七海が高専の頃に買ってきたミスド、この箱になんもついてないただのフレンチクルーラーが7つも入ってたんだよ。白いアルマジロでも捕まえたかと驚いたね」
「……よく覚えていますね。……で、五条さん。ここにあったフレンチクルーラーはどうしました?」
「僕が食べた」
七海さんの額に太い血管が浮き上がった。
「美味しかったよ」
「なんでそんな……なんでそんな横取りしておいて、七海さんのフレンチクルーラー好きエピソードトークできるんですか…………」
「答えはひとつ。僕だってフレンチクルーラーが好きだからさ……恋に好きになった順番は関係ないよ……。既婚者共は黙ってポンデリング食べてな。フレンチクルーラーくんは僕のものだよ」
「みょうじさん、大丈夫です。五条さんはおちょくっているだけでフレンチクルーラーにも特別な思い入れはありません」
「それは1番邪悪なのでは?」
こういう小さな積み重ねが、五条さんとの距離を遠くさせるのです。


七海さんもドーナツをひとつ取って私の隣に腰を下ろした。同じサイズのドーナツなのに、私や真希さんのより随分小さく見える。
「それなんですか?」
「エンゼルクリームです。中に生クリームが入っているものですね」
「あー!カスタード入ってるのもありましたよね」
「ええ。あれも美味しいですね」
かわいいな。ドーナツ持ってる七海さん。ドーナツまで可愛くみえてきた。ふんわりした色はスーツと少し近くてまとまりが良く、できる会社員をターゲットにしたCM感さえある。
「真希、僕が愛するダブルチョコレート知らない?」
「食った」
「なんで?!」
「私もあれが好きだからだよ」

それぞれが思い思いのドーナツを口に運ぶ。
繁忙期は終わったが、教員や職員は交流会の後処理や亡くなった職員の仕事の引き継ぎで、多くの仕事を並行している。学生も自己鍛錬をかなり増やしているそうだ。頭の中を空にして甘いものを食べる時間は、脳と体の疲れを癒やしてくれる。
七海さんは深くソファに腰掛けて、柔らかいエンゼルクリームに大きく口を開けてかぶりついた。七海さんの口は大きいが、戦闘時に声を張る以外は普段の食事や会話でほとんど大きく開けない。レアだ。ベーシュのスーツで髪型も決めた七海さんがエンゼルクリームを頬張るのは……いい。グッド。お互いが対極の場所にいるふたつが重なり合っている。今度、ミスド買って帰ろう。フレンチクルーラーアルマジロ連れ帰ろう。
久しぶりのドーナツは美味しい。空気を含んで柔らかいが噛みごたえのある生地は、じんわりと甘いシュガーシロップがしみ出て来る。ただ、手がベタつく。ベタつく方で良かった。任務服は黒いからパウダーシュガーやココナッツをこぼすと情けないことになってしまう。ペーパーナプキンを取りに立ち上がろうとして、横から望んだものが差し出された。

「どうぞ」
小さく咀嚼をしている七海さんの顔を見上げると、右口角にあのパウダーシュガーが人差し指の先ほどの大きさでついていた。七海さんが口元を汚すなんてことまず無いし、あっても即座に拭うから、初めてまじまじと見た。
視線に気がついた彼と目が合う。私はその口元を、もらったペーパーナプキンで拭っていた。水が出ている蛇口を締めるように、帳が上がったら肩の力が勝手に抜けるように、ほとんど条件反射に近い。口角についた微かな白はすぐに取れた。

「え」
声をあげたのは真希さんだった。
七海さんの顔が急に耳まで真っ赤になったからだ。そう気がついたときには首まで赤く、次々と広がっていく。真希さんは高く結んだ髪が揺れるほど顔を横に振って「なんで?」と口が動いた。私にも分からない。
七海さんは口元を抑え、私から顔を反らした。太く長い人差し指のそばのこめかみには、また青筋が浮き、つま先が椅子にぶつかり派手な音をたてた。五条さんが立ち上がり、ドーナツから黄色いチョコレートがボロボロとこぼれ、無限にぶつかって不自然な軌道で落ちていく。たった数秒で穏やかな空気から一転して、駆け出すように状況が変わっていく。
「何?七海はドーナツ詰まった!?真希!そこのダイソン取って!」
「………………詰まっていません」
肺の空気をすべて入れ替えるような深い大きなため息を吐いて、たっぷり時間を置いて顔は上がった。見間違えのように顔の赤みも青筋もなくなり、立ち上がると私の目をしっかりと見て「コーヒーを買いに行きましょう」と告げて部屋を出て行く。コーヒー、すぐ後ろにあるじゃん。と五条さんの声が響いた。


▼ ▼

「……急にすみません」
「だ、大丈夫ですか?」
「前にも言いましたが……私は女性と付き合ったのは貴女が初めてで、ああいう……ことをされるのも初めてで……」
あぁいうこと、が何を指すかに階段を4段降りるまでかかった。
「怒っては、ない?」
「全く」
「よかった……こめかみに血管浮いてたんで、怒らせたかなと……」
「貴女を怒るなんてそうそうありませんよ」
自然に意味を込めてくる言葉に照れる。かなり照れる。顔に出さないように私は口を引き結んだ。
七海さんは血管が浮いていたのと逆のこめかみを擦りながら、またため息をつく。
無人の学内、がらんとした空間。窓の外の木々から漏れる柔らかな光が階段にも落ち、七海さんが1歩先に階段を降りていく。1ヶ月とちょっと前も廃ビルや商業施設を任務でこんな風に歩いていた。
彼は状況を語る時、小さな齟齬が現場では死に直結するからと、主観と客観を水と油のように分けて曖昧さを作らず、不確定な内容は不確定であると断言する。プライベートでもそれは変わらない。むしろことさらしっかりと述べてくれる。
もう随分、人に自分の気持ちを素直に伝えていなかったから、上手くできるか分からない。そのせいで貴女に勘違いをさせたくないと。

七海さんは敬遠の化身のような姿をしている。大きな体格に、日本人離れした顔立ち、厳格な装い、目元を隠すメガネ、そして誰にでも変わらず丁寧でありながら愛想を削ぎ落としていた。彼のことを知らなかった私なら世界でたった2人になったとしても、話しかけるのを躊躇ったろう。
しかしその雰囲気は、上手くやるためには空気読みが第一の世界で、一種の神秘に近かった。だから彼から私情や人間らしさという隠された内面を語られると、秘密の話をしている気分だった。実際、彼はそんな風に私にだけ聞こえるように内面を語る。そのたびに私は愛していると言い聞かされている感覚になるのだ。

「自分でもあそこまでなるとは思っていませんでした」
「照れポイントが分からないってことですか」
「そのとおりです」
「……答えにくいこと聞いてもいいですか」
「答えられるか保証はありませんがどうぞ」
「七海さんって、その……よく髪にキスしてくれるじゃないですか。あれを1として、唇同士のキスは10だとしたら、さっきのはどのくらいですか」
「…………15」
最大値設定で上げた10、超えちゃったよ。
「…………もし七海さんが私にする場合は?」
「0.2くらいですね」
「私からの不意打ちがダメなんですかね」
「元々、してもらうというのに慣れていないので」
なんとなく解る。最初こそ不慣れや遠慮で愛情表現は薄かったが、七海さんは愛情を行動で示すのにあまり抵抗がない。示すときは戸惑いなくしてくる。そこに事実をきっちり述べる力まであるんだから、鬼に金棒、ならぬ鬼に金棒と散弾銃とホーミングミサイル。めちゃくちゃにやられる。
けど私からキスしてみたり、手助けなど愛情表現したりすると、ぎこちなく固まる時がある。さっきみたいに赤くなったり、固まってしまったり、言葉に長く詰まったりする。けどあそこまで長く動揺したのは初めてだった。

外に出る。秋がやっと顔を見せてきて、日差しには肌を刺す強さはない。彼の顔からはもう赤みは完全に抜け、いつもどおり歩いている。ぎこちなさからの復帰は早い。けど普段の彼が理性的で動じないからこそ、変化が大きいのですぐに気がついてしまう。
七海さんは硬貨を自販機に入れる。挨拶するように自販機が鳴った。
「しかし、ただ慣れていないだけで、決して嫌なわけではありません」
そしてボタンを押す。出てきたのはいつも買うブラックコーヒーの横にある紅茶花伝だった。七海さんは取り上げるとじっとその姿を眺めて、腕を組み、うつむき、それから空を見上げた。復帰してない。かなり混乱したことに困惑している。あの七海さんが。そこまで彼を惑わせる行為だったのか。

青い空に1本、消えかけた飛行機雲が空を分断するように走っている。
「……みょうじさん、日中は外に出ていますか」
「最近は部屋でずっと仕事をしてるので、気づいたら夜ですね」
「なら、今度の週末は気分転換に遠出しませんか」
「いいですね!じゃあ、紅茶花伝は五条さんにあげましょう」
「あの人だけに買うのもおかしいので、真希さんの分も買って戻りましょうか」
「……私が買いますよ」
「お願いします。……あの」
「はい?」
「本当に嫌ではありませんから」
もしかして、ものすごくして欲しいのだろうか。明日はミスド、いや、大きなシュークリームを買って帰ろう。

2021-07-17
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