頭が重力に引かれて、衝撃が首にくる。数秒して自分が一瞬寝ていたことに気がついた。きっちりとニスがひかれた、縁の蔦の装飾が美しい見慣れないテーブル。レースのコースター、水色の湯呑。そうだ、ここ、京都校だったんだ。
ここへ修理した学生の武器と先日の呪霊による交流会襲撃の書類を届けに来たのだが、書類に確認の印鑑をもらいに歌姫先輩が出て行って30分。一部の人間にだけ共有されている内容だから、関係者間のみでの書類の取り扱いは大変なのだろう。いつもなら問題なくしているメールや郵送での書類のやりとりを今回は禁じられた。
陽の位置が変わり、部屋は少し薄暗くなった。クーラーで室内は涼しく、革張りのソファは使い込まれて心地よく身体を包む。ぬるくなったお茶で唇を潤すと、その温度でまた少しまどろみそうになる。静かだ。歌姫先輩を探しに行こうかな。


「車で来たの?」
聞き慣れた声と少し違うトーンがした。あの声より平坦で静かだ。学生は出払っていると聞いたけど、戻って来たんだな。
「ねえ。アナタに言ってるんだけど」
声の主は、開けっ放しになっていた入り口にいた。
交流会に来たときと同じ任務用の長袖パンツスタイル。真希ちゃんと少しだけ違う意思の強そうな視線は私からはずれて、彼女がいる廊下の先に向かっていた。
「車で来たの?」
「あ、あぁ。うん。今日はなにも無いから、適当にドライブでもして帰ろうかなと」
「そう。……これ、先生から預かったわ」
コツコツとブーツの音をたてながら入ってきた彼女は、私の湯呑の横に歌姫先輩が持って行った書類を置いた。事務だけでなく楽巌寺学長の印鑑まである。ありがたい。嫌いじゃないけど会話を避けられるなら避けたい人だからだ。

「……お昼はまだ?」
「まだだよ。真依ちゃんは」
「まだ。さっき帰ってきたばかりだもの」
「ごちそうしようか?」
「……自分で払えるわよ。着替えてくる」

口から出そうになった声を飲み込む。誘っても振られてしまうと思っていたから、誘っておいてなにもプランがない。彼女が去って行き、私は急いで車に走る。車中はいつも綺麗にしてるけど、念の為に確認をしておきたい。きっと暑いからクーラーも入れて準備しときたい。

▼ ▼

「行きたい店はないけど海の見える場所がいいわ。遠くてもいいから、うるさくない所」
そう言われて人がいない方、いない方に流れたらこんな所に来てしまった。
左には静かな海だけが広がり、右はぽつりぽつりと古い民家がある。近年建てられた家々は潮風を避けて奥へとひっこんだのだろう。用途が不明なトタン製の小さな倉庫、空になった畑、群生したススキ、整備されていない砂利だらけの空き地が交互に視界に入ってくる。カフェやレストランもたまにあり、賑わっていないが人の営みを感じる。
遠くていいと言われたけど、土地勘がないので分かりやすく近場の海へ向かったら、海沿いのドライブは楽しくて気がつけば県境を越えていた。ドライブ開始から2時間と少し、任務終わりの彼女は疲れていたのか、車を出してすぐに眠ってしまった。

「ついたよ」

軽くゆすると、彼女はゆっくりと目を開けて外を眺め、日傘を持って外に出て行った。私はトランクからブルーシートを持って出る。見たところベンチも無いし、あんな繊細な白いレースのタイトスカートで地面に座ったら傷んでしまう。
真依ちゃんはビーチへ向かったが、砂浜には踏み入れず、砂浜の前のコンクリート舗装された階段部分に立って海を眺めていた。黒いノースリーブのトップスは白い日傘に隠れて、スカートも白い。青い海を前にぽつんとある白は、昼下がりのコントラストの強い海の景色の中で白波と同化しそうだった。
彼女の足元にシートを敷くと、ゆっくりと腰を下ろした。
「良い方に走ってたら、県を越えてて」
「こういう海に来たかったからいいわ。まだ舞鶴なんかはきっと騒がしいから」
「海は久しぶり?」
「何度か任務で来てる。でも海が見たくて来たのは……そうね……4歳以降は初めてね」
少し行った先の防波堤近くに釣り人が見えるが、この広い砂浜には真依ちゃんと私しかいなかった。貸し切りみたいだ。こんなことめったにない。ただ、そろそろランチタイムも終わりそうな時間だ。
「お昼を買ってくるよ。テイクアウトできそうなイタリアンがすぐそこにあったから。メニューは店についたら電話する」
「私も行く」
「いいから。長居はできないからゆっくりしてて。すぐ帰ってくる」
真依ちゃんは私の服を掴んだ手を離すと、渋々と頷いて、また視線を海に戻した。


▼ ▼


『もうなまえが裏切ったとは思ってないみたい。しかも実際は勘違いだったし。気まずくて次に会っても話しかけられないと思うから、なまえから行ってあげてね。あの子、普段は冷めた態度をとるのに突然熱くなるの。今回の交流会みたいにね。西宮や三輪より大人びてみえるけど……支えてあげて』
歌姫先輩は私達の間を取り持ってくれた翌日にそう言って電話をくれた。

真依ちゃんとのすれ違いは、歌姫先輩のおかげで解消された。歌姫先輩がいなかったら永遠に無理だったかもしれない。
交流会後、私と真依ちゃんの関係を実際に見た歌姫先輩が気を使って、電話口に真依ちゃんを連れて来てくれたおかげで、避けられていた会話の機会が得られた。そこで分かったのは、お互いが勘違いをしていたということだ。ただ、謝罪をしても「いいわ。わかった」で通話を切られてしまったから、今日会えたとしても、彼女が話しかけてくれるとは思っていなかった。

私は彼女と縁が切れて忘れ去られたと思っていたし、彼女は私が五条と繋がりができたので彼女との関係を捨てたと思っていたのだ。
高専時代、私は禪院家に術具修理で出入りをしていた。その時に彼女達と知り合い、部屋遊びが好きだった真依ちゃんに彼女が持っていたビー玉で遊びをいろいろ教えた。
だから真依ちゃんが術式を発現し、私へプレゼントだとビー玉を構築してくれたとき、私は構築術式の指導者として禪院からスカウトされ、そして断った。
小さな子供に構築術は負担が大きすぎる。真依ちゃんは直径1センチにも満たない、いびつで今にも割れそうなビー玉1個で鼻血を出し、ぐったりと座り込んでいた。しかし禪院にはそんな考えはない。あの家ではそれが普通で、幼くても身体が未発達でも術式を文字通り死ぬ気で伸ばすのが普通だと思っている。
私はその日を境に、禪院への訪問修理を断り、呪具修理は高専でするようにした。行けば直接指導は求められなくても、真依ちゃんの構築物を評価させるくらい平気でやらせる。私が行けば、彼女は体を壊す。

この件はしばらくして、五条と私が高専内で親しくし始めたことと重なり、禪院からの術具修理の仕事はまったく来なくなった。
けど1度だけ、禪院の蔵の呪霊を縛る、結界呪具の修理に行った。依頼者だった直毘人さんに、その依頼の直前に受けた任務で借りがあったのだ。真依ちゃんに会わせられることも、構築物を見せられることもなく、ひどくほっとしたのを覚えている。

「真依ちゃんの面倒みらんの?まぁ悟くんと仲良うなったら、あんな子供の面倒見てられへんよね。けどそんな計算上手やったら、ウチの帳簿もついでに見てくれたら良かったのになぁ」
私の修理を見学していた禪院のだれかの声だ。禪院の人間は大体こんな言い方をするので当時は聞き流してしまったが、あの時からもうすれ違いは始まっていたんだろう。

▼ ▼


「美味しい」
真依ちゃんはハンバーガーにかぶりつくと口の端をナプキンで軽く拭った。最初にちょっとだけ包装紙の上からハンバーガーを潰し、口をつけてもパンから中身がはみ出ない。食べ慣れてるなぁ。
「こういうの好きなんだね」
「味がはっきりしない食事をもう一生分食べたからかしらね。アナタのは?」
「カツサンド」
「少し頂戴」
手の中のカツサンドに真依ちゃんは噛み付く。本当に少しだった。そんなのカツサンドじゃなくてタレサンドじゃん。
「まだ食べていいよ」
「少しって言ったじゃない」
「そんな端っこじゃカツまで到達してないよ。ほら食べて」
「………………美味しい」
「このお店良いね。高専の近くにもあってほしいなあ。パスタもピザも美味しそうだった」
「私の分、いくらだった?」
「んー、じゃあ500円」
「……そんなわけないでしょ」
「私が勝手にこの店に決めたから。……年上が学生に払わせるなんてちょっとね、立場的にね。それに私も学生の頃はたくさん上の人におごってもらって、次世代におごるってサイクルができてるんだよ。……東京の学生にはいつもおごるから、本当はお金全部いいんだよ……」
言葉をつけ加えていくたびに、手首を握る手の力が緩まっていく。丁寧に処理された爪は刺さらないけど痛いっちゃ痛い。
真依ちゃんはぱくぱくとハンバーガーを食べきって、横座りのまま私に寄りかかって来た。
「疲れた?車に戻る?」
「ここがいいの」
「海入る?」
「いいわ。ベタつくから。入るのは嫌い。波の音が好きなの」

2人で海を眺めていると、釣りに来た子供と父親が砂浜を歩いて来た。魚がかかっていないのに大きく揺れる竿が、子供の機嫌を表している。親子が去って行き、できた破線もまた程なくして波に消されていく。
私は余った紙ナプキンで鶴を折った。暇でしょうがなかったわけじゃない。こういう時間をもう長いこと取ってなかった。任務や仕事から完全に離れて、気ままに、好きなように、ぼんやりと過ごす時間。溜まっていた頭の疲れがじんわりと奥から出ていく。おかげで今までで1番上手に鶴は折れた。振り子のように波が行って返る。あくびが出る。
真依ちゃんは持っていたジュースのカップを地面に置いて、冷たい手で私の頬に触れた。涼しい。
「その靴かわいいね」
「でしょ。桃が見つけてくれて、でも東京のお店のだからサイズが合うか分からなくて買ってみたけど、良かったわ」
真依ちゃんは横座りしていた足先を前に出して見せてくれた。黒いシンプルなチュールレースのパンプスには赤い花柄の刺繍が入っている。
「西宮さんはよく真依ちゃんを見てるんだね」
「まあ、そうね」
「よく似合ってる。真依ちゃんって感じ」
「……ねえ。あの生意気な釘女と仲いいの?」
「野薔薇ちゃんね。学生と職員の間柄として仲良くしてもらってるよ」
「あんなに弱くて、やっていけるのかしらね」
「まだ東京での経験値が低いだけで戦い方が多彩だから、これから先、驚くほど伸びるよ」
「随分、身内贔屓なコメントじゃない」
「贔屓じゃなくて、ちゃんと見てるだけさ」
真依ちゃんは何か言いたげだが、私の肩に頭をしっかりあずけただけだった。私がもし倒れたら共倒れだ。
「……疲れたわ。任務は多いし、報告書も多いし、昨日は足を挫いて、まだ痛い」
「……車に戻る?」
「ねえ」
「ん?」
「昔、みたいに……」
言葉は続かなかった。真依ちゃんの顔は見えない。見えるのは寄りかかってきた綺麗なさらさらとした黒髪だけ。
「なんでもない。この前、電話で言った私への謝罪をもう1回言って」
「えっ」
「早く」
「……勘違いさせてごめんなさい。………ずっと大好きだよ」
少し間があって、フフッ……と彼女は口元を手で隠して小さく笑う。からかわれた。ずっと大好きだよ。は、禪院の家から帰ろうとすると引き止めてくる2人に、いつも言った言葉だ。こういうと頷いて手を離してくれるから。でも、今自分の身長より大きくなった彼女に直接言うのは恥ずかしいじゃん……。

太陽が真上に来て、砂浜が白く輝き、白波と同化するように揺らめいて見えた。真依ちゃんはブルーシートに座っているから、さっきより白波と彼女の境界がくっきりと分かる。白波に攫われたりしない。ただの炎天下の昼下がりの錯覚に、ひどく安堵していた。

「今度いつ来るの?」
「特に予定はないかな……」
「じゃあ、早く来て。買い物に行くから車を出して。今度は桃と霞も呼ぶから」
「うーん……頑張るよ」
「……早く来なさいよ」
「やります」
「そ。じゃあ、これあげる」
彼女が差し出してきた手の中には、ビー玉がひとつあった。1センチほどのそれは、完全な球体で、無色透明ながらも光を吸収して宝石のように輝いていた。
「うわ、綺麗………」
「いつまでも、子供っぽい趣味ね」


▼ ▼

知ってたのよ。
アナタが五条とコネができたから私を捨てたなんて、心から思ってない。
私の術式の指導者を断ったことも、その理由も知ってた。隣の部屋で盗み聞きしてたから。もっとアナタが家に、私のために来てくれるようになるって浮かれてた。
そのためならなんでも我慢できると思ったのに。アナタは私の体を気遣って、断ってしまった。
夜にあの家に1人でいたら不安になるの。アナタが直してくれた小物からアナタの残穢を感じながら。指導を断ったのは私のこと嫌いだったから?五条とのコネができていらなくなったから?
あの家にいると、自分がどれだけ価値がない人間か毎日思い知らされる。だから、アナタに嫌われたと思わないために、私に価値がないから捨てられたと思う方が楽だったのよ。
でも思い込もうとしたら、真実を知ってても歪んでいく。素直になれなくなる。嘘が真実に変わる気がする。そして分からなくなっていった。アナタ、会いに来てくれないから。

分かってたのよ。
禪院を出て、先生や桃や霞と出会って、色々なことが分かるようになるにつれて、真希もアナタも私を大切に思ってくれてるのに、私が今1番して欲しいことはしてくれないって。
幸せな未来が欲しいわけじゃないの。今欲しいの。楽しいことも、嬉しいことも、愛されることも、今欲しいの。今感じたいの。1番じゃなくていい、1番目にしてほしいだけ。
我儘で、高慢で、嫌な人間と思ってくれていい。だから1番目にして。だって、私、いつまでも待ってられないから。

2021-07-03 リクエスト企画作品
- ナノ -