※渋谷事変がなく、結婚から半年後くらいのifの話





「七海さん、ご結婚されたんですって?」

エレベーターで乗り合わせた隣人の女性は、こちらを窺うように笑った。
任務先であり夕食も取った百貨店で貰ったワインが4本もあり、しかも23時を過ぎたこの時間なら住人と鉢合わせすることはないだろうと、早く帰りたくてエレベーターを使ったのがいけなかった。明日からはまた階段とする。
「ええ、まあ」
「よく見かける方ですよね。七海さん、ずっとおひとりだったから心配してたんですよ。いつからですか?」
「半年ほど前から。お気遣いどうも」
「お名前はなんと言うんですか?」
「……………………………………なまえです」
「なまえさん!」
エレベーターが開いたタイミングで会釈をし、早足で距離を取ろうとしたのにしっかりと横にはりついて来る。なまえさんの名前を告げるのにたっぷり間をもたせることで追撃は避けられた。長く大きなため息が口から出る。親しくない他人にプライベートを探られるのは嫌いだ。家に早く帰りたい。いや、もう家だ。

このマンションには呪術師界へ出戻りすると決めた時に引っ越してきた。辺鄙な場所にある高専にもアクセスが楽で、23区内へ電車で出かけるのも億劫ではない所。そして何より静かな場所。しかしそうなると家賃がどうしても高くなった。
「静か」がネックだ。求める静かさは家賃と比例した。タワーマンションの最上階も、無駄に高性能なセキュリティも、マンション内にあるジムも不要なのにだ。
家賃はなるべく抑えたいので、なかなか踏ん切りがつく物件が見つからない。いつ復帰不可能な怪我を負うか分からないし、そうなったら物価が安い国で余生は送りたいので貯蓄は多い方がいい。そんな悩みを抱えていた時に転がり込んで来たのが今の家である。

とあるファミリー向け分譲マンションの購入者が次々自殺や事件を起こし、呪術師が調査に入ったところ、部屋の中には呪霊が大量に住み着いていた。近隣に学校や病院があり、さらに土地には呪物が埋まっていて、その部屋が淀みの吹き溜まりになっていた。祓除後も呪霊のたまり場になり、この場所に存在する以上は呪霊を避けられない部屋。隣の部屋まで巻き込んで、誰も入居できない物件の烙印を押された。運の悪い話のようだが、よくある話。どこかの誰かが回り回って損をするのと同じことだ。場所にもそれは言える。
だから私が分譲賃貸物件として入居させてもらった。事故物件に安全に住めるというのは数少ない呪術師の職業利点である。
ファミリー向け物件なので防音はしっかりしていたし、隣の部屋は空き部屋として確定したので、とにかく静かだ。部屋が広すぎて掃除に手間がかかるのが欠点だが、立派すぎるカウンターキッチンは出戻りしてできた趣味の自炊に力が入ったし家賃も相場の半分以下になり、部屋には言うことがない。
ただ、分譲マンションなだけあり、住人同士は付き合いが長く距離が近い。事件があった部屋に住む独身男は奇異の目で見られた。悪意は無いし、無理もないだろう。無遠慮に向けられる視線には慣れているので気にはならなかったが、なまえさんがこの視線に晒されていれば話は別だ。


「おかえりなさい。何かありました?」
出迎えてくれたなまえさんの視線が私の額に向かっている。眼鏡を外すと反射したレンズに一瞬、眉間に刻まれたシワが映った。
「いえ……これ、お土産です。晩酌にどうですか」
「いいですね、4本も美味しそうなのが……。今日の1本どれにしますか」
「私が決めても?」
「もちろんですよ」
「では、鳥のラベルのを」
「了解です。準備しておきます」
「そのワンピース、この前買ったものでしょう」
「そうです。七海さんが推してくれたのです。初おろしですよ」
「よく似合います」

女性の明確な好みは無かった。
学生時代に女性の好みを五条さん達に聞かれて、善良で真面目な人、と答えたら「バイトの面接かよ」と笑われた。善も悪も相対的で、世の中のほとんどが善人でも悪人でもない。追い詰められれば人間はどちらにも転ぶ。だが、絶対的な善のラインはある。それを持っている人がいいと思った。外見の好みはなかった。今も昔も変わらずそうだった。
しかしなまえさんと結婚してからは、徐々に自分の外見の好みが見えてきた。なまえさんからフレアスカートかタイトスカートのどちらかを選ぶように頼まれたら、後者をいつも選んでしまうし、ハイネックとTシャツならハイネックを選んでしまう。2人で買い物に出れば、彼女に似合うだろうなと思う服はいつも同系統だ。だからといって趣味を押し付けるのはどうかと言い出せずにいた。

だがある日、馴染みのテーラーで新調するスーツの色をダークグレーかダークベージュにするか相談した時だった。
「絶対このベージュにブラウンが混ざったこの色、明るめのトープですかね?これ似合います!ダークグレーもダークベージュも似合いますけど、これを着た七海さんが見たい!」となまえさんは興奮気味に色を譲らなかった。言われた通り生地を当ててもらうと、今まで着たことのない色だったが意外にもしっくり馴染んだ。
「奥さんは毎日七海さんを見てますからね。そりゃあ、似合う色も分かりますよ。よくお似合いです」
仕立て上がったスーツを受け取った際に担当に言われた。着て見せると、こちらが恥ずかしくなるほどなまえさんは私を褒めてくれた。その時から、私も彼女のように好みを伝えることにした。

なまえさんがワインの入った袋を抱えてキッチンに消えていく。風呂に入らなければ。晩酌が楽しみだ。丁寧にトープカラーのスーツをハンガーにかけて、風呂場に入る。
つまみは……いいか。もう夜も遅い。昔はワインセットなんて買えなかった。外したときにひとりで義務的に飲むのは苦痛だからだ。今なら外しても、彼女とネタにしながら飲み干せる。
最近はそういう独り身では買うのを控えたものを買う機会が増えた。ホールケーキ、スイカやメロン、卵12個パック、出張が長引くといけないのでやめておいた観葉植物やプランター。この半年で私の生活や好みは随分と広がった。


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「七海さん、髪濡れてます」
「……乾きます」
「ハゲますよ」
七海さんは、とぼとぼと洗面所に戻っていった。ハゲないだろうが、生乾きは良くないのでハゲると脅すのがいいと最近分かった。
「乾かしましょうか!」
声をかけると、洗面所からドライヤーを持ってすぐに戻ってきた。うっ……かわいい。
七海さんにはラグの上に座ってもらって、私はソファに座り、髪を乾かす。洗い上がったゴールドともベージュとも言えない髪がさらさらとした手触りになっていく。抜け毛があるらしいが、ハゲる様子は全くなさそう。というかまだ30前では。

半年一緒に過ごしてみて、お互いが肩肘を張らない生活になってきた。そして見えてきた七海さんは、いい意味でオンとオフの切り替えがはっきりした人で、仕事がある日はタスク消化のように決まった時間に決まった行動をするのに、予定がない休日はぐっすりと眠り込み、私もつられて2度寝、3度寝してしまう。
労働・労働じゃないを、はっきりと切り分けるためにスーツを着ているのだろう。
他にも色々分かった。時短家電に目がないこと。くつろいでいる時はオーバーサイズの服を着るのが好きだということ。休み前日の晩酌前はさっきみたいに行動をスキップしようとすること。

「髪の毛を乾かしてすぐの七海さんの頭は、香ばしい匂いがします」
「……どんな臭いが……?」
「焼きたてのパン。干したての布団。その間のような」
「髪、焦げてないですよね?」
「ないです」
「……干したての布団の匂いは、ダニの死骸が元というのは嘘だったらしいですね」
「あの噂を流した人に呪いが吹き溜まらないんですかね。七海さんはこれ吸えないの、もったいないなあ」
「貴女の匂いとは違いますか?同じシャンプーを使っているのに」
七海さんは上を向いて私の頭を避けると、後頭部を嗅いできた。形のいい高い鼻がくすぐったい。
仕事中の七海さんは、身だしなみでいつも同じフレグランスをつけている。「ウッディでスパイシーな香り」と説明がされていたロールオンタイプの茶色い瓶から香る匂いは、七海さんがつけると香りがまたちょっと変わる。何もつけてない匂い、いい匂いなのにな。
七海さんの頭をさらに避け返し嗅いでいると、飲みたいのですが……と七海さんがワインを開けたので、私が占領していたソファの片側を空ける。
「なまえさん、明日は休みですよね」
「はい」
「労働もない」
「そうです」
「目覚ましもかけなくていい」
「お疲れさまです」
休みの前のこのやり取りは、七海さんは意識していないが毎回する。乾杯をしてワインを口に含む。
「果実味が強くて飲みやすいですね。つまみが無くても十分です」
「確かに。結構いいお値段なのでは?」
「任務先の担当者からもらったもので正確な値段は分かりませんが、あそこで扱うものなので安酒ではないでしょうね」
「あの百貨店ならなあ……確かに。はぁー……美味しい」
「それはよかった」

百貨店、病院、学校、商店街。思い出になりやすく、人が多い所は呪霊がよく出る。魔除けとして呪物を置く対処法もあるが、人の出入りが多い所に呪物を置くのは管理の視点から避ける施設もある。
ならどうしているかというと、“現場の人の勘”に頼っているらしい。長年勤めている施設の管理者は、やけに事故や事件が多発すると「呪霊が溜まった」と判断し、こちらへ祓除を依頼するという流れだ。どこまで呪霊の存在が非術師に広まっているのかは不明だが、学校の百葉箱に宿儺の指を入れていたのだから、色々なものを見るべき立場を経験した人は知っているのかもしれない。
今回、七海さんがアサインされた百貨店任務がそれだ。そして先方企業の管理側は年長者が多いため、術師側もちゃんとした大人である方が交渉時に理解を得やすく、大人でスーツ、一般企業経験済み、そんな七海さんのような人が適任のため「七海さん向け任務」という案件がいくつかある。なので、企業とも顔なじみになり、こうやってお土産を頂くことが多々あるらしいが、先方の人柄はピンきりらしくて「会社員時代の上司」を思い出すような任務の日は、七海さんは朝食に良いパンを冷凍庫から出して焼き始める。そしてそれは今日だった。

「今日は大丈夫でしたか?」
「問題なく終わりました。面倒な人が運良く出張でいませんでしたから。なまえさんも京都へ日帰り任務でしたよね」
「はい。あ、お土産ありますけど、ワインとは合わないですね……」
「問題なかったですか」
「大丈夫でした。急な人員追加だっただけなので。お土産は人気の豆大福とパンと、チーズとか、色々」
「なるほど……ならあの木刀は?」
あまり目立たないように、部屋の端にある観葉植物の影に立てかけておいた木刀はすぐに見つかった。
「……お土産店のキーホルダー売り場に、お名前キーホルダーって売ってるじゃないですか。五十音順で、あいちゃん、あきちゃん、あもちゃん…って一般的な名前をキーホルダーに刻んであるやつ」
「ありますね。温泉や動物園の売店などにもあるアレですか」
「アレの『ななみちゃん』を五条さんが出張のたびに買ってくるんですよ。他の人はお菓子をもらえるのに、私にはそれを買ってくるんです」
七海さんがめちゃくちゃうんざりした顔をした。
「次買ってきたら、私もお土産に変なもの買ってくるって言ったら『ななみちゃん』と『けんとくん』のふたつを買ってきたんで、五条さんにお土産の木刀2本です」
「なるほど……」
「スマホを置いてください。明日は休みですよ。電話かかってきますよ」
「チッ……そうでした」

デスクの引き出しいっぱいになった『ななみちゃん』のキーホルダーの写真を見せると、眉間にシワを寄せて、さらにうんざりした顔をした。
「お土産に木刀を買ったことなかったんで、いい経験にはなりましたけど」
「しなくていい経験もあるんですよ」

ワインの3杯目を飲み干す。ゆるくいい気分になってきた。美味しいからどんどんいけるな。
七海さんによりかかると、左頬が弾力のある二の腕とぶつかる。七海さんは体格よく見えるけどそれでも実はかなり着痩せしていることも知った。
七海さんの腕が私の肩にまわり、右頬に落ちていた髪を耳にかけてくれる。七海さんはこれを良くしてくれる。頬に当たった指先から、とくとくと心臓が忙しく送り出す血潮を感じた。
最初にしてくれた時が、1番その指先は静かだった。この家に来て少ししてレンジの使い方を聞いて向き合った時に、七海さんが話しながら突然、頬に落ちていた髪を耳にかけてくれた。私は驚いて耳まで真っ赤になってしまい、七海さんも無意識にやったらしく首まで真っ赤になっていた。気づかせなきゃよかった。それからずっと七海さんの指先は緊張しているから。
顔に髪がかかってますよ、で流しそうな人が、優しく耳に髪をかけてくれたことにその時は驚いてしまったが、付き合いが深くなると、内面がしっかり反映された行動だったと分かる。そして私はそれをしてほしくて、髪を半端な長さにしている。

「なまえさんは、隣の住人と会話をしたことはありますか」
「いや……ないですね。階段や廊下ですれ違ったくらいはあります」
「なら住人から視線を感じたことは?」
「な……いですね。気づいてないだけかもですが」
「……ならいいですが。ちなみに、引っ越しを考えたことはありませんか」
七海さんは淡々と帰宅直前に出会った隣人のことを語った。無遠慮なさぐりよりも、七海さんにぴったりはりつける脚力が怖い。隣人にはあまり会ったことがない。多分生活時間が微妙にずれているせいだろう。
「住みたい場所があれば、そちらに引っ越しを検討すべき時期かなと。更新のタイミングも近づいていますし、生活も落ち着いてきたので」
「私はここが好きですけど、七海さんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫……とは?」
「人のいない所に住むのが夢じゃないんですか?よく、『フリーランス、離島の楽園』とか『FIRE後の居住地ランキング』とかガン見してたんで」
「まあ……そうですね。前は」
「今は?」
七海さんは口ごもり、グラスを傾けた。「色々と、考えていて」と歯切れ悪く続く。
「どこでもついて行きますよ」
そう伝えると七海さんは視線をさまよわせて、ワインをグラスに注ごうとしたが中途半端な量を満たしてボトルは空になった。ゆらゆらとワインの水面がグラスの中で揺れる。
「……2本目を飲みながら聞いてもらってもいいですか」
「聞きたいです」
「取ってきます。飲みたいものはありますか?」
「じゃあ、キャップシールが青いのを」
七海さんは空のボトルを持ってキッチンに向かった。そして紙が擦れ合い、包丁が置いてある引き出しを開ける音がする。何かおつまみが準備されはじめている。
木刀の向こうに置いた八ツ橋に目が行く。……ワインにはちょっと合わないかな。大半が補助監督さん達へのお土産だが、自分の仕事中のおやつに買っておいた分は、明日、隣の家に挨拶に行く手土産にしよう。

2021-06-05
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