「七海はみょうじさんのこと好きだよね」
灰原にそう言われて、やっと自覚した。
術師でありながら臆面なく人が好きと言うだけあって、灰原はよく人を見てその変化にすぐ気がつく。
灰原に会って、私は感情を表に出さないように律するのが下手だと気づかされた。苛立ちや不機嫌、焦りなどのマイナス感情が顔に出やすいと灰原に指摘されるまで全く知らなかった。むしろ普段からいつも不機嫌そうと言われてきたので、上手く隠しているとさえ思っていた。
だからみょうじさんのことを言われた時、驚きもしたが納得もした。

「いつから気づいていました」
「うーん……4月くらいかな?七海、ずっとそわそわしてるから。食堂とか談話室できょろきょろしたり、みょうじさんが手合わせしてるの授業中に見てたり。携帯のチェックも前より頻繁にしてるから」
無意識の行動を並べられると恥ずかしさを通り越して頭が痛いが、気持ちが固まってくる。そういう感情を今まで少ないながらも持ったが、人と違うものが見えている時点で全て諦めて来た。
「五条さんにバレてるだろうか」
「大丈夫だよ。バレてたらもっと言ってくるんじゃないかな」
「……でしょうね」
感情がバレるのは術師として、そもそも人としてデメリットが多い。
五条さんはそれが服を着て歩いているような人だ。あの人のおかげで感情の隠し方の上達速度はあがったが、あの人のせいで感情を表に出す機会も増えている。
「応援するからね、七海」
「別になにもしなくていいです」
「なんで?」
「なんでって」
なんでだろうか。
癖のように否定してしまった灰原の言葉への回答は、まだ見つかっていない。

▼ ▼

「家入プロデューサーどうですか!」
「ん〜いいよ。彼女いいね」
「ありがとうございます!おい七海!スポドリと火!!」
「わかっとらんねキミ〜、私は校内では吸わんのよ」
「なにしてるんですか」
「昭和のプロデューサーごっこに決まってんだろうが」

7月下旬になると朝からすでに日差しが痛い。日課のランニングのために麓に続く高専正門階段に向かうと、五条さんと日傘をさした家入さんが道のド真ん中にしゃがみ込んでいた。コンビニ前のヤンキーよりその姿が様になっている。
「何をしているんですか」
家入さんの方を向いてもう1度尋ねると、五条さんが尻を叩いて来る。反応すると更に叩いてくるので無視をする。
「なまえちゃんから頼まれて走り込みの監督。怪我したら治してまた走らせるの。……七海、眉間の皺ヤバ……なまえちゃんから言い出したからね。本当に無理になったらストップかけるから。だから眉間の皺ヤバいって。七海も走るんでしょ?声かけてあげなよ。いってら〜」
「七海、サイダーの新味買ってきて」
「嫌です」
尻を叩くな。

なだらかで長過ぎる階段を見下ろす。毎日見ているのにその長さに慣れない。
暑い。麓よりはマシだろうが、暑いものは暑い。アイスボックスが食べたい。コンビニに行って五条さんの要望は無視して、自分のものだけ買おう。
軽いランニングで降りて行くと、みょうじさんを見つけた。こちらに背を向けて階段に腰掛け、頭からタオルをかぶっている。木々の影が彼女に落ちて、白いTシャツとタオルへ斑の柄がついている。そういえばさっき会った2人もそうだったことに、今になって気がついた。私は本当に彼女のことをよく見ているなと、1周回って客観的に私が私を評価する。
みょうじさんを好きになってからものをよく見るようになった。普通に生活していると彼女との会話のネタはほとんど拾えないから。7月にもなると高専生としての基本が身について、彼女が質問をしてくることもメールも少なくなったし、最近は同級生と手合わせや食事をしている。会おうにも機会がなく、話しかけようにも内容がない。祓除した呪霊の話なんてわざわざ聞かせたくない。街の中、食事先、送迎車、風呂の中。気がつくと彼女に話せることをいつでも探していた。

「大丈夫ですか」
声をかけると重力にひかれてタオルは生き物のように落ち、彼女はゆっくり振り返った。
「……お久しぶりです。暑いですね……」
「1週間ぶりですよ、それほどでもない。水は持っていますか」
顔を赤くして頭から汗を流しながら、彼女は半分ほど入ったペットボトルを振ってみせた。
取り上げると水道水よりぬるい。私のを押し付けるように持たせると、彼女は視線を新しいペットボトルに鈍く移動させた。熱中症になってないだろうな。
「私は下で買いなおすから、飲んで」
「ありがとうございます…………生き返る……」
「死なないためにやるトレーニングで死ぬのはやめてください」
「大丈夫です、足。足にキてて」
そう言う通り彼女の膝は、意思とは無関係に疲労で早く小刻みに震えていた。
「こういうオモチャありませんでしたっけ」
「………わかりません。立てますか」
「なんとか」
「掴まってください」
彼女の右腕を肩に回し、肩を貸す。身長を合わせるために前かがみになると彼女の手が首に触れた。その見た目から予想がつかないほどひやりとして、思わず肩が震えてしまう。彼女はそんな私を見て熱に浮かされたような顔から一転、目を大きく見開いた。
「置いて行きますよ」
「何も見てないです。でも耳真っ赤ですよ。本当に水もらってよかったんですか。それともそんなに……?」
「貴女が暑いだけです。本当に体温が高い」
「体に熱がこもって全然出ていかなくて」
「発汗が悪いんです。トレーニングを続けていれば汗をかくのが上手くなって熱も逃せるようになります。そのわりに手は冷たいんですね」
「夏は便利なんですけどね。冬はめちゃくちゃ辛いです」
「いつも冷たいんですか?」
「緊張すると熱くなります。みんなは手が冷たくなるって言うじゃないですか。私は逆なんです」

みょうじさんを連れ帰り、家入さんに引き渡すと五条さんが「なんだその膝」と言って彼女をからかう。やはりコンビニでサイダーは買わない。

▼ ▼

「私のジャイアントコーンをカプリコとすり替えたの、五条さんでしょ」
「何?待ちぶせしてたの?」
「たまたまです。せっかく七海さんがくれたのに……」
「七海が俺のサイダーをシカトしたからね」

夜中の2時。あまりの暑さに目が覚めて共用冷凍庫にアイスを取りに行くと、七海さんがくれたジャイアントコーンの代わりにカプリコが入っていた。ジャイアントコーンに「みょうじ」と書いておいたのに、カプリコに「みょうじの」と書かれている。の、じゃないよ、の、じゃ。
「そのガリガリ君ください」
「ヤダよ。暑いんだろ?その代わりに涼しい場所、教えてやるから」
ついて来い、と五条さんは窓の枠を簡単に乗り越えて出て行く。股下長すぎマンの特権だ。冷たくなったカプリコをちまちま食べながら後を追う。石畳や飛び石の道を無視して、五条さんは植え込みの中をお構いなしに通って行く。
ついて行くか迷っていると「みょうじー!!」と呼ぶ声がする。虫に刺されそうで嫌だな。草のないルートを行きたいな。
「来い!!」
今2時なんだが?しょうがなく突っ切って後を追っていくと、五条さんは寮の方を見ていた。
「七海、怒ってんなあ」
「え?いませんでしたよ」
「はは、だから怒ってるのか」
「見えないでしょうに」
「見えるんだなこれが」
五条さんの目は色々見えると聞いているが聞くたびに、体温・呪力量・預金額・昨日の夕飯・今日の運勢・今日の天気・電車の運行状況と、どんどんめざましテレビみたいなことばかり返されるので、聞くのはやめた。

しばらく歩くと、小さな滝を持つ池があった。側に石造りのベンチがあり、五条さんはのびのびと腰掛けた。滝が起こす冷気が辺り一帯の熱を冷ましている。
「涼しいですね。ここで寝たいくらいです」
「だろ。学内の建物は頻繁に場所が変わるけど、固定されてるヤツもある。この池も固定箇所のひとつ」
良いこと教えたからチャラと言わんばかりに、五条さんはガリガリ君を音をたてて食べていく。
「話、変わるけどさ。来月は盆休みあるけどみょうじは帰省すんの?」
「残ろうと思います。なんでですか」
「お土産買ってきてもらおうと思っただけ」
「……皆さんはどうするんですか?」
「毎年俺以外は帰る。五条先輩と残れて嬉しいだろ。……おい、嬉しいって言え」
「すみません、カプリコが溶けそうなので……」
「カプリコは常温固形だろうが。まー、実家には帰れないよな。やっぱ気持ちは変わんないの」
「ガリガリ君を取り上げたい気持ちですか?」
「呪詛師を殺したいっていうの」
「変わらないですね」
「殺したらどうすんの」
「……一般に行こうと思います」

▼ ▼

私が高専に来た理由は、通称“販売員”と呼ばれる呪詛師を殺すためだ。
1年程前の梅雨頃、私の幼馴染のお姉さんにある呪霊が取り憑いた。頭はヤギ、下半身は人のような2歳児程の大きさのそれは、ただただ彼女の肩に両手をかけてぶら下がるだけで無害だったが、絶対にアレは何かをするという予感がした。
周囲に呪霊が見えるのをひた隠しにして暮らして来たが、それを引き剥がすために私は自分が見えるものについて彼女に話した。気が狂っていると思われるかもしれないが、幼馴染という長い付き合いから、彼女なら信じてくれるかもという信頼もあった。

お姉さんはすぐに信じてくれた。
相談中にそれは彼女の肩から離れ、私の肩へ移動し、その時から彼女はその呪霊だけ見えるようになったからだ。
なぜかは分からない。私達はその呪霊をなんとかするためにいろいろ調べたが、呪霊どころか呪いさえよく知らなかった私達は糸口さえつかめず、徒労のみが積み重なって行った。

何もできないまま1ヶ月が過ぎようとした頃、お姉さんが私を部屋に呼んだ。
向かうと、彼女は机の引き出しから平べったい木箱を取り出した。いかにもいわくつきという汚れと劣化が見られる箱を開けると、中に入っていたのはどこの家のキッチンにもありそうな万能包丁だった。
「駅前の露天商の人が声をかけてくれて。お嬢さんが困っているものを消し去るって売ってくれたの」
“それ”に“この包丁”を突き立てるだけでいい、と。
そう露天商が言ったらしい。

お姉さんはおずおずと包丁を手に取った。突き立てる持ち方ではなく、食材を切る持ち方で。そうだ。そうなる。私達はあの時、どうしようもなく普通の子供だったんだから。お姉さんは緊張した顔で何度も私に「動かないで」と言い聞かせ、私の肩で遊ぶ呪霊に思いっきり包丁を突き立てた。ヤギ頭は汚い声を上げて私から離れ、そして部屋中に血が飛び散った。包丁を持っていたお姉さんの右腕から肩にかけてが、吹き飛んでいたのだ。
ヤギ頭から血は1滴も出ず、ただ刺された所が黒く焦げて、死体は跡形もなく消えた。部屋には血だらけの私とお姉さん、先の折れた包丁だけが残された。
私の泣き声に気がついたお姉さんの家族が部屋にかけつけ、救急車や警察と一緒に来たのが夜蛾先生だった。

「君の幼馴染が包丁を買ったという露天商は呪詛師だ。私達も追っていて、“販売員”と呼んでいる」
販売員は日本各地で非術師に呪具を売りつけて使用させているらしい。目的は不明。神出鬼没で売り方も様々。非術師が呪具を売りつけられて加害者になったという事件だけが多発している。
「ただ販売員が売った呪具が使用者を殺したのは始めてだ。君の話を聞く所、そのヤギ頭のものは呪霊というのだが……かなりの低級か、逆にかなり知能がある上級かの2択しかない。それにこの現場には君の残穢がある。もしかしたら君には呪術師の才能があるかもしれない」
そうして私は呪術界にスカウトされた。私も販売員が殺せるならと、スカウトを受けた。

▼ ▼

「みょうじはモノに残った呪力から呪力の主を探せるんだろ?あの包丁から呪力辿って販売員を探すってのどうなった?」
「毎日やっていますけど反応は無いです。上手く隠してるのか、もう繋がってないのか」
「……そうか。まあみょうじなら一般でもやっていけると思う。ただ術式も使い勝手いいし、索敵できる人員は今はレア。人や呪霊へ攻撃することを躊躇しないってのも才能だよ」
確かにそうだと思う。でも私はきっと、あの事件に遭わなければ、人はおろか人型に近い呪霊に斧を振り下ろすことなんてできなかったろう。
「……自分が恨みをエネルギーにしてるって分かるんです。受験が終わったら勉強したこと全部忘れるみたいに、販売員を殺したら腑抜けそうで。簡単に、死にそうで」
五条さんは相槌をうってはくれたが、分からない感覚だろう。五条さんは勉強しなくても楽々受験に受かるだろうから。
「一般に行くっていうなら先に教えとく。非術師家系の学生に対して、術師家系のやつらからの視線がキツくなってる。この先数年は何かと割を食う状況が続くかもしれない」
「なんでですか?」
「夏油傑の事件、知ってる?」
「聞きました。家入さんから」
「そいつが非術師家系だったせい。だからアイツと近かった学生達の中に同じ思想のヤツが生まれてもおかしくないよねってこと。で、俺はこの空気をなんとかするために、人を集める方に行きたいんだよね。呪術師界の上って腐ったヤツばっかじゃん?若い世代からクリーンにしていけば、いつかは全部まともになる。数年でこの非術師家系学生へのガンつけはなんとかするから、その後に帰って来てよ」
「使い物になれば」
「うん。で、俺さ。教師、向いてると思う?」
「日本で上位クラスに食い込むほど向いてないと思います」
デコピンされた。指は太いしパワーもあるので、とても痛い。
「高専には頻繁に顔出すよ。販売員を追うのも引き続き手伝う。俺が投げたら夜蛾先生しかみょうじの事情知らないから困るだろ。硝子は卒業したら医師免取りに行くらしいし」
「ありがとうございます。助かります」
「でもさ、七海には言っていいんじゃない?」
「……考えたんですが。やめておきます。七海さんは、なんか、なんか違うんです」
そう言うと五条さんは、「お。当たった」と嬉しそうに私にガリガリ君の棒を見せた。
「了解。おやすみ」
聞いてた?不安だ。寮に戻って行った五条さんを見送り、空席になったベンチに腰掛ける。
私と七海さんが最初に出会った時、私には呪詛師の可能性があったのに、彼は私を傷つけることをギリギリまで回避しようとした。
七海さんはきっと呪詛師であっても人を殺すことに、罪悪感を持つ人だと思う。だから巻き込みたくない。1年前の自分とは随分変わった。きっとあの頃の私なら、七海さんを確実に巻き込んでいただろう。

▼ ▼

外で彼女の名前を呼ぶ嫌な声がして目が覚めた。窓の外を覗くとみょうじさんが戸惑いながら藪の中に入って行く姿が見えて、五条さんの急かす声がまたした。きっと涼みに行ったのだろう。ベッドに戻るが、眠れない。嫌な予感がする。

寮の入り口で出くわした五条さんは案の定、みょうじさんを置き去りにして帰ってきた。
「普通あんな所に後輩を置き去りにしないでしょう」
「高専内だからいいだろ。そんな顔するなって、俺は甘やかしてくれる年上派だから」
当たった、とアイスの棒を見せびらかして五条さんは去って行った。
……やはりバレただろうか。いや、おちょくってるだけだ。バレたならもっと遊ばれる。

迎えに行くと、みょうじさんは滝の側のベンチで滝を眺めていて、私へ寛いだ笑顔を浮かべた。
「あの人について行かない方がいいです」
「すみません……昼の熱が全然抜けなくて」
「発汗が上手くなれば熱も冷めやすくなるので、来年はもっと楽にすごせますよ」
横に座る。夜に涼みにくる人間がいるので取り付けられた小さなライトが、彼女の首元を照らしていた。くっきりと見えた彼女の鎖骨から視線をそらす。
「七海さんはお盆は帰省しますか?」
「まだ決めていません。去年は帰りましたが。みょうじさんは?」
「私は残ります。家族とあまり話すこともないので」
私が聞いた彼女の声の中で、最も温度がない声だった。
いつもは跳ねるような声が、生気を失っていた。まるで1本の真っ直ぐな線だ。風が吹いて、木々がざわめく。夜だから周囲を気にして声のトーンを落としているのかもしれないし、ただ眠たいだけかもしれない。けれど私は、その声がどうにも不安だった。本当にみょうじさんがそこにいるのか?彼女のことはここでは誰よりもよく知っているはずなのに、全く知らない人がそこにいるような気がした。

「夏祭りがあるらしいです。ここからそんなに遠くない所で」
できる限り、明るい話題をひねり出す。
「東京は色々ありますから、家入さんと行ったらどうですか」
「誘われました。ラーメン巡りとか屋台飯とか、ビアガーデンとか」
「ビアガーデンは駄目でしょう」
「ですよね。七海さんも一緒にどこか行きませんか」
「行きましょう」
楽しみですね。
彼女の声はやっと陽気そうに揺れた。それでも、その白い鎖骨の上にある顔はあの彼女のものなのだろうか。
「手を借りてもいいですか」
暑いので、と言い訳を続けると彼女は左手を私の方へ差し出した。ライトの光を受けて、鎖骨と同じ色の手を握る。
「あれ?七海さんの手も冷たいじゃないですか」
「……駄目ですか」
「駄目じゃないですよ」
声は笑っている。小さくて柔らかく、それでいて手のひらは私と同じように肉刺が潰れて、固くなりかけていた。もう最初に会った頃の彼女ではない。けれど私は彼女が変わらず好きだ。
好きな人ができて諦めなくていいことに戸惑っている。彼女は初めてできた全てを共有できる、好きな人。初めてすぎて、どう動いていいか分からない。

その手を握り続けたが、彼女の手はいくら握っても冷たいままだった。

2021-05-26
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