※「パッチワークの日々」の過去話です。


なんか体調悪いなあっていうのはあった。早寝するほどじゃないダルさ、軽い筋肉痛みたいな体の痛み。体調不良までじゃないけど、100%元気じゃない。そんな感じ。でも今週は遠出の任務だったから、疲れかなって昨日の朝から感じてた。
けど今日はやけにひやひやと肌寒い。寮へ顔を出してくれた歌姫先輩に、寮のエアコン壊れてるんですかねって聞いてみたら、先輩はパチパチと瞬きした。
「え?寒いの?顔真っ赤だけど?」
先輩が見せてくれた手鏡の中の自分は、サウナから出てきたみたいだった。先輩は私の額に手を当てると、空いた片手で携帯をひらいて操作する。
「タクシー1台。はい、麓に」

1時間後、私は土曜午後も受付をしている病院の待合室にいた。自覚すると急に悪寒や節々の痛みが顔を出す。目がまわり、股関節がぎしぎしと悲鳴をあげている。動けない私に代わって歌姫先輩が水を持って来てくれて、飲んでみるとお腹の奥まで冷たい水が落ちたのを感じた。
「疲れだと思ってて……」
「忙しかったものね。風邪にしろインフルにしろ、疲れから来るものだからゆっくりしてなさい」
土曜午後遅くまでやってる病院はこの辺りには少なくて、人がごった返してきた。先輩の肩を借りて目を閉じる。おかわりいる?と、私の手にある紙コップに先輩が手をのばす。
「そういえば夏油が明日、東京から来るんじゃなかった?」
先輩の言葉に、渡しそこねた紙コップがペコンとまぬけな音をたてて床に落ちる。
「……電話、してきます」
「いってらっしゃい」
外に出ると、もう寒いのか暑いのか分からなかった。手が震えているのも熱のせいか、電話する緊張か判断できない。自動ドア越しに歌姫先輩と目が合って、先輩の口が「大丈夫?」と動く。鈍い指先で傑の番号を呼び出すと、まるでかかって来るのが分かってたみたいに、すぐ彼は出た。

『なまえ?どうしたんだい』
柔らかい声に頭の痛みが遠のいた。
……明日は久しぶりに傑と会えるのだ。前は月に最低1回は会えてたのに、2年生になるとお互い忙しくて2ヶ月に1回会えれば良い方。明日会えるのだって傑がかなり無理やり時間を作ってくれた。……これ、疲れによる一時的な発熱では……?明日になったら治るんじゃない……?熱、そんな、そんな……高くないでしょ。
考えていた言葉を飲み込みそうになった時、脇に挟んでいた体温計から電子音が鳴る。39.5℃。インフルエンザがそっと手をつないでくる。やめて。
「あの……ごめん……明日、家の急用が入って」
『……会えそうにないかな。早朝でも夜中でもズラすけど』
「あ、朝から晩まで家に帰らないといけなくて……ホントにごめん。せっかく時間作ってくれたのに」
『……気にしなくていいよ。なまえが時間を作ってくれたのに、私の都合で会えない時もたくさんあったから。次に行けそうな予定が決まったらすぐに連絡する。だからそんなにうつむかないで』
反射的に顔が上がる。言い回し、キザだなぁと思うことはたまに……いや多々あるけど、それを心から言ってくれるのが好き。
「ごめんね」
『お互い残念だね。次は倍楽しもう』
『え、傑、明日なまえのところ行かねーの!?ならここ行こうぜ!』
五条のはしゃいだ声が遠くに聞こえる。おい。おい、あの黒メガネ絶対許さん。絶対許さんの気持ちが爆発しそうになりながら、鼻の奥まで綿棒を突っ込まれるインフルエンザの検査を受けたら、陰性だった。なんで?

歌姫先輩に手を引かれてタクシーに乗り込むと、とろとろと眠気が訪れる。薬局で出された解熱鎮痛剤は、効果が強い代わりに副作用の眠気も強かった。もう何年も風邪を引いてなかったから、薬の副作用に弱いのかもしれない。
「明日夏油は来るの?」
「嘘ついて断りました……」
「本当のこと言ってもいいんじゃない?」
「言うと看病のために来てくれそうで。傑は休み少ないし、風邪ひいた私と会うよりは東京でゆっくりしてほしくて。あと風邪もうつしたくない……」
「アイツなら風邪もインフルも弾くでしょ」
「あれ……そうですね?いや、いや。そうじゃなかったら大変だし。……不安になってきた……会うの嘘ついて断る彼女って最悪では?フられる……?」
「落ち着いて」
歌姫先輩が溜息をつく。今日ずっとこればっかで目がとけそう。風邪引いて気が弱くなってるだけよ。そう言って先輩は頭を撫でてくれた。
「夏油も五条並にヤバいけど、なまえのこと大切にしてるのは確かだから、安心して寝なさい」
「ひゃい……」
重くなる目蓋の隙間から京都駅が見えた。明日、あそこで待ち合わせだったのに。
鼻をすすると注射された薬の臭いが上がってくる。匂いは、記憶の中で失われてしまうのが最も早くて、残す手段もほぼ無く、取り戻せないものだと思う。傑、どんな匂いしてたっけ。今朝までは思い出せたのに、今はアルコールと薬剤の臭いで思い出せない。

▼ ▼

次にはっきりとした頭で目が覚めたのは翌朝の7時だった。寮のみんなが寒がってる私のために持って来てくれた毛布の海から抜け出すと、昨日のような肌寒さは感じなかった。
天井、歌姫先輩が持ってきてくれたジュース、後輩のラベンダー色のパーカー。記憶が断片的で、つなぎ合わせて行くと今日が日曜日であること、そして傑と会うのを土壇場でやめたことを思い出した。……悪寒も熱っぽさもない。解熱剤はもういらないかも。けどとりあえず胃に何か入れよう。
部屋から出るためのカーディガンをクローゼットから持ってくるのは面倒で、昨日脱いだ記憶がないコートを羽織る。腰に何かが触れて、ポケットにいれっぱなしだった携帯を思い出した。

『歌姫先輩から聞いた。お大事に』

その一文に、旅行ガイドブックを丸めて傑に殴りかかろうとする五条悟の写真が添付されたメールが硝子ちゃんから来ていた。黒メガネあの野郎。私と傑のお付き合いヒストリーは、五条悟と私の傑の取り合いヒストリーにもなってるの、本当にやめたい。
硝子ちゃんに返信しながら部屋のドアを押し開ける。冷蔵庫に買い置きしてたゼリーを食べて、さっさと寝よう。そう思ってたのに、一瞬で頭の中が塗り替わった。
傑の匂いがしたから。
上手く言えない、あの落ち着く匂い。なにがこの匂い出してるの。昨日の朝も、一昨日もしてなかった。寮でこんな匂いがしてたら一発で気がつく。気を取られて手から離れたドアが、大きな音を立てて閉まる。

「おはよう。具合はどう」
死角になっていたドアの向こうに傑がいた。
いつもは無い椅子が廊下に置かれていて、そこに腰かけて本を読んでいた。傑が。
「な、な。なんで」
「歌姫先輩が連絡をくれた」
彼は本を閉じると長い腕を伸ばし、私の頭を撫でた。歌姫先輩にされると眠くなるのに、傑にされると目が覚めてしまう。同じことをされてるのに不思議だ。
「熱がまだ高いかな」
撫でてくれた手が移動して、甲で私の頬の体温を確かめる。手は温かくも冷たくもない。けど火照った頬と同じなら、きっと傑の手はいつもみたいに温かい。深爪気味に切り揃えられた傑の爪が首にあたる。普段はまとめている髪も下ろしてて、毛先がゆらゆら揺れている。

ここまで鮮明なのは現実しかない。空腹と熱で脳のエネルギーがゼロの私にこんな想像できない。
「……嘘ついてごめん」
「風邪を引いてたら私だって同じことをするよ。むしろ体調が悪い中、考えてくれたんだろ?なまえは優しいから」
「……いつからそこいたの?」
「1時間くらい前から。夕方に歌姫先輩から連絡もらって、昨日の夜遅くに着いた。空き部屋に泊めてもらったんだ」
「そっか……その、ありがとう。すごく会いたかった。あとニット、似合ってる」
「ありがとう」
傑がいたことが不意打ち過ぎて、うまく言葉が出てこない。
制服と同じ全身黒だけど、私服のチェスターコートにパンツ。中に着ているニットだけが唯一白い。これ、デートのときに推して推して買ったやつだ。筋肉質だから白のニットは気が引けるって言ってたのを、絶対似合うと推しまくって試着室に押し込んだやつ。
傑の柔らかい雰囲気に似合ってて、いい具合に気にしてた体の厚みも拾ってないし、すごくいいって言うのが恥ずかしくて、超似合ってる!としか褒めれなかったのに買ってくれたソレを、今日着て来てくれるとか。

傑は椅子から立ち上がると、私を見下ろした。
「実は渡したいものがあって、どうしても今日会いたかった」
差し出してきたのは、白い小さな紙袋だった。持ち手の紐にリボンがきゅっと結ばれてる。私、誕生日近かった?……いや違う。
「……クリスマスプレゼント?」
「まさか」
傑は優しげな笑みをずっと浮かべていたが、続く言葉を口に出そうとした時、少しだけ視線がずれた。
「……1周年記念ってとこ」
「なんの?」
「私達が付き合ってからだよ」
「……う、うっそ〜〜」
驚いてしまって、声が自分でも聞いたことない裏返り方した。傑は吹き出すと、受け取った私の手を傑の手が上から覆った。
「本当だよ。嫌だったかい」
「まさか。でもそういうの、あんまり好きそうな感じしなかったから……」
直接言われたことはなかったけど、今まで記念日系の話題はひとつもなかった。だから、気にしないタイプだと思ってた。私も気にする女は嫌われるって聞いたから、もちろん何も言わなかった。情報元?傑と付き合えるのが決まった後、垢抜けるために雑誌売場で端から端まで買って読んだファッション雑誌に載ってた恋愛コラムだよ。
「自分でも、なまえと付き合うまではこういうのをするとは思ってなかった」
「……熱、計ってもいい?手が震えてきた」
「そうだね。それに小さいものだから、部屋で開けてもらった方がいい」
引き返して部屋に入るが、なぜか傑は部屋の前で棒立ちで、私と目が合うと視線を泳がせた。
「……中に入っても?」
「え、もちろん」
「……なまえの部屋に入るのは、初めてだから」
少しこわばった声に今度は私が思わず笑ってしまう。あの傑が、うつむいて、耳を赤くしてる。部屋に入らず廊下で待ってたのは、このせいだったんだ。
どうぞって手で促すと、傑は部屋に入り、中を見回し、とりあえずこの山みたいな毛布をたたもうか、と笑った。

2020-07-02
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