最後にもう一度
 とうとう観念してショーヘイを部屋に招き入れることにした。彼と付き合いだしてから幾度目かの十月の午後のことだった。

「うん、ユキちゃんらしいや」
 ショーヘイは物珍しげに部屋を見渡してから一言そう言った。質素な部屋なのは自覚していた。この中で存在感があるのはシンプルなベッドと、背の低い丸テーブル、CDラックくらいだった。狭い空間に背の高い彼の身体はいっそう大きく見えた。
「見ても面白くないから」
 とドアを閉めながら私が言うと、彼は一瞬目を見開いて、すぐに
「なに、ユキちゃん、もしかしてキンチョーしてる?」
 含み笑いを向けてきた。
 否定は出来なかった。無愛想で、付き合いの多くない私が他人を部屋に招くという行為は、真空状態で自分の酸素ボンベを相手に渡すようなものだった。それには私の空気が詰まっていて、相手が吸うと、隠し通していた私の一部がたちまち見破られてしまうような気がしていた。けれどショーヘイの駄々だけはついに断り切れなかったのだ。
「しかし、ユキちゃんがクラシック好きだったなんて知らなかった」
 並んでベッドを背にして座ると、ショーヘイが感心したように言った。丸テーブルに寄り掛かって、前方の棚に入った山のようなCDに見入っている。私以外に見られることのないディスクたちは、彼の視線にくすぐったそうに身を寄せ合っている。部屋に他人がいる風景が新鮮で、私はまじまじと彼を見てしまう。
「……そりゃだって、誰にも教えてないもん」
「誰にも。良い言葉ー」
「そんな意味で言ったんじゃない」
「俺以外にそんなこと言っちゃ駄目だよー?」 と私の方を向いて微笑むと、ショーヘイはテーブルから身を乗り出して棚に手を伸ばした。彼はいつも、私には届かない距離をやすやすと越える。指は迷うことなく一枚のCDを選びとった。
「これ、面白そう」
「ああそれ、わたしも好き。聴く?」
「うん」
 私はCDを受け取って、デッキに入れ込んだ。機械がディスクを回す音だけになるこの瞬間が、私は好きだ。彼も私も、棚にうずくまるケースたちも、目に見えない壁のほこりでさえ、息を潜め、耳を澄まし、音楽の神秘が始まるのを待っている。

 音が一つ鳴った。
 ピアノだ。
 高い空から一筋の金色の光となって、ゆっくり、真っ直ぐ流れ落ちていく。初めの一音は透き通っていて、けれどもどこへも傾かない。その思いがけない力強さに私ははっとしてしまう。音は線を描いて動き出す。空中で節々に点を残しながら、時々寄り道をして、流れを絶やさずに膨らんでいく。洗練された音は私たちの耳に染み込んでいく。
 少しずつ繰り返されるテーマは、綺麗な曲線をなぞる。流れの中でわずかにぶれるのは作曲者の意図。だんだんと重なる音律は何かを予感させる。いつしか旋律は激しくなり、はじめの一音からは想像もつかない高揚感に、息をするのも忘れて見守る。緊張の糸を解く場所を私は知っている。安堵の解決音に辿り着けばいいのだ。大丈夫、音はそこへ近づいている。ときに振り向いて、ときに繰り返して、私を焦らす。解放してしまいたいのをぐっと堪えて私は待つ。
 だが突然、いくつもの音はたった一つに集約される。解決の音ではない。真上から落ちてくる、まったく別の音だ。今までとは違う角度の色彩に、私は血液が甘酸っぱくなるような感覚にとらわれる。たった一つの音は、それまで部屋に渦巻いていた光を一瞬にして変えてしまう。そして音は重なることなく、単旋律でゆっくりと下っていく。結末が見えない。だけども音の線は私を待たずに、だんだんと細くなり、とぎれとぎれになり、点になっていく。音は決してもがいてはいない。誰も予想出来ない自らの着くべき場所に真っ直ぐ向かっている。聞いているのか感じているのか私は分からない。ただ目を凝らしている。点は名残惜しげに音を落としていき、そして、とうとう消えた。

 この曲の終わりはいつも、切ないほどに儚い。
 私は深くため息を吐いた。余韻はまだ抜けなかった。隣にショーヘイがいることも忘れかけていた。
「ユキちゃん」
 かけられた声にびっくりして、反射的に振り向いた。ショーヘイは肘をテーブルにつけ掌に顎を乗せたまま、いつになく真剣な表情で私を見ていた。
「ご、ごめん」
 急に恥ずかしくなって私は俯いた。
「聴き入っちゃって、つい……」
「もう一回……」
「え?」
 顔を上げると、ショーヘイは微動だにせずに口を開いた。
「もう一回聴いてもいい?」
「えっ、あっ、うん」
 私は慌ててデッキのボタンを押した。一つの音が再び、一筋の光の道を描き出す。
 けれど、私はさっきのように聴き入ることは出来なかった。ショーヘイの視線をこれでもかと言うほど感じるのだ。先程とは違った緊張感に包まれて、曲が頭に入ってこない。無数の洗練された音は確かに美しいはずなのに、何度も頭の隅に追いやられてしまう。
 曲が終わった。思い切ってショーヘイの方を向くと、かっちりと目が合った。
「……終わったよ」
「うん、もう一回聴きたい」
「……ショーヘイ、どうしたの?」
 恐る恐る聞いてもショーヘイは黙ったまま、ただ私を見つめてくる。沈黙が部屋を包み、自分の心臓の音が鮮明に耳に響く。私は困惑して、おもむろにCDケースを手に取った。
「『この曲は作曲者が生前に敬慕していたある女性へ当てた曲と言われています。愛をうたっているかのような美しい旋律が情緒的に折り重なっていく構成は作曲者特有の手法で、私たちをより甘美な世界へと導きます』」
「へえ、そうなんだ」
 ようやくショーヘイが反応したので、私はほっと息をついた。
「俺……今世界でいちばん得な人間だと思う」
「得?」
 と返すと、ショーヘイはにっこり微笑んだ。
「ユキちゃんそんな顔するんだ、知らなかった」
 私は一瞬、何も反応出来なかった。
「……顔なんて、いつもと変わんないから」
 とごまかして、私はCDケースの角に指を押し付けたりなぞったりした。こういうショーヘイには未だに慣れなかった。
「俺以外の誰かとこの曲聴いちゃ駄目だよー?」
 と軽く言って、私の頭に掌を置く。ショーヘイの愛は親心に似ていると思う。頭を撫でられる度、こそばゆくてじっとしていられなくなるからだ。
「えっと、もう一回、聴きたいんだっけ?」
 なんとか紛らわそうと、私は再びデッキのボタンを押した。一筋の音が、部屋を澄んだ光で満たしてくれる。けれど、ショーヘイの大きな掌は私の頭から離れてくれない。それどころか掌は後頭部に回って、優しく私を振り向かせた。瞬間、触れた部分が一気に焼けたように熱く感じる。ショーヘイの顔が近づいてくる。息をのむ旋律は私の右耳に入って、左耳へと抜けていってしまう。
「ショーヘイ、ちゃんと聴いてよ……」
「うん。最後、もう一度聴く」
 呟く彼の吐息が唇にかかって、私の心臓が音を立てて揺れた。後頭部を押さえていない方の手は私の頬をゆるやかに包む。逃げられない。私が逃げられないと分かっていながらショーヘイは意地悪く笑う。至近距離の彼の瞳は、驚くほど底が深い。
 唇が、ほんの少し触れると、離れ、すぐに触れた。まるで鳥が啄んでいるようだ。指は私の頬を愛おしむように撫でる。愛をうたう旋律は、耳を掠めて天井へと流れていく。それは揺らめいているが、つねに真っ直ぐに向かっている。

 音は甘美な世界へと私たちを導く。ときに振り返り、ときに繰り返し、私を焦らす。けれども大丈夫。行き着く場所を私は知っている。安心して目を閉じる。




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東京童夢に参加した時の。またこの二人。


bkm
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