言葉では伝わらない
 別に愛し合っていたわけではないのだと思う。彼女自身の気持ちを告げられたこともないし、僕も彼女に特別な愛情があるのかと言うと、そうではないのだ。
 彼女の黒髪が少しかかるふっくらとした頬を見ると口づけをしたくなるし、彼女が熱を出すと心配になるし、彼女が可愛がっていたパピヨンが死んだ時も、悲しみに震える彼女の可憐な身体を抱きしめてやりたくなったが、それは狭いアパートで共に生活するうちに僕の心で育ってしまった情であって愛ではないのだ。多分。
「とか、思ってみるけど」


「なあに」
「君はどう思う」
 真顔で問い掛けると、向かい合って座っていた彼女の足が僕の胸を打ち抜いた。鳥の喉が詰まったような僕の声と一緒に、湯舟の水面がびちゃびちゃと跳ねて風呂の中にこだまする。
「それはね、愛を通り越した情って言うのよ」
 彼女の言葉が石の壁によく響く。大体一緒にお風呂に入る他人が何処にいるのよ。見れば、彼女は僕を睨んでいたが、濡れた黒髪が頬にかかっていたので僕はまた口付けをしたくなった。
「キスしてもいい?」
 湯舟から少し腰を浮かせて近付き、彼女の頬に指を僅かに滑らせると、その瞳が揺れて濡れるのを僕は見逃さなかった。
「愛していると思うなら」
 上気した頬、濡れた髪、僕の頬に当てがわれたしなやかで細い指。誘い文句にしか聞こえない彼女の震えた願い。愛を通り越した情によって、さっきまでの僕の屁理屈はするすると解けて、温かい湯気と共に天井に舞い、空気に溶けて消えてしまうのだ。
「君が愛しているなら、僕も愛しているのだと思う」
 息がかかる距離まで近付けてから呟いて、彼女の唇にそっと押し付けた。離したけれども物足りなくて、閉じた唇を舌でなぞると、
「わからない人ね」
 僕の顔が映る緩んだ瞳で彼女がそう言うものだから、零れた言葉が落ちてしまわないようにと、僕はまた再び口付けをしたくなった。(わからないのは君だよ、僕の瞳にも君の顔が映っていることなんて、きっと君は知らないのだろうから)



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結構前のやつ。


bkm
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