前触れ
 猫は喋るものだと思っていた。


 初めて猫と喋ったのは、三歳の時だった。
 その前から、猫が母や父のような言葉を口にしているのを目にしていた。腹が減っただの鼠が食いたいだの、そういうことをしきりに鳴いていた記憶がある。父の髪みたく全部真っ黒で買いたての絨毯のような毛並み、瞳が瓶に入った蜂蜜を陽に透かして見た時と同じ色をしている、しなやかな生き物。しかし美しい外見とは反して、風のうなりよりも低く野太い声をしていた。
 だけど、猫の言葉にちっとも反応しない両親には聞こえていないことも分かっていた。両親には聞こえない、猫の鳴き声。私は猫に話し掛けてみたくて堪らなかった。
 それが実現したのは、確か父が仕事の日、母が丁度宅急便を受け取りに玄関へ向かっていた昼間だったと思う。窓の向こうは風が庭の梅の木を折らんばかりに駆け抜けるにも関わらず、太陽がやんわりと光の粒子を注いでいた。それを猫としばらくしんしんと見ていた。

「魚が食べたい」
 声に反応して猫をじっとりと見つめても、彼は全く動じなかった。何故かいつも猫は食べ物のことばかり言葉にする。聞けなかった疑問を問い掛けるのは今だと思った。
「どうして?」
 瞬間電流が猫のからだに走ったかのように見えた。小振りな耳をぴんと天井に向けて立たせ、鼻の穴を淡い肉色の舌で素早く二、三度舐めてから、その顔がぐるりと回ってようやく私に向けられた。口元の長い三本髭が僅かに痙攣し瞳がゆらゆら動いている、言うならばまるで、焦る人間の表情のような……。
 不思議な猫だと思い、私は好奇心を剥き出し顔をぐいぐい寄せてもう一度「どうして?」と言った。今度はしっかりと目が合った。猫はまた鼻先を素早く舐め髭を痙攣させ、私はその猫の一挙手一投足を逃すまいとあらんかぎり瞼を広げて猫の反応を待っていた。
「おれの言葉が、聴けるのか」
 ゆっくりと、猫の口から初めて食欲以外の感情が流れ出た。猫自身に言い聞かせているような噛み締めた声。私は猫の新しい反応に息を潜めて、音を立てないように小さく頷いた。猫は首をぶるっとさせ背筋を伸ばすと、またゆっくり窓の外に視線を戻しそうか、そうかとしきりに呟いた。そして最後に溜め息と共にこう吐き出した。
「お前は血を受け継いでいたのか」
 受け継ぐという言葉をその時の私は知らなかった。何か猫語なのだろう、もしかして父と母にはバレてはいけないと私に注意を促しているのかも知れないと、自由勝手に解釈した覚えがある。もっと面白いことをやってくれるのではないかとしばらく見ていたが、猫はそれ以上のことはしなかった。先程の驚きざまがまぼろしであったかのように、すっかり目を閉じて黙っている。母が宅配便の荷物を受けてリビングに戻ってきても、普段と何ら変わりなく居座り、時々腹が減ったなどとぼやいていた。私は諦めなかった。けれど気が付いたら猫を枕代わりに寝ていた。気が付いたら手近の玩具に夢中になっていた。猫は当たり前のようにねこじゃらしはないかとぼやいていて、私は当たり前のように聞いていた。そんなものだろう。
 
 その当たり前が突然なくなった。
 
 
 次の日起きると、猫がいなくなっていた。それは、満たされていた気配が砂に隠れてしまったようだった。家のどこを覗いても、黒い毛並みの間からボタンのように光る瞳は見えない。どんなに猫を呼んでも、あの図々しい呟きは聞こえない。昨日の不思議な出来事は最初で最後だったのだと思うと、息をしても苦しかった。父と母とそれから猫。三歳の私はそれが世界の全てだった。

 「またいつか戻ってくるよ」と父は泣きじゃくる私を膝上に乗せてあやした。「遠くへ行く用事があるんだと。もう泣くのはおやめ」

 以前も猫が何度か、知らぬうちに何処かへ行ってはふらっと戻ってくることがあった、と母は言った。だけどもう帰ってこないと、私は気付いていた。猫という自分の身体の一部がくり抜かれ隙間風が容赦なく通り抜けるのが、ただただ痛くて仕方なかった。私の背中をさすってくれる父の手の暖かさに安心したかった。親の掌は偉大だと思ったのはその時が初めてだ。気が付いたらテレビに見入っていて、涙の跡も綺麗になくなったねと言う母の顔をよく覚えている。猫さん、と口にし見た窓の向こうは昨日と違って、電球の光が庭の奥まで差し込んで引き延ばされた草の影が夜のお布団に溶け込んでいた。そのお布団のそのまた影の向こうで、いつもの野太い声が聞こえてくるようだった。
 両親には聞こえない猫の声を守るのは私だと、悲しむのをやめようと思った。あの日の僅かな時間は、確かに私と猫との間に出来た一つの絆になっていた。眠りにつく前、私はもう一度窓の向こうを布団の中からじっと見つめていた。どこからかにゃあと、誰かのか細い鳴き声が聞こえた。



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猫語って習得するの難しいのかな。


bkm
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