午後六時になって、響はサンダルを履いて外へ出た。浩太のこと、チケットのこと、姉に言われたことが頭の中で次第に混ざり合い、悩みの渦となっていた。課題は手に付かないし、姉はあれから自室にこもったきり姿を見せない。凝り固まった思考をほぐそうと思い立ってのことだった。
 アパートは駐車場を前に見ながら、一本道に背を向けるようにして建っている。響は裏へ行く左脇の小さな階段を下り、道路へ出た。
 空が茜色に染まっても、午後から受けていた日差しの熱は引きそうになかった。アスファルトの上は鉄板で焼かれているように暑く、体中の汗の分泌を促すかのように熱風が追いたてた。すぐに響の額も汗が滲み出てきた。
 左手も右手も雑草の生えた空き地で敷きつめられている。その周りは森がなだらかに連なり、その奥に夕日が落ちようとしている。足元からアスファルトを目で追っていくと、それは二手に分かれることなく、ただひたすらに真っ直ぐに伸びて土地を隔てている。道路の伸びた先に、響は今は小さい大木の影を見つける。彼はあそこにいたのだ。響は何を思うでもなく、そこに向かってふらりと歩き出した。
 森からの蝉の鳴き声が真っ赤な空に響き渡る。歩けば歩くほど、むわっとした草の匂いが鼻孔を支配する。午前中の雨のせいで、それはいつもよりも湿った感じがする。響は立ち止まると目をつむり、ゆっくり深呼吸をする。夏の匂いを身体いっぱいに感じ取る。熱気が響を包み込む。面倒なこと、嫌なこと、全部が夏のヴェールで覆われていく気がする。足の指から、手の指先、頭のてっぺんまで、夏に同化しているような錯覚に陥る。
 蝉の鮮明な鳴き声が耳に入り、響は目を開けた。
 いつの間にか近くにいる大木に、蝉が一匹止まっている。晴れた夕空に向かって自らを誇示するかのように、堂々と幹にしがみついている。蝉がついた大木は、雨のせいかいつもよりもしっかりと地に足を付けているように見える。その根元に、腰を降ろした上野トキワの姿を響は見つけた。

 一昨日とは様々な状態が違っていた。彼はクロッキー帳を持っていなかったし、大木と向かいあってもいなかった。上半身を幹に預けて、前髪の奥にある瞳は茜色の空の遠くの方を仰いでいた。大木はまるで彼のために用意された装飾のように、彼に従順に寄り添っているよう見えた。
「また来たの、ハスヌマさん」
 彼は夕焼けから目を離さずに、薄い唇だけを動かして呟いた。しっとりした声だけは一昨日と変わらなかった。
「なんで、苗字……」
 響のぎこちなく開いた口から掠れた声が漏れた。
 彼はこたえなかった。代わりにその瞳を響に向けて、自分の隣を軽く叩いた。来いと言っているのだろうか。すこし悩んで、響は足に力を入れて近づいた。
「見て」
 木の根元まで来ると、上野トキワが指をさして言う。指す方向に沿って見上げると、一面の緑葉が響の頭上でさわさわとせめぎ合っていた。一滴の雫が落ちて、響の頬にかかり、音もなく垂れていった。
「もっとよく見て」
 上野トキワが繰り返す。響はじっと目を凝らしてみたが、どこを彼が見てもらいたいのか分からなかった。
「そこ。あそこの枝」
 彼が立ち上がって、指を更に伸ばした。上野トキワの顔が近づいて、響は緊張でどうにかなってしまいそうだったが、何とかその長い指の先にあるものを見つけた。
「あ……」
 それは赤ん坊の足の小指ほどの小さな蕾だった。折り重なった緑葉に埋もれたそれはすぐに見逃してしまいそうで、響は何度も見直した。焦げ茶色でぷっくりとしていて、枝の先にぽつんとついていた。
「まだ、蕾はこれ一つだけ。明日からもっと増える」
 そう言いながら彼は幹を軽く叩いた。
「これは一体何の木なのかな」
「桜」
 えっ、と響が思わず上野トキワを見上げると、彼は優しく笑って響の手を引いた。二人は静かに根元に腰を下ろした。
 大木の周りの土は少し湿っていて、アスファルトの上よりひんやりしていた。根元は生い茂った雑草にまんべんなく覆われ、キリギリスの鳴き声がちらほらと聞こえた。響き渡る夏の鳴き声が、二人の耳に心地よく馴染んでいった。
 響は彼が話してくれるのだろうと期待して黙っていたが、上野トキワは幹に身体を預けて胸の前で腕を組むと、目を瞑ってしまった。どうすればよいかと響がオロオロしていると、彼は薄ら目を開けて、自分の隣りへと響の手を引いた。響はとまどいながら彼と同じように幹に上半身を傾けた。緑葉についた雫が響の鼻先に落ちてきて、シャボン玉のように弾けた。
 自分は何故だかこの木の声が聞こえる、と上野トキワは言った。「彼」は、明日からの一週間、花を咲かせるらしい。その姿をどうか形に残してほしいと、彼にお願いされた。だからこうしてここに来て、描き続けている、と。
「でも……そんなこと、普通はありえないと思う」
「うん」
 と頷きながら彼は笑っていた。温かい笑い方だと響は思った。
 彼は響の手を離そうとしなかった。響もそれにならって、ただじっとしていた。彼の掌はちょっぴり湿っていて、そしてしっとりと響の手を包んでいた。


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