幻想雨
 次の日は朝から雨が降っていた。
 この時期にしては珍しい穏やかな雨だったが、空はどんより曇っていた。響は窓の外を見つめながら、あの大木のことを思い出していた。
 記憶の中の木は、あの時と変わらぬままただ一人で立っている。そのカピカピに乾いた幹に雨粒が一滴一滴、吸い取られるように染み込んでいく。蝉は雨に打たれないよう、重なりあった葉の奥で身を潜めている。前髪のあいだから覗く彼の瞳は目ざとくそれを見つけ、隠れ損ねた蝉のお尻までも模写していく。クロッキー帳に雨粒が落ちてシミをつくる。彼は構わず鉛筆を走らせる。長く描いているのか、彼の指にはペンダコがぷっくりできている。雨はそこに音もなく落ちて、鉛筆を伝い、更にシミをつくる。彼は、今この時、この瞬間の大木を永遠に留めておきたい一心で、我が身が濡れて冷えるのも気にせず描き続ける。クリスタルの汗は雨粒と混じって濁り、彼の周りに水たまりをつくる。響はその水たまりに両手を入れる。さらさらとした彼の汗は、響の指の間を通り抜けて、ひび割れたアスファルトへと吸い込まれてしまう。
 響は自分の指を見つめた。タコも筋肉もない、ひょろい指だと思った。



「そういえば昨日の夜、何があったの?」
 響の姉がそう聞いてきたのは、午後三時すぎのことだった。ぐだぐだとリビングで過ごしているうちに雨はすっかり止み、雨雲が追いやられた空は真っ白い太陽が堂々とその身を置いていた。
「何って、なに?」
 それまでソファでぐうたらしていた姉が急に身を乗り出したので、響は戸惑いながら答えた。
「響の部屋にあったチケット、見つけちゃった。あんたが自分から恋愛映画観に行くとは思えないし、あれ、前売り券でしょ。誰かからもらったんだ、しかも、男の子。当たってるでしょう」
 姉はニヤニヤしながらソファに座りなおした。
 図星を指されて響はどぎまぎしたが、「違うよ」と咄嗟に嘘をついた。
「ふうん。まあ、何でもいいんだけどね」
 姉はそう言いながらも薄笑いを止めずに、言葉を続けた。
「どこの馬の骨があんたに惹かれてるのか知ったこっちゃないけど、あんたにその気がないなら、期待させるようなことは止めなね。面倒ごとは嫌だからってうやむやにするの、あんたの悪い癖なんだから」
「別に面倒くさがってはないけどさ……」
「態度を曖昧にするなってことよ」
 姉は人差し指を響に突きつけながらそう言った。響はどう言い返せばいいか分からなかった。
「あんた、あたしと似て話を流す癖があるから、忠告してんの。他人任せではいはい言ってるのって楽だけど、自分にツケが回ってこないように気をつけなさいね」
「お姉ちゃんもそういうので悩んだことあるの?」
 と響が尋ねると、姉は何故かにっこり笑った。
「さあね。それよりそろそろ夏休みの課題やったほうがいいんじゃないの。父さんと母さんが帰ってきたときに何か言われても知らないよ」
 父の会社の同僚から展覧会の招待券をもらったらしく、父と母は朝から美術館に出向いていた。
「お姉ちゃんだって、今までごろごろしてたくせに」
「あたしにとって休日は疲れをとる貴重な時間なの。これからもっとごろごろするんだから」
 そう言って、二階の自室へ上がって行ってしまった。響はふてくされながらも課題プリントを開いたが、いっこうにシャーペンを取る気にはなれなかった。



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