アスファルトの熱

 浩太から電話がかかってきたのは響が部屋に戻った直後だった。
 滅多にないことだった。もしかしたら初めてだったかもしれない。前触れもなく突然に着信が来たので、いつもは迷わず押す通話ボタンも、響は一瞬、押そうか押すまいか悩んでしまった。
「も、もしもし」
 こわごわ出ると、
「蓮沼?」
 いつもの落ち着いた声がすっと耳へと入った。
「浩太くん」
 普段と変わらない調子の浩太に響はほっとした。
「いきなり、ごめん」
「ううん大丈夫。どうしたの?」
 と聞くと、受話器の向こう側で数秒の沈黙があった。
「……いま、蓮沼んちの前通るんだけど、時間、ある?」
「あっ、うん」
「じゃあ、来て。そろそろ着くから」

 響がアパートを出ると、浩太はすでに待っていた。彼の様子は普段と変わっていなかった。学校で会う時のように前髪を左に分けて、指定のカッターシャツの袖を二回ほど捲くり、お尻のポケットに財布を挿していた。
 辺りは藍子を見送った時よりも暗く、電灯に明かりがついていた。二人はアパートの駐車場の石畳に腰をおろした。
「急にごめん」
「べつに、いいよ」
「暇だった?」
「うん。さっきまで藍子いたけど」
「へえ、そうなんだ」
「うん」
 車が一台、アパートの前の道路を通り過ぎた。電線に留まったカラスがひとつ鳴いた。風は生暖かかった。
「暑いな」
「うん。暑いね」
「もう日落ちてるのにな」
「だって、駐車場、アスファルトだし」
 響は自分の足元を見つめた。サンダルがアスファルトに擦れてザラザラと音を立てた。ふくらはぎは、くっきりと靴下に沿って焼けていた。
「……浩太くん、夏休みなのに制服来てるんだね」
「ああ、今日、補習あったんだ」
「補習?」
「うん。古典の。長かった。もうくたくた」
「それは、それは、お疲れ様でした」
 響はふと、学校から浩太の家への道のりだと、自分のアパートは通らないことに気づいた。
 二人はしばらく、アスファルトに視線を落としたままだった。浩太はポケットから財布を取り出しては中を見たり、財布をしまったり、足を組み替えたり、自分の掌を撫でたりしていた。何かをどう言おうか思案しているようにも見えたし、単に沈黙を紛らわそうとしているようにも見えた。響はサンダルばかりを見つめていた。
「俺さ、好きなんだよね」
 ぽつりと彼が言った。
「蓮沼のこと」
 浩太が自分の掌のしわを見つめているのが、気配で分かった。夜空が晴れやかに広がっていた。湿気を含んだ弱風が二人の髪をなびかせた。響は脱げかけたサンダルを履き直そうとしてみたが、意識すればするほど、足の裏はサンダルにへばり付いたように動かなかった。
 浩太はしばらく何も言わなかった。どのくらい時間が経ったのか、見当がつかなかった。ただ時間が過ぎれば過ぎるほど、響の足はこびりついたように動かなくなっているみたいだった。
 響のこめかみに汗が垂れた。響がそれを拭おうと腕を上げると、思ったより重く、ぎこちなく動いた。腕まで固まってしまっているようだった。
 もしかして彼は、わたしが何か言うのを待っているのだろうか。ふと響は思った。ここはわたしが返事をするべき番だったのかもしれない。もしかするとこの沈黙を不本意に待たされているのはわたしじゃなくて、彼の方なのかもしれない。そう思った途端に響は、掌を撫でたり足を組み直したりしている浩太の動作が、中々口を開かない自分に対していらついているように思えてきた。
「……わ、わたし」
 と焦りながら絞り出した響の声は、
「まだ、返事はいい」
 浩太の落ち着いた声にいとも簡単に遮られた。
「返事はいいから、二十四日、ちょっと付き合ってほしい」
「えっ?」
 浩太は財布から小さめの紙を二枚取り出した。
「これ、映画の前売り券」
 彼が何度も財布を確認していたのはこれを渡すためのようだった。浩太は一枚を響に差し出した。
「二十四日の、夕方六時から」
「で、でも、その日は」
「五人で遊ぶ日だろ。分かってる」
 浩太は一枚を響の掌に押しつけた。それから残りの一枚を財布に入れ込んで尻ポケットにしまうと、立ち上がった。
「じゃあ。忘れんなよ」
 とだけ言うと、彼は背を向けて歩きだし、あっという間に夏の夜へと消えていった。
 響はチケットを手にしたまま、茫然としていた。まるで熱風が毛布のようにくるんで、響の身体をやんわり制止しているようだった。

 クリスタルの汗が響の脳裏をかすめた。



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