桃色に滲む

 響が、藍子からのメールに気付いたのはその日の夜、眠りにつくころだった。次の日の正午過ぎ、藍子は響のアパートにやってきた。
 四世帯が住める二階建ての賃貸アパートは今春に建てられた。まちはずれの何もないところにポツンとあるアパートを藍子はよく気に入っていた。響の家族が引っ越してまだ四ヶ月しか経っていない住居は、至る所に新しい匂いが残っていた。
「新品の教科書の匂いと、木の匂いを混ぜ合わせた感じ」
 藍子はアパートに来る度にそう感想を述べて、深呼吸をした。小振りな鼻はアパートの匂いを時間をかけてゆっくり味わっていた。

 響が転校してきて最初に仲良くなったのが藍子だった。彼女は、響が自らの教室の席を覚えるよりも前に、誰よりもはやく響に話しかけた。
「蓮沼響ちゃん、だよね」
 と、一つひとつを確認するように言い、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「藍子って言います。藍色の藍に子」
「あいこちゃん。可愛い名前だね」
 と、響が笑いかけると、藍子の数歩後ろで様子をうかがっていた三人がやってきた。そこから、響は藍子たちと行動を共にすることになった。
 まるで、以前も一緒にいたかと錯覚してしまうほど、藍子たちとはすぐに波長が合った。リーダー格の藍子と大人しい奈緒は面白いくらいに正反対の二人だった。学食のカレーライスを頼むと、藍子はルーを残し、奈緒はお米を除けて食べた。雨の日には藍子は黒いシンプルな傘を差し、奈緒は白いフラワープリントの傘を差した。二人の共通点といえば制服のスカート丈の長さぐらいだった。
 逆に充と浩太はよく似ていて、ほとんど見分けがつかなかった。唇の厚さ、髪の分け目、ボタンの開け方、歩き方、言動までもが同じだった。双子ではないと響が知ったのは転校してから一週間後のことだった。見た目は似ていても性格に微妙に違いがあることに響が気付いたのもこの頃だった。充が比較的誰にでも気さくに話しかけるのに対し、浩太は広い友好関係を自ら作ろうとはしなかった。
 四人とも、転校生の響を快く迎え入れた。転勤族の自覚もあって、引っ越し先で中々友達を作れない響には新鮮な感覚だった。ちぐはぐな四人を響はすぐに好きになった。

「もう、響が全然返信くれないから焦っちゃった」
 響の部屋に入るなり、藍子はそう言ってグロスで潤った唇をすぼめた。
「余裕を持って昨日の夕方にはメールしたのに」
 昨日の夕方。響は昨日の記憶を辿ってみた。上野トキワが、ひび割れたアスファルトに座り込み、生温かい風を受けながらひたすらに干からびた大木を模写している姿が目に浮かんだ。車も人もほとんど通らない忘れ去られた長い長い一本道の真ん中に、どっかり腰をおろしている。今日もあの場所でクリスタルのような汗を流しているのだろうか。しっとりした声が、耳の奥から聞こえてくるようだった。
「さては何かあったんでしょ」
 と勘ぐる藍子に、
「まさか、なんにもなかったよ。チャリ漕いでて気付かなかっただけ」
 と響は首を振った。
「それより、今日どうしたの? 着いてから話すって。昨日のこと?」
「まあ、うん……」
 と言葉を濁すと、藍子は大きくため息を吐きながら響のチェック柄のベッドに飛び込んだ。スプリングが音を立て、ベッドが不安定に揺れた。
「充の反応どう思う?」
 枕に顔を押しつけながら藍子が呟いた。
「どう、って言っても、藍子が一番近くにいたじゃん」
「そうだけど、響から見てどうだったかってことよ。映画は喜んでくれたけど、それはいつもと変わらない反応だし、あたしと一緒に観れることが嬉しいっていうより、観るチャンスができてラッキーって感じだった」
 藍子は顔をさらに押しつけて、枕を強く抱きしめた。やり切れない思いをそこに押しつけるかのようだった。
 昨日、夏休みに入って久しぶりに五人で会った。最近上映が始まった恋愛映画を、地元の小さな映画館で観に行ったのだ。提案したのは藍子だった。真ん中の一番良い座席に充と藍子が並んで座り、その後ろの列に浩太、響、奈緒と座った。藍子が充のことを好きなのは、響が転校してきて間もないころにすぐに分かった。クラスの誰もが分かるほどの藍子の好意に、気付かないのは本人ぐらいだった。
「二人で遊べばいいんじゃないかな。そうすれば少しは充も気付くかも」
 と響がカーペットに腰を降ろしながら提案すると、藍子は枕の中で首を振った。
「それは無理。無理よ。二人で遊ぼうなんて言えない。そんな恥ずかしいことするくらいなら、あたし、動物園のカバの歯磨き係になったっていい」
 普段はクラスでもどこでもみんなを集めて仕切り、何事も先頭をきっていく藍子でも、充を前にすると別人のようだった。充の一挙一動に頬を染め、落胆し、恥じらい、内気な恋する乙女になっていた。長い期間定住したことのない響にはそれがとても新鮮だった。いつも恋をするには日が浅く、友達の恋を応援するには時間が足りなかった。
「カバの歯を磨かなきゃいけないなら、わたしは二人で遊ぶけどなあ……」
「響も好きな人が出来れば、そう思うようになるって」
 大丈夫よ、と理不尽な慰めをかけ、藍子は枕を響に投げやった。皺くちゃになった枕のシーツから、藍子のグロスの匂いがほんのり漂っていた。
「夏休みはもう、会えないのかな……」
 藍子が何度めかのため息を吐いた。
「三十日に模試で学校に行くから、その時に会えるよ?」
 えっ、藍子が声を上げた。
「今日は何日?」
「二十二」
「二十二日、か」
 日にちを復唱すると、藍子は頬をほんのり染めて照れくさそうに微笑んだ。恋する顔だった。
「そっか……会えるんだ」
 そう言って目を細めた。目の前にいない充の姿を思い浮かべて、あらん限りの愛を壊さないようにそっと、だけども零さないようにきつく抱きしめていた。藍子をそんな顔にさせる充は幸せ者だ、と響は思った。
 その後も藍子の相談は続いた。夏の空が次第に赤みを増していった。遠くの森から蝉が鳴いていた。響は窓際に寄りかかった。黒い点のようなカラスが二羽、夕焼けを横断していった。
 藍子の話を聞くのは嫌いじゃなかった。彼女は何がなくともよく喋るので、響が相づちを打てば、それだけで時間はどんどん進んだ。正直、自分が役に立っているとは思えなかったけれど、自分の過ごした一日の裏に、彼女が充を思いながら過ごした一日があったことが分かると、響の心はまろやかな幸せに満たされた。

 彼女は話すだけ話すと満足して帰っていった。玄関の向こうは、すでに赤みが薄れ一番星が見えていた。
「遅くまでお邪魔しました」
 藍子は丁寧に頭を下げた。
「いいって、丁度親もいなかったし。気をつけてね。藍子も女の子なんだから」
 と響が言うと、藍子は呆れたように
「こんな何にも無いところなら、百メートル先に人がいればすぐ分かるって」
 と笑った。
「そうね」
「そうよ。じゃあ、また」
「うん。何かあったら連絡してね」
 藍子は蝉の鳴き声に見送られながら、夕日の方へと消えていった。



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