クリスタルの汗

 八月下旬の夕方はまだ蒸し暑さが肌にまとわり付いていた。
 響は少しでもはやく家に着こうと自転車を走らせていた。そのために、止まらない汗を拭うことも、メールを打つために携帯を取り出すことも我慢して漕いできたのだ。なのに、彼を見た瞬間、彼女の足は、まるでそれが必然だったかのようにぱったりと動かなくなった。
 殺伐とした田舎の風景が彼をさらに際立たせていた。ぱらぱらと一軒家はあるものの、雑草で生い茂った空き地ばかりが周辺に佇み、それらを分断するかのように真っすぐと続くただ一本の道路。アスファルトはところどころひび割れ、白線は引かれていない。彼は、そんな閑散としたまちはずれに放り込まれた場違いな蛍のように見えた。響は今まで出会った人を出来る限り思い出そうと記憶をたぐり寄せた。だが、誰の姿もその少年とは一致しなかった。
 彼は道の真ん中で絵を描いていた。道の外側を見るように胡坐をかき、膝を机代わりにして大きめのクロッキー帳を開いている。すっと鼻筋の通った横顔が、目にした映像を忠実に再現しようと真剣だった。そして彼の肩、肘、かがんだ腰、どれも無駄なく筋肉がついているのがシャツ越しにうかがえた。
 響は自分の口が開いているのに気付き、慌てて片手で覆った。手を離した拍子に自転車のバランスが崩れ、急いでもう片方の掌に力を込める。自転車が視界に入って、響は気がついた。彼が狭い道路を占領しているおかげで自転車の通る場所がないのだ。
 どうしよう。話し掛けようか。それとも空き地に乗り上げて避けようか。どうしよう……。
 さんざん迷った挙句、響はごくりと唾をのんだ。
「あの」
 響の声にハッとして少年が振り向いた。
「……すみません。気付かなくて」
 と、そっけなく会釈をした。流れるような、しっとりした声だ。横から見た時よりも前髪が長く、それに隠れて表情があまり読み取れない。だが、何故か惹きつけられた。
 響は返事を忘れて彼をまじまじと見た。彼の声のようにしっとりした身体つきだった。
「あの……」
「あっ、ごめんなさい」
 少年の怪訝そうな声に、響は黙っていた自分に気付き慌てて頭を下げた。
「もう少しで終わるんで」
「大丈夫です。……あの、見ていてもいいですか?」
 え、ああ、と少年は首をかいた。
「……つまらないと思うけど」
「わたし、こうやって絵を描いてる人を見るの、初めてで」
 へえ。人事のように言うと、少年は視線を響から外し、元の位置に身体を向けた。それが、別に見ても構わないと言う意味だと響は理解した。
 道路と空き地とを隔てる低い石垣に自転車を立てかけると、空き地の伸び放題の雑草からむわっと夏の匂いがした。少年はまたクロッキー帳に鉛筆を走らせた。響は気を散らさないよう注意を払って隣に座った。
 彼は大木を模写しているようだった。なるほど確かに、彼と向かい合わせの場所に大木はあった。空き地に腰を降ろした木が二人を見下ろしている。だが、それは忘れさられた大木だった。根っこは雑草で隠れて見えず、幹はカピカピに乾燥していた。木についたミンミンゼミの鳴き声があまりに元気で、幹がはらりと剥がれてしまいそうだった。
 何となく栄養の行き届いていない印象。これといって特徴があるわけでもない。これを描きうつして何が面白いのだろうか。もっと華やかなものを描いていると思ったのに。と、響は内心思った。
 少年は、クセのある短い黒髪だった。日中もここに座っていたのだろうか、少し日焼けした頬に汗が垂れていた。彼が動くとその汗がきらりと舞い、響は息をのんだ。クリスタルのような汗が、音も無く砕け散って、空気へ溶けていく。
 響はどきどきしながら彼を見守った。触れると割れてしまいそうな、シャボン玉の汗を彼は流し続けていた。

 少年が描き終えたのはそれから数分経ってからだった。彼はクロッキー帳を手前の地面に置いて絵の全体を眺めると、納得したようにひとつ頷いて、「はい」と響にそれを差し出した。
 響は受け取ってその絵をじっくり見た。彼は乾燥した幹の皮一ミリ単位まで、忠実に大木を再現していた。鉛筆色の葉が、クロッキー帳のなかで風に煽られてさみしげに丁寧に揺れていた。
「あの、どうしてこの木を描こうと思ったんですか?」
 彼は汗を拭くのをやめて顔を上げた。前髪の奥にある瞳が響を見ていた。
「……描けって言うから」
「えっ?」
「描けって言うから」
「誰が?」
「こいつが」
「こいつって、木が、ですか?」
「まあ、うん」
 少年は次の響の言葉を待たなかった。立ち上がり大木を一見すると、響に背を向け、夕焼けに照らされた一本道を歩きだした。
 彼が足を踏み出したとき、彼の腕からクリスタルの汗が一粒、吸い込まれていくように地面へ落ちた。響の胸が震えた。
「あの、お名前、教えてくれませんか」
 と、途切れ途切れに尋ねた。何もなしに別れたら、彼は一本道の彼方へと消えて、そのまま、二度と会えないような気がした。
 少年は一度足を止め、振り返ると、その前髪の間から覗く瞳で響をしっかり捉えた。
「トキワ。上野トキワ」
 そう言うと、彼は夕焼け色に光る汗を背負って再び足を踏み出した。
 少年がいなくなった目の前の道路は、いつもの見慣れた風景に戻っていた。響はその場に立ったまま、米粒ほどになるまで彼の姿を見続けた。しっとりした彼の声が、響の耳に、いつまでもしつこくこだましていた。


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