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 毎年この日になると、カレンダーの日付が嫌というほど俺を睨みつける。
 あの日からちょうど十年、今でものうのうと生きているくせに一歩も前に進めていやしない俺を。


 周りのざわめきに気づき、俺は教室に掛けてあったカレンダーから目を離した。椅子から立ち上がる音がまばらに聞こえる。前方を見ると、先程まで手をついて話していた担任の姿はなく、ざわついた教室の中教卓だけが静かに立っていた。
「紫(ゆかり)帰るぞ!」
 肩を叩かれ視線を少し右にずらすと、いつもの友人が目を輝かせていた。小麦色の肌のせいで白い歯が際立って見える。
「……ああ」
 その友人の肩越しに見えるカレンダーがうらめしく俺を見ているような気がして、逃げるように教室を出た。後からついてくる友人は何か伝えたいことがあるのだろうが、今日の俺はどうしてもそれを聞いてやる気分になれない。
「明日転校生来るんだってよ、聞いてるのか?」
 廊下を歩き、階段を降りても、一言も喋らない俺に話して楽しいのかと思うほど友人は早口に何かを喋っていた。校門のところまで歩くとようやく、いつも無愛想なんだから今日くらいまともに生きろよ、と右手をあげ、背を向けて帰っていった。歩く友人の後ろ姿をじっと見つめていても景色がふやけて霞んでゆき、それとは反してあの日のことが脳裏に浮かんでくる。

 
 おぼろげだった視界に「深代(ふかしろ)」の表札が突然映り、そこで初めて家まで歩いていた自分に気付いた。門を開けようとしていたのだろう把手に右手をかけている。途端に、網目の細かいフィルターが外れたかのように景色がくっきり見えてきた。先程(といってももうしばらく経つのだろう)友人と別れた時より陽が傾いて、門に寄り添う金木犀の緑葉一枚一枚が橙色に染まり、影をとろとろと落としていた。晴れた日の夕陽は特に美しいというのはとっくの昔から分かっていることだが、俺はやっぱりそれに見惚れるような気分にはなれない。
 金属の擦る音で門が俺を迎え、低い階段を数段あがり、ドアを開けると少ししてから、紫かい、と祖母の声が聞こえた。多分いつもの和室にいるのだと思う。ローファーを脱ぎ揃えて、フローリングを少し歩き、右手にあるふすまを開ける。隅の仏壇で静かに合掌する祖母の丸い背中があった。障子が柔らかい陽の粒子を部屋に通している。ただいまと呟いてから、それが唇の数センチ先で消えてしまうほどの小さな声だったことに気付いた。だけど祖母には届いていたようで、もう一度言おうとした時にゆっくりと、その小さな身体をこちらに向けた。
「おかえりなさい」
 背中の後ろで音を立てないようにふすまを閉めると、祖母が仏壇から手をついて離れる。祖母が座っていた場所に同じように正座し仏壇と向かい合い、合掌して頭を垂れた。しばらくして上げた目線の先には父と母の遺影が、動くことのない笑顔で俺を見つめている。
「あれから今日で十年だねえ」
 響きにくいはずの和室なのに、祖母の言葉が俺の鼓膜を大きく揺らす。
 膝に置いた掌を広げて見れば、刻まれた皴に沿って汗が浮き出てじっとりとしている。生きている証。俺は空を握って立ち上がり、無言のまま静かに和室を出た。リビングを横切り階段を上がり、自分の部屋に辿り着くと制服のままベッドに飛び込んだ。
 
 
 

 七歳の時に両親を交通事故で亡くした。

 と言えば、大抵の人たちはかわいそうに、つらかっただろうねと、それなりの言葉をかけてくる。そして本当にこの世はどうかしてる、皆が規律を守ればこんな事故はなくなるのにと、そこで社会の乱れた現状を嘆いたりもする。不謹慎かもしれないが、『本当に交通事故』であったら俺も大抵の人たちのように自分を哀れみ、社会はどうなっているんだと被害者面出来たのかも知れない。
 けれど違うのだ。俺の両親は交通事故なんかで死んだんじゃない。『交通事故としか説明できない出来事』だったから、そう言うしか他になかった。けれど今でもずっと脳にこびり付いて離れない。鮮明に思い出せる。忘れたりしない。忘れたりなんて出来ない。



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