他人から見ればわたしは不幸な人間だと言われるだろう。 たとえば、肌寒さを感じてお気に入りのもこもこした厚手のカーディガンを羽織りたいときも、ぐぅっとお腹が鳴る音を止めるために、一粒うん千円するチョコレートを口にするときも、手触りが抜群に良いブランケットに包まれながら眠るときも…全て彼の許しが得られないと望みは叶わない。 最初の頃は訳が解からなかった。だってわたしは普通にどこにでもいるような女子高生だったろうから。深夜までテレビを観て寝坊しそうになって、受ける授業は全て呪文にしか聞こえなくて…そうなると、瞼が落ちるのは当然のことだったし、学校が終われば友達とカラオケに行ったり買い物へ行ったり…。そんな日常を繰り返しながら過ごしていた。 それが突然途絶えることになったのは…もう思い出せないほど遠い記憶になってしまっている。 「ずっと君を見ていた。誰にも渡したくないから、オレのモノになってほしい。」 鮮やかな赤を纏った端麗な容姿、流れるように自然な所作でわたしの手を取り、その形良い唇によって熱を生んだわたしの手の甲。初対面にも関わらず嫌悪感を抱かなかったのは、彼の外見が整っているせいか、将又現実離れした状況に理解が追い付かなかったせいか…。 気付いたら頷いていたわたしは相当の馬鹿だ。 赤司征十郎、と名乗った彼とのお付き合いは、わたしにとって人生で一番輝いていた瞬間だったと思う。最初は不純な気持ちで始まったかもしれない…けれど、彼と過ごす時間が増えて行く度に、わたしの中で彼への気持ちも大きく膨らんでいった。在り来たりな言葉ではあるけれど、まさに世界で一番幸せなのはわたし!なんて暢気に浮かれて、友人からは毎日花を撒き散らしながら歩くな、と言われていたのも懐かしい。 そんな幸せな日々が崩れ始めた原因は一体なんだったか…。外見や立ち振る舞いだけでなく、頭脳明晰で運動神経も秀でている。更には統率力もずば抜けていたし人望もある…まさに完璧を体現したような彼はバスケットボール部の主将として活躍していた。 初めは彼には何も言わず練習を覗きに行ったり試合を応援しに行ったりして、こっそり彼の雄姿を眺めては自己満足に浸っていたけれど、そんなわたしの行動は全てお見通しだったらしい(最近知ったが彼は未来だか全てだかを見通せる眼とやらを持っているとかなんとか…)。 あまり良い顔はしてくれなかったのは少々残念ではあるが、それでも「ありがとう。」と言ってくれる艶やかな彼の笑みがすきだった。僅かに伏せられた長い睫毛が目元に陰影を落とす所作が憂いを誘い一層彼の儚さを露呈させているように思えて、わたしの胸が締め付けられると同時に堪らなく愛しかった。だから…それからも積極的、とまでは行かないが時間の許す限りは彼の姿を見るため、足しげく体育館や試合会場へ通っていたことがいけなかったのだろうか? 強豪校と言われるほどの実力がありもてはやされていたバスケ部。彼の力は圧倒的で歴然たるものであり、それに花を添える形となった才能溢れる部員が居たことも大きいだろう。天は二物を与えず、なんて言うけれど彼らを見ていると二物どころか三物も四物も与えているような気がする…と多少やっかんだわたしは、彼らを知っている人なら誰でも一度は抱いたことがある感情だと断言できる。 彼に負けず劣らず容姿が整った黄色や抜群のバスケセンスを存分に奮う青色、ミステリアスな雰囲気に反した気遣い屋な緑色、誰もが羨む長身でありながらギャップある愛らしい紫色、透き通る透明感を持ち何よりも綺麗で真っすぐな水色、スタイル抜群で愛嬌ある桃色…そんな彼らと交流が生まれるのは至極当然の流れだった。 正直バスケのルールどころか、興味すら持っていなかったけれど彼をはじめ、彼らと関わるようになってからはちょっとずつ知識を深めていくことが楽しく感じた。少しでもみんなの力になりたくて…なんて大それた気持ちはないけれど、それでもみんなの笑顔を近くで見ていたいと思ったのは間違いない。 その頃からだったのかもしれない…彼の憂いを帯びた表情の中に、時折見え隠れする獰猛な金色の瞳が支配しているように見えたのは。 わたしの日課となりつつある、彼の部活が終わるまで教室や図書室、時には練習風景をこっそり覗き見ながら時間を潰すこと。その日は…そう、梅雨に差しかかったじめじめした雰囲気がどうも煩わしくて、いつも彼と昼食を共にする屋上で時間を潰していたはず…。 彼とこういう関係になるまでは運動部の声なんて意識したことは無かったのに、風に乗って届く一意奮闘する声に自然と頬が緩んだ。きっと彼も、負けず劣らず汗を流しているのだろう、と。そう思うと以前ならば暑苦しいとまで感じた野太い雄叫びも微笑ましく思えてしまう単純なわたしの思考に呆れ半分と、それ以上の幸福感に満たされつつフェンスへ寄り掛かった。 解放的な空間だからか、将又彼を想ったことで温かくなる胸奥に心地良さを感じたからか…次第に重くなる瞼に訪れる睡魔を抗う方法など思いつくはずもなく、誘われるまま意識を手離していた。 まるで浮遊しているかのようにふかふかとした感覚が心地良くて小さく身じろぐが、掌に感じる冷たい布に思わず緩慢に瞼を開くと寝起きのせいかゆらぐ視界とぶれる脳内にゆっくり辺りを見回す。 (……どこだ、ここは。) 何度瞬きをしても何も映さない瞳に自ずと眉根を寄せて上体を起こそうとした途端響く、ガシャン!と乾いた音。鈍い痛みが生じた足首。目元に触れようとした手は直前で動きを止め茫然と固まっていたが、徐々に真っ暗な視界に慣れてきたであろう瞳が周りの物を認識し始めたことで、改めて自分の足首へ目をやる…と、いまどき刑事もののドラマでもなかなかお目にかかれないであろう銀色に鈍く光る鉄の輪。 「な…に、これ…。」 鉄の輪から繋がる鎖を辿っていけばわたしが寝転んでいたらしいベッドの柵に嵌められたもうひとつの輪。震える指先で触れてみればひんやりとした感覚に一層その存在を実感させられ、思わず両手で掴み揺らしてみるが、がちゃがちゃと耳障りな金属音だけ残して全く外れる気配はない。 さして長くもない鎖と動きを制限するかのような鉄の輪。パニックになり叫びだしたい衝動も、震える身体と胸元を押し潰されているかのような息苦しさにより音が弾けることはない。 理解できない、いや、したくない状況で…縋れるものが何もない今…簡素なベッドに申し訳程度に置かれていたブランケットをぐしゃぐしゃに抱き締め、滲んだ視界から溢れ出す滴を拭うように顔を押し付けた。 どうしてこんな状況になってしまったのだろう。わたしは、屋上で彼を待っていた、はずだ。それ以降の記憶が、ない。…彼は心配しているだろうか。それとも、呆れて帰ってしまっただろうか。 身につけている制服には携帯どころかハンカチすらなかった。断絶された空間に言い様のない不安と恐怖が湧き上がる。会いたい、彼に。彼ならばきっと見つけ出してくれる…。そんな願望にも似た希望にしがみつきながら、身体を震わせてどれくらいたっただろうか…。 初めてわたし自身が立てた音ではない…がちゃり、と響いた解錠音にハッ!と顔をあげれば…微かに開いた扉らしき場所から痛いくらいに差し込む光に思わず瞳を閉じた。 「目が覚めたか?」 「っ…、え?」 視界を遮っていたせいか恐怖に支配されていたせいか、驚くほどに第三者の声を正確に捉えたわたしの聴覚により、入室してきた相手を愕然と見上げた。 「あ…かし、くん。」 何故彼がここにいる。助けに来てくれた…?ならばどうしてそんなに冷静なんだろう。いや、彼は常に冷静沈着だった。…だけど、なぜそんなに笑顔なの。ねえ、そのルビーよりも赤くて綺麗な二対の瞳だったはず、なのに…その凶器を孕んだ金色の瞳は、どこを見ているの。喜色満面に彩られた口元は弧を描いているのに、今にも泣き出してしまいそうな…消えてしまいそうな貴方は、誰…なの。 言いたいことは山ほどあるのに、声にならない。喉の奥がきゅうっと締まって、理解し難い状況にがちがちと前歯がぶつかり合う。混乱する脳内に呼吸の仕方すら忘れてしまったのか、吐き出す息は徐々に浅くなっていて…視界も滲んでぼやけてきた。 「大丈夫だ。怖がることは何もない。オレが…、僕がいるから。僕だけ居れば、いいだろう?……名前、おまえは僕のモノなんだから。」 わたしが理解できる範囲を超えた状況に意識が飛んだのは至極当然な流れで…次に目が覚めたときには夢だったのか、と笑い飛ばすつもりだった。けれど、恐ろしいくらい綺麗な笑みを湛えて満足そうにわたしを抱きしめる彼と再会してからは余計なことは考えないようにした。 これが現実なのだ、と目覚める度に自分に言い聞かせた。 それからの日々はこの薄暗くて簡素なベッドの上と彼だけがわたしの全てになった。言いつけを守る限り、彼は優しい。暴力を奮うどころか、まるで硝子細工に触れるかのような手つきで優しくそっと着替えさせてくれるし、食事だっていつも温かくておいしくて、わたしのすきなものを食べさせてくれる。学校へ行く以外はいつもわたしと一緒にいてくれて、こちらがはずかしくなるほどの愛を囁いてくれるんだ。 一度だけ…家に帰りたい、前の生活に戻りたい、と口にしたことがある。彼のことはきらいではないし、むしろ世間一般的には恋だの愛だの、そういった甘い感情を抱いていたのだと思う。もちろん、彼もそういった感情を抱いてくれていたのだと…思う。 けれど、わたしのその一言に彼はひどく怯え、憤り、悲哀に揺れる深紅の瞳を揺らめかせながら取り乱した。 「……名前、は…オレが傍にいるだけじゃ、不満なのか?……そうか、本当は僕のことなど愛していないんだな。全部、嘘か?僕よりも、あいつらがいいのか。なぁ、そうなんだろう。」 「ちょ…あ、あかしくん!ちが…!」 「許さない。…僕以外を見るなど。僕の想いはまだ伝わっていなかったのか…どうすれば、どうすれば僕だけを見る?名前が大切にしているモノを全て消してしまえば、僕だけを見るのか?それとも、僕しか見れないように躾なければいけない?」 いつか見た凶器に染まり肉食獣のように鋭い金色を宿した瞳で見つめられてしまえば、一瞬でその場に縫いとめられたかのように動けなくなってしまう。押し潰されてしまうではないのかと思うほどに重苦しく痛々しい雰囲気に中てられ、意志とは逆に震えだす身体と滲む視界。何とか首を緩く振って否定をするしかできないわたしを見て、彼はひどく物憂げに睫毛を伏せて嘆息を漏らす。 「名前…、君まで、オレを…僕を、拒絶、するな。…僕には…もう、君しかいないんだ。」 定まらない一人称。金色の瞳。まるで別人格だと言わんばかりに纏う雰囲気が重苦しい。わたしが感じていた違和感の正体は、これだ。 けれど爪が食い込むほどに強く握り締められた拳が、小刻みに震えていることに気付いてしまえば、そんなことはどうでもよかった。鎖により制限されていたけれど彼へ触れるほどの自由はある。そう認識するや否や、わたしの身体は自然と動いて彼の大きな背中へ腕を回して抱き締めていた。 初めてだった。天帝と評される彼の脆弱さを目の当たりにしたのは。いつも他人の上に立ち、どんな重責にも押し潰されることなく君臨し続けてきた彼。ポーカーフェイスを気取っているわけではなく、それが彼の常であった。だからこそ、こんなに儚く今にも消えてしまいそうな姿を露呈させるなど、誰が想像できたか。この現状を打開したい、以前の生活に戻りたいと口にしていたわたしは、そんな彼の姿を見て身震いしてしまっている。 「大丈夫。大丈夫だよ…わたしは、あかしくんの傍にいる。ずっと、ずうっと。わたしだけは傍にいるから。」 一瞬でも気を緩めてしまえば上擦った声をあげそうになるのを必死に押さえ込んでいたから、とてもか細くたどたどしいものになってしまった。けれど彼の逞しく力強い腕がわたしを拘束したことで、加減なく身体を締めあげられる感覚に一層息が詰まった。 何度もうわ言のようにわたしの名前を紡ぐ彼に応えるため、一回り以上大きな背中をそっと撫で続けた。 鳴かないカナリア ((やっと手に入れた、そう思ったわたしの口角が自然とつり上がっていたことさえも、彼の瞳は見透かしてしまうのだろうか…)) |