dream | ナノ


あの日…びしょ濡れの彼と過ごした記憶が曖昧だ。ただ濡れた衣服から伝わる男の人らしい身体つきと、じんわり伝わる体温が至極温かかったことは覚えている。気づいたら、自宅の玄関前で突っ立っていた。びしょ濡れのわたしよりも、夕飯になるであろう食材たちを心配する母親。解かってはいたけど、なぜか虚しくて、悲しくて、寂しく感じて…意図せず緩みそうになる涙腺に気づくと、怒られるのを承知でバスルームへ駆け込んだ。案の定、背後からわたしの名前を呼ぶ母親の声が甲高く響いた。




それ以降、何か劇的な変化が起きることもなく…雨の日の邂逅は無かったかのように当たり障りのない日々が過ぎていった。1週間に3回会うときもあれば、2週間以上あえないときもある。まさに気まぐれな野良ネコのような彼。まあ、言動からすると犬を想像してしまうけれど。

挨拶を交わして、彼お気に入りのお姫様を甘やかすだけのときもあれば、傍にあるベンチへ腰掛けて他愛もない話をしながらお姫様を愛でるときもある。まあ、彼のほとんどはお姫様が独占してしまうのだけれど。それでも、彼の傍に居られる瞬間がすきで、何より愛おしくて…。
憧れと恋の違いなんてはっきりとは分からないけど、それでも雑誌やテレビで見かける彼の表情とは違った、少し幼い笑顔や拗ねた表情、ときどき空を見つめるように虚ろになる顔がすごく新鮮で、わたしの胸を締め付けた。魅了してやまなかった。

正直、憧れていた人を前にして饒舌に会話ができるほどコミュニケーション能力が高いわけではないし、頭の回転だって速くはない。何よりわたしは初対面である人を前に挙動不審な態度しかとっていない。いつだって彼が紡ぐカラフルな音色を聞き逃すまいと必死に耳を傾けては頷くだけでせいいっぱいだ。けれど、そんなわたしの態度に気を悪くすることなく隣に居ることを笑顔で許してくれる彼は本当に魅力的な人間だと思う。男女の恋慕を抜きにして、人として尊敬できるひとつである。

彼は思いの外、そこら辺にいる男子高校生と変わりないと思う。初めての出逢ったときはモデルの仕事帰りだったらしく、きらっきらの笑顔に似合う煌びやかな服装だったけど、大抵は彼が通う学校のジャージだったり制服だったり。纏う柑橘系の香りに混じって届く汗の匂いが、至極男子高校生らしくて一層好感が増したのは言うまでもない。


いつからか…お姫様を存分に愛でた手は、別れ際にそっと髪を梳く様にわたしの頭をなでていくのが日課になっていた。そんな彼の仕草を当たり前に受け入れている自分が、信じられない。彼とこうやって出逢うまでは、男性からのスキンシップを受け入れる、なんてことができると思っていなかったから…。だから、






「アンタ、何なの?」



こうやって唐突に掛けられた声には間誤付いてしまった。それもひどく刺々しくて、久しぶりに他人からの悪意に全身が硬直した。今日も今日とて、お姫様の散歩に出かけて、すてきなマダムたちにかわいがってもらって、ご満悦にこの公園へ来た。それはここ最近では日常とかしている光景。だけど、行く手を塞ぐようにわたしの目の前で仁王立ちする少女は、例外だ。心なしかお姫様も爪を立てて低く唸って威嚇しているように、見える…。苛立ちを隠しもせずこちらを睨みつけてくる様は、年下とは思えない凄みを感じて知らず知らずのうちに腰が引けてしまった。



「え…あ、すみません?」



とりあえず謝るのが日本人の特徴、という言葉を体現するように零れた謝罪は、だれが聞いても心が篭っているようには聞こえないだろうことはわたしが一番よく解かっている。この場を収めるにはこうするのが一番いいような気がしたから……なんて、言い訳にしかならないかも、しれないけど。
でもそんな心ない謝罪で納得してくれるような相手ではないのは、表情をみれば解かる。いや、わたしだってこんな付け焼刃的な感じで謝罪されても許そうとは思わないだろうから。



「舐めてんの?…そういう何もわかりません、っていう態度が一番ムカつく。だいたい、アンタみたいな女が何でキセリョと一緒に居られんのよ。みんな振り向いてもらいたくて、必死なのに。」



案の定、少女の反感を買ってしまったようだ。そして、彼女が怒る理由も納得出来た。わたしだって信じられないくらいなんだ。あの黄瀬涼太と会話して笑いあえる日がくるなんて。きっとこの人も、その周りにいるであろう人たちも、みんなすきなんだと思う。彼が。だって、わたしですら数えるくらいしか会ってないにも関わらず、こんなに心惹かれているんだ。初めはとてもきれいな有名人。そのきらきらとした輝きに少しでも近付きたくて、触れたくて…あわよくば傍に居たくて。純粋な気持ちとはほど遠いけれど、たしかな好意を抱いていた。
だけど次第に彼の心に触れていく度、きらきらとした感情ばかりじゃなくて、ちょっと無神経な言動に腹が立つこともあったし、虚ろな眼差しに心が震えるときだってあった。彼に少しでも笑顔で居てもらいたい、そんな風に思うようになってきた。

芸能人や有名人という存在は所詮雲の上の人。テレビや雑誌できらきら輝いている姿に、憧れ勝手に人間像を作り上げてしまっていたんだ。傍から聞けば失礼極まりないかもしれないけど…そんな偶像に近い存在の人間らしい一面を見てしまってもなお、幻滅せずに惹かれてしまったわたしはどうしようもないほどに黄瀬涼太という一人の青年に惹かれてしまっているらしい。



「……ごめん、なさい。」



だからこの少女の苛立ちは理不尽かもしれないが、共感できる感情だからこそ何と言葉にしていいのか解からない。覚えたての言葉を口にする子どものように、ただただ謝罪を音に乗せることしか、出来なかった。
そんな年甲斐もない、情けないわたしがいけなかったんだろう…この場を収めるためだけの口先の言葉に耐えられなくなったらしい少女が大きく手を振り被ったのが、伏せた視界の隅に映った。そのまま振り下ろされるであろう白い掌。衝撃に備えてぎゅっと眉間に皺を寄せて歯を食い縛ること数秒…いつまで経っても来ない痛みに反して聞こえてきたのは、焦った声。

慌てて目を開くと、気高い我がお姫様がこんなわたしを守ろうとしてくれたらしい。威嚇の意を込めて吼えながら少女の足元に駆け寄ったお姫様の勇敢さに呆気に取られていたから、反応が遅れてしまった。きっと、意図的ではないと思う。あんな敵意剥き出しに吼えられると小型犬と言えど怖いものは、怖い。慌てたあの子が避けようと足を払ったのは当然の反応だし、それに合わせて華奢な身体が揺らいで持っていたスクールバックが振り子のようにお姫様の腹部に埋まったのは、事故だ。



“キャウウンッ、”



悲鳴にも似た鳴き声をあげて宙を舞うお姫様の小さな身体は、奇麗な放物線を描いて砂場に打ち付けられる。一度だけビクッと大きく身体を跳ねさせたあと、意識を失ったようにぐったり横たわった彼女の姿に頭の中が真っ白になる。まるでスローモーションのように、全てを見ていたはずなのに…何が起こったのか、理解できなかった。

いつもなら彼女の名前を呼ぶ度に愛らしいくりくりの瞳を向けて“なぁに?遊んでくれるの?”と尻尾を振ってくれるはずなのに、きつく瞳を閉じたまま動かない。
急いで駆け寄ってその小さな身体を抱きしめたいのに、震える身体がぴくりとも動かなくて…ただただ茫然と立ち竦むことしかできないわたしはなんて滑稽で情けないんだろう。認めたくない現実ということだけが解かって、熱を帯びた目頭から溢れ出す涙がひどく煩わしい。こんなことしている場合じゃない、のに…!



「ちょっと、何やってんスか!」



ここ最近聞き慣れた声が耳元で響いたと同時に、何もできないわたしの傍をすり抜けていく人影。砂場に埋もれぐったりしているお姫様に近寄りそっと覗き込んでいる彼は、見たこともないほど真剣な顔をしている。息はしてるっスね、と僅かに安堵した声色と硝子細工でも扱うような手つきで、優しくお姫様を抱き上げた彼は怖いくらいに感情が削げ落ちたような無表情でわたしの傍に歩み寄ってきた。怒られる…!、なぜか幼稚な恐怖心と言い表し難い焦燥感にぎゅっと目を瞑ると目尻に溜まっていた涙を拭う指の感触に、困惑を浮かべながら瞼を開いた。



「ごめん、…病院、連れてかないと。」



そう言って大きな掌がわたしの手を包んでくれる。彼の温もりを感じて、ようやく指先まで感覚が無くなって震えていたことに気付いた。身体の芯まで冷えたような感覚が彼の体温によって急速に解けていく。少しだけ強引な所作でわたしを導くように引っ張って歩いている彼に並ぶよう、自らの脚を懸命に動かす。コンパスの違いに文句は言っていられないし、そんな冗談を言うほど余裕はない。運動部である彼に置いてかれないよう、ついて行くことで精一杯だ。

かかりつけの動物病院までは幸い近い。彼の腕の中で怖いくらいに大人しく瞳を閉じているお姫様。僅かに上下する小さな身体が生きていることを知らせてくれる。それでも、普段大人しく腕の中に納まっているよりかは室内を走りまわっていることが多い彼女。早く、その円らな瞳にわたしを映して遊んで、構って攻撃をしてくれることを願って、汗ばんだ手が滑って離れぬよう彼の手を強く握る。





だから、なぜ彼が開口一番に謝ったのか。その違和感に気付くことが出来なかった。




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