あれから毎日あの公園まで散歩に……なんて展開になることもなく、わたしの時間的余裕と気持ちが向いたときだけ、あそこへ足を運んだ。幸い、うちのお姫様にとってもお気に入りのコースの一つとなったらしく、小さな身体と細い足にも関わらず喜んでついてきてくれる。最近は彼女の散歩、というよりわたしの散歩に付き合ってもらう事の方が多いかもしれない。また逢えるかも、なんて期待に胸膨らませて通ったのは最初だけで、世の中早々うまく行くはずがないのは当然で…それでも、ずっと憧れていた彼を一目でも見れる瞬間があるなら…と脚を向けた。 何の因果か最後の悪あがき、と言わんばかりに今年の日本列島には次々と台風が上陸している。酷い地域では竜巻まで発生しているらしい…。自然の猛威に抗ってまで彼に会いに行こうとは思わない。いや、そもそもうちのお姫様を危険な目に遭わせるわけにはいかない。彼と会わない日が当たり前だったはずなのに…たった数週間会えないだけで、ひどく沈んでしまうなんて。いったいわたしはどれだけ彼に依存しているのか。 厳密に言うと、わたしだけではない……目の前でつまらなさなそうに窓を叩きつける雨風を眺めているお姫様。床に腹ばいとなって不規則に尻尾をふすんふすん揺らす様子はご機嫌が斜めな証拠である。できることならわたしもそうやって盛大に不機嫌を顔に貼りつけて、仕事も家事も全部放り出したいくらい。 旅行先で一目惚れして買った、アンティークものの木製のテーブルへ顎を乗せてお姫様と同じ様に窓の外で好き勝手に暴れたり、舞い踊ったりする枯れ葉を眺めながら本日何度目かの嘆息を漏らした。…ら、不機嫌そうな焦げ茶色の瞳が“真似するな”と言わんばかりにわたしを突き刺した。 “早めの帰宅をお勧めします。また外出はなるべく避けるよう注意報がだされています” 台風が上陸するため早めの帰宅、または家から出ないよう呼びかけているアナウンサーの忠告を休憩室で聞いていたときだ。上司も少しは気がきくらしい。帰宅許可を受けて心なしか浮足立つ周囲に釣られ、へらへらと愛想笑いしながら片づけを済ませて、早々に身支度を整え携帯を確認したのがそもそもの間違いだ。 "特売日だからスーパー寄ってきて。" 簡潔な文章。それから察するのは容易だ。というのも、こんなことは一度や二度ではないからで…いつも降りる駅より一つ先にあるスーパーで、もみくちゃになってこいという命令でもある。まさか、こんなときにお使いを頼むなんて…!うちの親はどうかしてる。と本気で頭を痛めた。戦利品となるであろう食材は今晩の夕飯になる。だからこそ、いかないわけにはいかない。…予想より早く仕事を切り上げられたこともあり、渋々ではあるが承諾の旨を送って会社を出た。 わたしの計算ミスか…なんとか手にした戦利品を両手に抱え駅へ戻れば運転見合わせの文字。遅かったか…!なんて後悔しても人で溢れ返った構内に居ては本日の夕飯がもみくちゃにされるだけ。もはや癖になりつつある嘆息を一つ漏らして踵を返した。 この暴風雨ならば当然タクシーやバスも大繁盛で、長蛇の列に加え我先にとおしくらまんじゅうを繰り広げる集団に混じる気力は今のわたしにはない。どうせ一駅分…いつもより10分程度多くあるくだけ。そう言い聞かせて、両手に握るビニール袋を一度持ち直して、淀んだ灰色の空に檸檬色の傘を広げた。 解かってはいたことだけど……こうも風が強いと傘としての機能はほとんど役に立っていない。幸い、お気に入りの檸檬色はその形を崩してはいなかったけれど、それも時間の問題だ。どこか彼に似た色合いを持つそれを閉じる。ふと脳裏をよぎった彼に、思わず足を止め数十メートル先に見える公園へ視線を向ける。…最近お姫様とわたしの憩いの場。当たり前だが、こんな天気に子どもたちがいるはずもなく、元気に駆け回る声ではなく荒れる風と雨の音だけが響いている。 「……いるはずない、よね。」 せっかくだから、入口まで足を進めてみる。もしかして、なんて期待はしていない。だってこんな天気だ。わざわざ雨に打たれたい人なんていないだろう。わたしだって、すきでこうしているわけじゃない。自分でとった行動にも関わらず、あまりにも無意味さに思わず自嘲混じりに口角が歪んだ。情けなくて、ばかみたいで……それでも、焦がれてしまうどうしようもないわたし。我に返ってからの行動は早かった。 伏せた視線のまま足早に踵を返して大股で一歩。水たまりを避けて出口へ向かって歩いていたから、気付かなかった。佇む人影に。まるでゲームのように不規則に大小様々なトラップを避けようと歩いていたせいか、案の定凡人並みかそれ以下の運動神経しか持ち合わせてないわたしはバランスを崩し、そのまま濁った水たまりへとダイブ。わたしは今日一番ツイていない人間だったに違いない、訪れる衝撃を待ち構えて夕飯になるであろう野菜たちと卵のパックが入ったビニール袋を抱え込む。 こんなときですら母親の脅しにも似た命令はわたしの中で権威を振るっているらしい。夕飯になるであろう野菜たちと卵が入った袋だけは落とすまいと胸元に抱え込み、瞼を固く閉じて訪れる衝撃を待ち構える……けど、予想に反して痛くない。それどころかまるで空気の抜けたボールを受け止めたときのような衝撃音。 「大丈夫っスか?…って、オネーサン。ダメじゃないっスか。女の子がこんなに身体冷やしちゃって。…ま、オレも人のこと言えないんスけど。」 おそるおそる瞼を開いた先に映る金糸よりも、耳を撫でる低く柔らかな音色と、腕と腰を掴むがっしりとした大きな掌の感触。何度も瞬きを繰り返しながら呆然とびしょぬれになっている目の前の人物を見上げていた。…まるでいつかの出逢いと同じように。 驚愕に暫く飛んでいた意識が正常な働きを取り戻すまではそう時間がかからなかった。ずっと会いたいと焦がれていた彼が、わたし以上に全身ずぶ濡れ状態なのだから。もはや意味はないかもしれないけれど、慌てて小脇に抱え込んでいた檸檬色の傘を開いて彼を包むように背伸びして掲げる。まるで路頭に迷った野良犬のような風貌だった彼。 「だ、大丈夫ですか!?…ああ、ごめんなさい。今はこれしかなくて…」 「ちょっ…落ち着いて?オネーサン。オレは大丈夫っスから。それより、オネーサンの方が大丈夫じゃないでしょ。」 テンパっているわたしが面白かったのか、薄い笑みを口元に湛えて担いでいる鞄の中から今日の空とは対照的な青いスポーツタオルを取り出し、わたしの髪を撫でてくれる彼。最初こそ丁寧な手つきでそっと水滴を拭ってくれていたけれど、次第にわしゃわしゃわしゃ。そう、まるでわたしがうちのお姫様にするように撫でまわしてくる。……わざとなのだろうか。でもここで指摘するのもせっかくの好意を無碍にしてしまうような気がして……なんて、ぐるぐる考え込んでいたせいか、不意にタオルが踊るのがやむ。次いで雨音を引き裂くように盛大な笑い声が辺りを包み込んだ。 「アハハッ、マジ最高っス!オネーサン面白いっスね。さっきから百面相しっぱなし。」 哄笑する彼の指摘にカッと熱を持つ頬そのままに抗議の声をあげようとしたけれど、びしょ濡れになっているにも関わらず目の前の彼はその美麗さを失うことなく…むしろ首筋を伝う雫や透けたシャツが張り付く胸元に目を奪われてしまった。こんなに絵になる人はみたことがない。もともとモデルなんだから、容姿が端麗なのは当たり前なのだろうけど……これほどわたしの心を攫んで離さないとは。 いつの間にか羞恥や憤慨、照れ臭さなどは忘却の彼方へ吹っ飛んでいて、ただ只管キラキラ輝く彼に見蕩れていた。 「ほんとオネーサン、最高。今日はあの子が居なくて残念だな、って思ってたんスけど…良かったかも。」 再び遮られた視界に、漸く我へ返る。さっきまでの手つきとは違って労わるような、それでいて優しく撫でてくれるような、擽ったい所作で髪に含んだ水滴を拭ってくれる彼。悲しいことに、お返しに、なんてその金糸を伝う雫を拭いたくても、身長さ故に軽々触れることはできない。 しかも追い打ちをかけるかのように落とされた言葉は降り注ぐ雨よりも冷たくて、ぐさりと突き刺さった。解かっていたことだ…彼がわたしよりもお姫様にめろめろであることは。それでも、初めてあったときのようなぎこちなさもよそよそしさも解れてきたと思っていた、のに……こんな風にあからさまに口にされるとさすがに凹む。 今日はふんだりけったりだ。思わず唇を吐いて出そうになる嘆息を呑み込んで、開けた視界と髪を撫でていた長く骨張った指先が離れていくのをぼんやり見つめていた。"ああ、もう終わっちゃったのかあ…ざんねん、だけどこれ以上傷が大きくならないうちでよかったのかも"、なんて感傷的に浸ってみる。 「ま、オネーサンでも十分効果ありそうだし…ちょっとだけ、いい?」 そう言って悪戯っ子な笑みでわたしを拘束する彼。返事はもちろん、状況を理解するよりも早くにどっぷり雨水を吸い込んだ衣服ごと、そのたくましい腕に閉じ込める彼は確信犯なのか、もはや今のわたしには解かるわけはないのだ。さきほどまでとはまた違った意味で、真っ赤になったり青ざめたり、ぐるぐると巡る思考と揺らぐ視界。以前のようにぶっ倒れることだけは避けたい一心で、とっさに彼のジャケット掴めば、指の間からぼたぼたと零れ落ちる水滴の数々。 思った以上に彼はこの雨空の中にいたらしい…わたしにできることなんてないけれど、それでも他人の熱で少しでも彼らしいあたたかな温もりが戻ってくるよう願いを込めて、そっと広い背中へ腕を回した。だからわたしは気づかなかった。彼の腕がかすかに震えていたことに。彼の笑顔に隠された、かすかに頬に残った雨とは違う滴が伝った痕に。 |