今日の彼女はとても余所余所しい。普段から挙動不審な言動をとることはあったけれど、今日は一段とおかしい。 何かあったのだろうか、なんてボクが思案を巡らせたことで解決に至るはずもない。当人ではないボクが悩んでいても何も始まらないし、さっさと彼女へ声をかける方が手っ取り早いはず。そうは解かっていてもこうやって自分の席から離れることなく、彼女を観察しているボクは臆病者だ。 「おい、何やってんだ。テツ?」 「…いえ、何でもありません。」 不意に彼女を隠してしまうかの如くボクの目の前へ立ちはだかる青峰君に悪気はないんだろう…それでも淡く優しい光を主張が強すぎる青に塗り潰されたかのようで、少しだけ胸がざわついた。 ボクの声が青峰君に届いていたかは分からない…けど、急かすように肩を揺さぶられては視界を霞める彼女に想いを馳せることは許されないと言われているかのような錯覚に陥り、渋々鞄を片手に教室を後にした。廊下に出た際、僅かに耳を撫でた溜め息はボクから出たものなのかさえ、解からなかった。 いつものメンバーと食堂にて昼食を済ませて戻ってくると、ボクの求めている人の姿は見当たらなかった。少しだけ…いや、知らず知らずのうちに期待していたらしく大きな落胆がボクを襲う。けれど探しに行こうと思うほどの行動力は湧いてこない。普段であればもっと気軽に声をかけていただろうに…こうやって二の足を踏んでしまうのは、やはり昨日のアレが原因なんだろうか。 夕日を背景に青峰君と彼女が二人で会話をする光景はそれはもうボクにとって多大な衝撃を与えた。ボクと接点がある二人だけに会話を交わすこと自体は珍しくはないけど、二人っきりでしかも告白スポットと名高い体育館倉庫裏に居て、さらには彼女の頬が見たことないほどの熟したリンゴのように赤く染まっていた。そんな彼女の頭へ、決して丁寧とは言えない手つきながらまるで宥めるように撫でまわしていた青峰君。 彼女の頬が染まったように見えたのは夕日のせいだと自分に言い聞かせてみたけど、普段横柄だ横暴だと言われている彼とかけ離れた姿にがく然としたのはもちろん、認めたくない事実を突き付けられたような気さえして、そこからボクはどうやって自宅に帰ったのかは覚えていないくらい頭の中が真っ白だった。 ただ、就寝する前に赤司君から"懸念を抱く事柄があるのなら早々に解消することだ。"とメールが来たのだけは覚えている。その内容でボクの記憶が飛んだ原因の二人が、脳裏を過っていくからたまったものじゃなかったけど。 午後の授業に向けて予鈴がなるとざわついていた教室内が一層賑やかになる。予習をしてないだとか、教科書を忘れただとか…普段からありふれている会話や悲鳴が聞こえてきた。その喧騒の中で届いた、小さな笑い声。高くもなく低くもなくて、耳に馴染むちょっと控えめな声色。 ボクが認識するよりも先に身体が反応して教室の入り口へと視線を向ければ、予想通り彼女が笑っていた。いつも仲良くしている女子と何やら会話をしながら時折耳を擽る笑いを零してボクの隣を通りすぎていく。 彼女がボクを視認できないのは今に始まったことじゃない。というよりこの学校内においてボクを見つけ出せる人はほとんど居ないに等しい。だから彼女がボクに気付かず、素通りしていくことに腹を立てたことは一度だってないし、そんなことで不平不満をぶつけたこともない。……ただ、当たり前のように彼女の瞳に映ることができる青峰君や彼女の友人が少しだけ羨ましいと、久しく抱くことの無かった感情がボクを貫いた。 「黒ちんー、ふざけてんの?」 「…ふざけてないです。」 「大丈夫っスかー?黒子っち。調子悪そうっスね。」 これで何度目か、こうやってみんなの練習を妨げてしまったのは…。一人で行う基礎練ならともかく、こうやってチームプレイが必要とする場で成果をだせないどころか足を引っ張っている。吐き出す息は荒く、膝に両手をついて何とか倒れないよう踏ん張っているけど、早々呼吸が楽になるはずもない。いつもはもう少し粘ることができているのに…こめかみを流れる汗をリストバンドで拭いつつ、じくじく痛む胸元を諌めるように利き手でユニホームを握りしめていると、視界の端に映るバッシュにヒクりと喉が震えた。 「甘やかすな。…黒子、外周に行ってこい。反省するまで戻ってくるな。」 「……、はい。」 「ちょっ…赤司っち!それは何でも…、」 「何だ、黄瀬。お前も外周がいいのか。」 赤司君を前にして何も言えなくなってしまった黄瀬君を不憫に思う反面、ボクのせいでこのきまずい雰囲気をつくってしまったことがひどく申し訳なくなる。と同時に、ボク自身が情けなくてしょうがない。赤司君には昨夜のうちに言われていたというのに…どうやらボクは女々しく引き摺るタイプなようだ。こんなところで自分の性格について知りたくなかったし、知りたいとも思っていなかった。 ようやく整いだした呼吸も大きく息を吸ったせいでうまく酸素を取り込めず噎せてしまったが、このままこの場にいるわけにもいかない。何よりこれ以上赤司君の意見に逆らうような言動を見せてしまえば、自分の首を絞めることにしかならない。そう判断するとゆっくり身体を起こして体育館の入り口へ向けて足を進める。気が漫ろなボクにはちょうどいい、むしろ至極当然と言えるペナルティなのかもしれない、と自嘲混じりに口角を歪めて扉を開けた。 もし今日の天候が雨ならばどんなペナルティだったのだろう。サーキットトレーニングが有力だけど、それに比べたらこの外周はまだマシかもしれない、と思うくらいに赤司君と桃井さんが組み立てたアレは過酷だ。そんな余計なことを考えていたせいか、将又、気が遠くなるほど走り込んでいたせいか…足が縺れ地面へダイブしてしまった。辺りを照らす太陽も沈み、ぼんやり浮かび上がる街灯と運動部が使用するライトが点灯し始める。 倒れ込んだまま動きたくない気持ちでいっぱいだけど、ボクの中を掻き乱す不快感は未だ拭いきれない。赤司君が言うところの"反省"はきっとボクに気持ちの整理をする場を与えてくれたんだろう。既に何周走ったかは解からないけれど、それでもこうやって立ち上がって走り続けるボクは、諦められないんだ。 瞼を濡らす汗を拭う度に目を閉じれば浮かぶ二人。予想外ではあるもののお似合いなのかもしれない。青峰君は不器用だけど、とても優しい人なのはボク自身が一番よく知っている。何度も助けてくれたから。そんな彼と、淡く柔らかな陽だまりのような彼女が仲睦まじく寄り添い合う関係は素敵なものになるだろう。青峰君ならば彼女を任せられるし、彼女ならきっと青峰君を受け止めてくれるはずだ。 二人を想えば祝福するべきだとは解かっているのに…この足は止まらない。きっと足に血豆が出来ようと、爪が割れようと…ボクは延々と走ることを止められないんだろう。 「あ、いた!やっとみつけた。…黒子くーん!」 朦朧とする意識の中、ボクを現実へと引き戻す柔らかな声色に思わず脚を止めてしまった。あんなに止まることはないと思っていたのに…こうも容易く、あっさりと、地面に吸いつくように立っている。浅く繰り返す呼吸や転んだときについた泥と汗に塗れたボクに、不快感を表すことなく笑顔で駆け寄ってきたのは、ボクを悩ませる元凶である彼女だった。 「……どう、した…ん、ですか?」 「だ、大丈夫?まだ部活中だった、かな…ごめんね。どうしても言いたいことがあって…。」 呼吸を整えるだけで精一杯な情けないボクの姿に、満面の笑みを浮かべていた彼女の表情は一瞬にして曇っていく。おろおろと所在なさげに両手を彷徨わせたかと思えば、学校指定の鞄の中に手を突っ込んできれいに折りたたまれた淡い空色のハンカチを手にボクへ差し出してきた。 彼女の気持ちが嬉しい半面、この差し出されたハンカチを手にとってしまっていいものだろうか…そんなボクの葛藤すらも、彼女が不安げに"あ、必要無かった?"と眉尻下げて口角を歪めるからボクに残された選択肢など一つしかない。 「ありがとうございます。……それで、ボクに言いたいこと、とは?」 「あ、そうだった!あのね、えっと……!」 そっと受け取ったハンカチは未使用なのか、アイロンの折り目がくっきりついていた。ボクの汗で汚してしまうことに気が引けるものの、ここで使わなければきっとまたあの表情をさせてしまう。大切に、大切に、そっと額の汗を拭うといつも彼女から香る優しい石鹸の匂いがした。彼女自らボクを見つけて話かけてくること自体、珍しいのに…こうやってボクの前で少し照れたような気恥ずかしいような、はにかんだ面持ちで目線を彷徨わせる姿に一抹の不安が過った。 「やっぱり止めてください。」 「え?」 「嫌です。ボクは…名字さんの口から聞きたくない。言わなくても知っていますから。」 この表情は最近目にしたばかりだ。どこで、と聞かれれば思い出したくもない、夕暮れの体育館倉庫裏での青峰君と二人っきりになった彼女の表情と同じだった。ボクを前にあのはにかんだ笑顔を向けてくれるとは思っていなかったから、うっかり見蕩れてしまい気付くのが遅れた。きっと彼女はボクに死刑宣告をするんだろう。 "青峰君と付き合うことになった" なんて彼女の、耳を撫でる柔らかな音色に甘い囁きを含まれてしまえば、ボクは一生立ち直れなくなる。そうなってしまうくらいなら、ここで彼女の言葉を拒否してしまえばいい。きっと悲しませてしまうかもしれない、最悪泣かせてしまうかもしれない。だけど、ボクはボク自身を守る術はこれ以外知らないんだ。 「え…あ、そ…そーだよね!ご、ごめん。でもわたし、どうしてもお祝いしたくて…。」 「……お祝い?」 やっぱりボクの言葉は彼女を傷つけるか、悲しませるか、しかできないようだ。薄ら色づいた桜色の頬は一瞬にして血の気が失せ、強張った笑顔のまま吐き出された一言にボクの思考は停止した。お祝い、とは一体何だろう? 「く、黒子くんは…わたしのこと、何とも想ってない、だろうけど…わっわたし、は…黒子くんが、すき、で…!だいすきなひとの、誕生日だから…自分で見つけて、おめでとう、って言いたかった、の…!」 さっきまでは花が咲いたようなきれいな笑顔を浮かべていたはずなのに、今は大きな瞳を潤ませてか細く震えた声で堕とされた告白。ボクはバカだ。こんなにも、ボクのことを見ていてくれたのに…勝手に落胆して失望していた。 気付いたときには小刻みに震える華奢な彼女を、まるごと閉じ込めるように抱きしめていた。汗だくになったTシャツだったから、彼女にとっては不快でしかないだろうこともすっかり頭から抜け落ちていたし、陽が暮れているとは言え誰かと擦れ違わないとは言えない場所で大胆な行動に及んでいるという認識もなかった。 ただただ、彼女に触れたくて、ボクだけのものにしたくて…どうしようもないほどに愛おしかった。 「すみません。キミを泣かせてしまったことは謝ります。でも、それ以上に嬉しいと思ってしまいました。」 「っ、え?」 「すきなんです。名字さんのことが…どうしようもないほどに。」 ボクの腕の中に納まる彼女は想像以上に小さくて温かくて、柔らかくて…このまま少しでも力を籠めてしまえば簡単に壊れてしまいそうなほど脆く感じる。僅かな街灯に照らされた彼女の白くふっくらとした頬を伝う雫を拭うため、そっと目尻へ唇を寄せれば暗がりでもわかるほどに熱を帯びて色づいていく。青峰君と対面していたとき以上に真っ赤に熟れた彼女の顔に堪らず笑ってしまったけれど、ボクの背中に回された小さい掌にきゅっと力を籠められたのを合図に、そっと 震える瞼に口づけを (「お?うまくいったみてーだな。テツ!」) (「……ボクは青峰君を許してません。」) (「はあ?何の話だ、何の。」) |