dream | ナノ


「……どうしよう、」



たしかに、昨夜は自分でもハメを外してしまったと思う。ずっとずっと片想いしていた男性が、遂に手の届かない存在になってしまうと知ってしまったのだ。望みはないことはわかっていたけれど…それでも、恋に焦がれる女の子で居させてくれるあの人がすきだった。しかし、相手が身を固めるとなれば話は別だ。
叶わないだけならまだよかった。想っているだけでしあわせだったから。だけど、わたしではない女の人と仲睦まじく寄り添い合う姿を一度この瞳に映してしまえば、わたしの世界は崩壊してしまう、と。大袈裟じゃなく…本気でそう思ったのだ。



仕事を終えてから以前先輩に連れられて訪れたバーへ足を向けたのは、いつも子ども扱いするあの人への当て付けだったのかもしれない…。慣れないメニューと睨めっこして頼んだカクテルは唯一読めた「ビター・オレンジ」嗜み始めたアルコール類の中でも割と馴染みのあるビールと柑橘系のさわやかなオレンジを割ったものらしい。
悲しいかな…その味わいは甘くてほろ苦い。今のわたしにぴったりだ、なんて自嘲交じりに煽れば、左斜め前でグラスを磨くバーテンダーの眉間に皺が寄った。他人を気遣う余裕なんてないわたしは、平静を失いたくて、今日知った事実をなかったことにしたくて、あの人の面影を忘れたくて…幾度も御代りを注文した。うん…そこまでの記憶は、ある。



「……、はあ。」



金槌で頭を叩かれているような痛み、とはよく言ったものだ。こめかみに左手を当てながら改めてベッドの半分を占領する存在を一瞥する。



一番最初に目を惹いたのは、一人暮らしの自分の部屋に人がいることでも、あまつさえその人が上半身裸でいることでも、さらにはあどけなさの残る寝顔を見せていることでもない。色素が薄くさらりとシーツに零れる水色だ。見ているだけで触れてみたくなるほどに朝日を浴びて艶やかに光るそれへそっと指先を絡ませてみれば、思いの外柔らかく滑り落ちていく。
擽ったいような、それでいて手離したくないような…そんな気持ちにさせられるのはまだ酔いが抜けていないからだろうか。



「……、おはようございます。」



無意識に抱いていた名残り惜しさから悪戯に遊ぶ指先はそのまま、思考に耽っていたせいか…突如空気を震わせた音に思わずびくりと手を止めて硬直してしまった。彼が動く度にシーツが擦れる音が静寂した室内に響き、いやに耳に付く。



「…名前さん?」



控えめだが芯のある透き通った声色が放つわたしの名前に堪らなく羞恥が込み上げる。と同時に、飛んでしまった記憶の欠片を手繰り寄せるべく必死に思案する。しかし、鈍痛を生み出すだけで本来の機能を全く果たしてくれない思考に眉根を寄せて深く嘆息を漏らすしか、今のわたしには術はないようだ。



「……もしかして、覚えていないんですか。」



どうしてわかった、なんて簡潔すぎる質問をするほど軽い空気ではない。透き通った音色を持つ彼の声は、大声を出さずともはっきり届く。わたしの様子を見て悟ったのか、幾分か硬く感じたのは気のせいではないだろう…その証拠に俯きがちになっていた視界の隅に映る、骨張った指がきつく拳を握り締めているせいでシーツが皺になっている。
隠し通せることも出来たかもしれないけれど、わたしには冗談や嘘で場を切り抜けられるほどの器量はない。言い訳という名の逃避を早々に諦め、彼の言葉に肯定する意味を込めて一度だけ頷く。



「…そうですか。」


「っ、!」



思いの外淡泊な反応に小さく安堵の息を吐きながら顔を上げ、改めて彼を視界に映すと空を彷彿させる瞳が寂寥と悲哀を孕んで揺らぐ様にひどく胸奥を締め付けられる。然程衝撃を受けてないのかと勝手に都合良く解釈した数分前の自分を呪いたい。
自分が巻いた種とはいえ、こうして第三者を巻き込み傷つけてしまう形になっていることを実感すると何とも居た堪れなくなる。自己嫌悪に苛まれきつくシーツを抱き寄せながら、今にも頬を伝ってしまいそうな滴を必死に堪える。泣きたいのはわたしではなく、彼の方だ。そう言い聞かせて目元に力を込めてみても、大した効力はない。それどころか情けない顔を見られたくなくて俯いたことが仇となったのか、今まで何とか表面張力を保っていたそれらが一気に頬を伝い出す。



「泣かないでください。」



一つひとつ軌跡を辿るように少々ごつごつした親指で頬を拭ってくれる彼の温もりがどうしようもなく温かくて、一層涙を誘われていることに気付いてないのだろう。ずずっ、だとか、ずびっ、だとか…色気もへったくれもないまま泣きやまないわたしに痺れを切らしたのか、突如強く引っ張られる感覚に抵抗する間もなく流されると、そっと背中へ回される温もりに状況を理解する前に思考が止まった。散々好き勝手に頬を伝っていた涙も何時の間にか引っ込んでしまい、数回瞬きを繰り返しながら茫然と彼を見上げる。



「ボクはあなたを責めているわけではないんです。…ただ、昨夜の出来事を…なかったことにされてしまうのが、悲しい。」


「……え?」



今にも唇が触れてしまいそうな距離で紡がれた言葉を理解できるはずもなく、ぽかんと小さく口を開けた間抜け面を晒してしまったのは、許してほしい。そんなことより、彼は今、何と言ったのだろう…。まだ夢の中をさ迷っているのかと一瞬脳裏を過ったが、素肌を通して触れ合うわたし以外の温もりに彼の存在を強く実感したことでそれは違うと解かる。
二日酔いに支配された頭では普段以上に鈍い思考なせいで混乱する脳内がますます落ち着かず、「は?…あ、うえ?」と意味のない音ばかりが形になり、肝心なことは全く言葉にできない。



「すみません。混乱させてしまいましたか?…ですが、冗談なんかじゃありませんから。ボクは本気です。本気で、あなたを……名前さんを、好きになりました。ですから、これから覚悟してください。ふたりでしあわせになりましょう。」



淡々とした口調に反して熱情に駆れた空色の瞳は、あの人を想っていた頃のわたしとは比べようもないほど、真っ直ぐで一切の濁りもなかった。




終わりから始まる恋の話。





(「えええ!こ、高校生だったの!?」)





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