見つけたのは、偶然としか言えない。真綿よりも軽くて、風に乗って漂う綿毛。ほんのり空色を帯びたソレは、雲ひとつない今日の空を映したように澄んでいた。捕まえようと思ったわけではない。ただ、ソレが地面に溜まる濁った水溜りへ吸い込まれてしまうのは勿体無いような気がしたから…それだけの理由で咄嗟に作ったもみじ型の掌で受け止めていた。 そのときは随分でかい綿毛だな、くらいにしか思っていなかった。幼心にも珍しいもの、という認識はあって…集めていたシロツメクサも四葉のクローバーも放置して、潰してしまったり飛ばしてしまったりしないように家へと持ち帰った。 "ずいぶん珍しいものを見つけたのねぇ…大事にしなさい。そうすれば、たくさんのしあわせが訪れるから。" そう言いながら皺くちゃな少しだけ硬い掌でわたしを撫でてくれた祖母。どうやらこれはタンポポの綿毛でも、動物の毛玉でもない模様。その正体は物知りな祖母でも正確には解からないらしく、大切に持っていることが重要だと教えてくれた。まだ幼かったわたしに、祖母は3つの約束事を守るよう言った。 "箱に閉まっておくこと"、"白粉を一緒に入れること"、"他言せず誕生日のときにしか箱をあけないこと" この3つを守らなければ消えてしまうから、と。別段何があったわけではないけど…それでも、重力を感じさせない空色を帯びたような白い真綿を手離したくなかったわたしは、その約束を破ることは一度もなかった。 初めて彼と会ったのは、あの綿毛を発見した河原で、母親と盛大な喧嘩をしてしまった日だった。理由は単純明快。母が大切に身につけていた髪飾りがほしいと駄々を捏ねたのが始まり。わたしがそう口にした瞬間、母親は垂れ目がちな瞳をまんまるにして"もう少し大きくなったら考えてあげるわ。"と言ったのだ。十にも満たない子どもであったわたしはその返答に満足するはずもなく散々駄々を捏ねていたと思う。 最初は困ったように眉尻を下げて宥めてくれていた母も、融通の利かないわたしに気持ちが先走ったようで珍しく張り上げた声でわたしを窘めたのだ。普段から穏やかな人だっただけに、その変化は驚愕と共に強い畏怖をわたしに植え付けた。あっという間に滲んでいく視界とぷるぷると小刻みに震える身体。 そのときは母と一緒に居る空間がひどく恐ろしくて、気づいたら年季の入ったドレッサーに置かれていた髪飾りを引っ掴んで家を飛び出していた。背後で母がわたしを呼ぶ声に気付いたけれど、駆け出した脚は止まることはなかった。 そうして辿りついた先が学校から帰るときに大抵立ち寄る河原だった。天気が良い日はいつもここで四葉のクローバーを探したり、シロツメクサの冠を作ったりして道草をして…時折散歩している犬と戯れることもあったし、野良猫と睨めっこをすることもあった。そんな風に楽しく過ごしている場所だ。 けれどそのときは、ぐるぐると身体の中を引っ掻き回されるような、不快な感覚に愉悦的な感情は一切湧かなくて、もみじ型をした掌の中に収まっている髪飾りが、ひどく煩わしかった。あんなに切望していたモノだったのに…。 じんわりと視界が滲んで喉奥が震えた。人通りが多いとは言えない場所だけど、それでも誰かに見られる可能性はゼロじゃなくて…一丁前に育った羞恥心から何とか溢れそうになる熱を零すまい、とぎゅっと目を閉じて俯いてみたけれどそんな些細な抵抗すら嘲笑うかのように、重力は水分を吸収しようと引っ張り出していく。 「どうかしましたか?」 音もなく現れ視界を埋め尽くした水色。そのお陰と言うべきか、噛みしめた唇から漏れそうになっていた嗚咽やぽたりぽたりとクローバーを濡らしていた水滴はぴたりと止んだ。突然の出来事にだらしなく唇を開けて間抜け面を晒してしまったのは、当然の成り行き…なはずだったものの、突如姿を露わした少年とも青年とも言える人物は一層目元を和らげて笑いを零したのだ。 「驚かせてしまったみたいですね。すみません…蹲っているキミを見つけて、つい。」 今思えば物腰柔らかな口調は青年と言うのが相応しいような気もするが、容姿を見る限りでは当時のわたしより2,3歳上であろう少年にしか見えなかった。そんな外見と中身がちぐはぐな彼はしなやかな指を軽く曲げて、その先で目尻に溜まった雫を拭ってくれた。何も語ることはなく傍に居てくれた彼の瞳は、どこまでも柔らかな光を湛えているように見えた。 それから落ち着きを取り戻したわたしは、見知らぬ人の前で泣いてしまったという醜態に気恥ずかしさを覚えたけれど、それ以上に何とも不思議な安堵感にも似た穏やかな気持ちになれた。ちょうど拳五つ分くらい空けて右隣に腰を下ろした彼。気付いたら、ぽつりぽつりとこれまでの経緯を話していた。 「そうですか…キミはお母さんが大好きなんですね。」 だからお母さんの持つ髪飾りがほしかったんでしょう、と言った彼の言葉に衝撃を受けた。そうだ、わたしはずっと母に憧れていた。祖母から母へ受け継がれた髪飾り。大した値のするものじゃない、と言っていたけれどわたしにとってはそんなことは二の次だった。 なぜならそれを身につけていた母はとても幸せそうに見えたから…単純な考えだけれど、それを身につければわたしも幸せになれる、そんな風に思えてしまうほど。 それと同時に、いかにわたしがわがままだったのか…それ以上にどれほど母や祖母のことがだいすきだったのか、そこで漸く気づけたのである。 「大丈夫です。必ず仲直りはできます。…ボクは嘘をつきませんし、ちゃんと見守っていますから。ふたりならキミも心強いでしょう?」 今思えば彼のその言葉で納得出来たのが不思議で仕方がない。何の根拠もない言葉だったけれど、彼が紡ぐ音色は幼いわたしにとって何よりも信頼できて安心できる魔法の言葉だった。また目頭が熱くなったものの耳を撫でる透明感ある音色が発した言葉へ返事をする前に、攫われたわたしの右手。ちょっとの驚きと大きく脈打つ鼓動に内心あわあわしていれば、彼に引かれるまま立ちあがって後をついて行った。 繋がる右手から伝わる温もりは今でも鮮明に想い出せるほど、あったかくて優しくて、擽ったかった。 向かう先がどこなのか解からなかったけれど、不思議と不安は抱かなかった。言葉を交わすこともないまま、わたしの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた彼。身長以上に大きく伸びる影法師を追いかけながら歩けば、時折耳を擽る甘い笑い声がとても心地良い半面、なぜか少しだけこそばゆい気持ちになった。 不意に前方から飛んできた声に思わず足を止めて反射的に顔を上げると"無事で良かった…!"そう言って駆け寄って抱きしめてくれた母。なぜか急激に込み上げてくる熱にひどく泣きたくなって、さっきまで収まっていたモノが堰を切ったように溢れ出し頬を伝った。恥ずかしげもなくわんわん声をあげるわたしに、困ったような…それでも優しい笑顔で宥めてくれる母にどうしようもなく安堵した。 一頻り泣ききった後、右手には柔らかくて少しだけかさついた母の手。左手にはシロタエギクを模した髪飾り。黄色い花と、その彩りを増長させるような白銀にも見える茎と葉のコントラストがとてもきれいで、散々駄々を捏ねて強奪した代物。"あげることはできないけれど、使いたいときは貸すわ。"と言ってくれた母はどこまでもきれいで優しい人だと子どもながらに思った。わたしも将来は母のような人になりたい、と。 それからは今日の夕飯はなあに?と他愛もない会話を重ねながら帰路についた。なぜか、彼のことは言う気にならなかった。春風のようにするりとわたしの懐に飛び込んできて、同じくさらりとすり抜けていった彼をどう説明していいか解からなかった。気付いたら重なっていた手は空っぽになっていたし、影も形もなくなっていたのだ。 この日、わたしの中で新たな秘密が生まれることとなった。 |