何が起こったのか、理解するまで数分を要した。年老いた身体のどこにそんな力があったのかと疑いたくなるほどに耳触りな野太い声を上げてのたうち回る老人。月明かりと建物の四隅に灯された松明しか光源はないためはっきりとは解からないものの、どうやら老人の片目は使いものにならなくなってしまったようだ。 狭い建物だったこともあり、数秒もしないうちに充満する錆びた鉄の臭い。その激臭に胃が戦慄き慌てて口元を押さえたけれど、既に吐き出すものがない今、喉奥が焼けつくような痛みを生むだけだった。身を丸めたときに視界へ入ったそれ――わたしの心臓目掛け振り下ろされた白銀の刃が、行き場を失くしたように腐敗した板間を貫いている。 チャンスだと思った。この場から逃げだすことじゃない。先ほどまで持て余していた感情を爆発させるときが来たのだ、と…。ねっとりとした液体が酷く煩わしくて頬を拭えば赤黒く染まった手の甲。淡々と淀みなく紡がれる言葉に対して激情と畏怖が入り混ざった悲鳴が交差する中、そっと白い柄を両手に握り込む。そのまま握ったせいか赤黒い液体が次々と刃を伝い、まるで白い紙に墨を垂らしたかの如くじわじわ広がっていく。 誰もわたしの行動に気付いていない。突然現れたこの男に意識が逸れている今しかない。侵蝕されたのは白銀の刃だけではなく、悪しき感情に身を焦がすくらいにはわたしも喰い尽されていたらしい。這いつくばってもがく老人へ焦点を合わせる。赤黒い液体のせいで滑る白銀の刃を握り直して、渾身の力で振り下ろした。 目の前が真っ赤に染まった。 気付いたら、煩いくらいの叫声や怒号は止んでいた。辺りに響くのは、わたしの荒い呼吸だけ。赤黒い液体をたっぷり吸い込んだ柄を、小刻みに震えるほどの力で両手に収めているから、爪が掌に食い込んで痛みを生む。元の色が何だったか解からなくなってしまった白銀の刃は、心なしか鈍色を増したように月明かりを反射させている。 目の前には物言わぬ人だったモノがいっぱい転がっていた。ただの肉片となっているモノの中に、ひどく見慣れた面影を見つけた。それが何であるか、誰であるか、を理解するや否や全身の力が抜け落ちた。あんなに硬く張り付くように収まっていた白銀の刃は、カランカランと渇いた音を立てて板間を転がっていく。同じ様にわたしの身体も重力に従うまま、その場へ倒れ込んだ。 既に光無く虚ろに空を見つめる父だったモノの顔は驚愕と畏怖で歪んでいる。いつもきれいな身なりをしていた母だったモノの髪はぼさぼさに乱れ、頬にはたくさんの涙痕が残っていた。不思議なほどに罪悪感も悲愴感も湧いてこない。鼻を突き刺すほどに充満している錆びた鉄の臭いも、全身を覆ってしまうほど浴びた紅い体液も気にならない。今わたしにあるのは清々しいくらいの達成感だけだ。 「派手にやったな。」 ぽつりと落とされた声に慌てて閉じていた瞼を開くと、視界いっぱいに広がる赤。わたしの全身を染めるそれとは違う、鮮やかできれいな赤。 「っ…だ、れ?」 「名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るべきじゃないか?」 わたしの問いに応える気がないのか、至極愉しげに発せられた言葉は明らかにからかいを含んでいる。わたしが言うのも何だが、この惨状を見て何も思わないのだろうか。仮にもわたしはここで人を、殺した。しかも何人も…血の繋がりがある者さえ、殺した、というのに。 月明かりに照らされた男の顔は、恐ろしいほど整っていた。僅かに細められた瞳は左右の虹彩が違っていて、男を象徴するような赤と、暗闇に映える金色。愉悦混じりの声色に相応う、緩く弧を描く唇はひどく艶めかしく見える。男の全てがきれいで、完璧で…意図せずとも身震いしてしまうような圧倒的オーラを纏っていた。 「……名前…、名字名前。」 「名前、今のオレは頗る機嫌がいい…楽しませてもらったお礼だ。お前に褒美をやろう。何か望みはあるか?」 随分と自己中心的な人だ。人の名前を聞いたなら、名乗るべきだろう。たった今し方、自分でそういったのに。だいたい望みなんてない。自分の手で達成してしまったのだから。恰もスポットライトの如く照らしてくる月明かりを遮るように両手を頭上へ翳せば、べっとりこびりついている赤黒い液体。既に渇き始めているものもあるようで、ところどころかさついている。 「そんなもの、ない。もう疲れた…このまま静かに眠りたい。」 「そうか…ならばオレの気まぐれに付き合ってもらおうか。どうせ散らす命だ。その前にどう扱おうが構わないだろう?ああ、心配せずとも飽きたときには骨ごと喰らってやる。」 「は?」 この男は何を言ってるのだろう。この凄惨な現場を見ても悲鳴一つあげない様子から随分酔狂な人だとは思ったけれど…まさかのカニバリズム主義者だったなんて。世界は広いというが、こんな人間と出逢うとは思わなかった。しかも、終末を迎えようとしている状況で、だ。 「なんだ、その顔は。オレは冗談が嫌いだ。人間のような小賢しい手は好かないからね。」 「人間、でしょう?あなた…ああ。止めてね、ここの神様だ。なんていうオチ。」 そうなったら冗談じゃすまない気がする。神様というものは得てして、信仰心が厚い人間――言うなればわたしを人柱とすることに失敗し、物言わぬ肉片になってしまったモノたち。そのような存在を見守り加護しているはずだ。その対象を壊してしまったわたしは神様にとって異端であり、悪でしかないだろう。これ以上面倒くさいことは勘弁してほしいのが本音だ。今日はわたしの誕生日だし、もう十分に甚振られたと思う。これが誕生日プレゼントだ、なんて言い出したら本当にそれこそ、この男すらも亡きモノにしてしまいかねない。 そこまで考えて思わず自嘲してしまった。ずいぶんどす黒い思考に染まったものだ。数時間前までのわたしからは想像できない。人って、ここまで変わるのか……その前にわたしはまだ人、なんだろうか。そんな答えの出ない自問自答を繰り返していたところで割って入った地を這うような低い声。 「見縊ってもらっては困るな。何であろうと、その程度の器に収まるような存在じゃないよ、オレは。」 「え、それはどっちの意味で?というか…結局教えてくれない、の?」 「知る覚悟があるのなら、一緒においで。」 覚悟っていったいなんだろう。人を殺めること以上に大きな覚悟なんて早々ないだずだけれど。まるで言葉遊びをするかのように、曖昧で抽象的な物言いをする男だ。トーンの下がった音色は不機嫌さを露呈しているのかもしれないが、どこか楽しんでいる部分もあるんじゃないかと思う。その証拠に纏う雰囲気は思いの外穏やかなもので、弓なりに細められた色違いの虹彩を持つ瞳は鋭い中にも柔らかな光を孕んでいるように見えるから。 「お前はただ、大人しくオレに拾われればいい。」 …と思ったけれど、錯覚かもしれない。口を開けば理不尽な言葉しか生まないから、本当に気まぐれなんだろう。男の言う通り、いつ終えてもいい命だ、どう扱われようが構わない。それが本心に変わりはないから、差し出された傷一つない大きな掌を取ったことにも深い意味は、ない。ただ…こうやって押し問答するのも億劫に感じるほど疲れただけ。握った掌が見た目に反して節くれ立っていて、どうしようもないくらい温かく感じてしまったのは、全身を染め上げる赤黒い液体のせいだと言い聞かせて、重なる手に力を籠めた。 |