世の中にはさまざまな人がいる。性別で言えば男と女、雄と雌。年齢で言えば生まれたての赤ん坊から天寿を全うする老人。その幅は一世紀を跨ぐこともある。もちろん、この小さな島国で暮らす者たちだけではなくて、大海原を越えた先には容姿はともかく、言語や文化が全く異なった者たちも存在している。 更に生き物という枠で括ってしまえば、人はちっぽけな存在でしかない。犬や猫をはじめ、牛、馬、豚、鳥、魚…種類をあげるときりがないが、その現存は圧倒的に彼らの方が多いと思う。まあ、ちゃんと数えたわけじゃないから実際のところは解からないけれど。 何が言いたいのかというと……これだけさまざまなモノたちが生きている世界なんだ。さらさらとした金糸の隙間を縫うように突出している尖った三角形と、限りなく白に近い黄檗色を束ねた毛を臀部から生やす人間が居ても不思議ではないこと、だ。 たしかに聖地と呼ばれる某所に赴けば、今挙げた以上に奇抜な格好をした人が往来を闊歩しているのを目にする。それも日常と言えるほど見なれた光景になっていて…だけど、彼らの"ソレ"とは違う――本物を身につけている人物がいるのを、わたしは知っている。 「おーい、起きてくんないっスか?オレ、そろそろ行かないといけないんスけど。」 安物のぬいぐるみのようなガサガサした手触りとは程遠い、滑らかで柔らかくて少しだけしっとりした黄檗色の毛束。今まで手にしたどの抱き枕よりも心地良くて、うっかり雁字搦めにしてしまっても跡が残ることはない。常にきちんと手入れがされている。 臀部から生えたそれは所謂尻尾、と呼ばれるものだと思う。決して小柄、とは言い切れないわたしでも優に抱きつくことができる。当然ながら大きく主張するソレは、持ち主が纏う衣服の中に収まるはずもない。何より…一本でも十分な質量を持っているのに、九本もあるのだ。ひとつずつが意志を持つかの如くゆらゆら舞う様は圧巻と言える。 抱きついているソレから、目の前でふわふわ揺蕩う一本を撫でてみる。少しだけ身震いするように微動したソレに擽ったかったのだろうか、と思案していたのも束の間、音もなくするりとわたしから離れていく黄檗色の毛束たち。 「あーもう!聞いてるんスか?起きてるんでしょ、名前ちゃん。」 どうやら持ち主の彼はご機嫌斜めなようだ。ソレらの一本一本、正確に言えば毛束になっている体毛の一本一本を逆立てている。おまけに彼の頭部にある二つの三角形もピーンと天井へ向けて伸ばされており、端整な顔は歪んでいる。 「もうちょっと、だけ…おねがい。」 「………そう言って、ちょっとで済んだ試しがないのは気のせいっスか?」 疑心と呆れが混じったような嘆息を漏らしつつも"しょうがないなぁ、あと5分だけっスよ。"なんて言いながら、大きくて柔らかなソレをわたしの身体へ巻きつけてくれる。こんな風に一本を抱き締めて、残りの八本がわたしを包みこんでくれる瞬間が堪らなくすきだ。彼の腕中に収まるのと同じくらい、いや…もしかすると、それ以上にすきかもしれない。まあ、これを言ってしまうと彼は二度と触らせてくれなくなりそうだから、わたしの心の中だけに留めておくけど。 頬を擽るソレが擽ったくてもそもそ身じろぐと、指先や掌をすり抜けていく黄檗色。彼がどうしてこんなものを身につけているのか、正しくは彼の存在は何なのか…大方な予想は付くけれど、彼から直接聞いたことはないから、所詮は憶測にすぎない。 わたしが見る世界が、周りの人のモノより随分と広くて稀有なものだと理解できたのは、彼のお陰と言っても過言ではない。なぜなら彼の頭とお尻に付属する黄檗色の毛束は、わたし以外の人には見えていないモノだ、と教えてくれたから。 以前、こっそり背後から忍び寄ってぎゅうっと抱きついたときがあったが、そのときの彼の反応といったら…ああ、口で説明できないのがもどかしい!ビデオに収めて後世に残したいくらい素晴らしい反応だったのは間違いない。気を抜くとすぐに出ちゃうんスよねぇ〜気をつけないと、とかなんとか言いながら珍しく困ったように眉尻を下げていた。 その姿は当時のわたしを動揺させるには十分で、あわあわと視線を泳がせながらきらきら輝く金糸を梳くように撫でつつ、幼心にもフォローしなければ!と使命感に駆られて口を開いた。 "だいじょうぶ。今できなくてもおっきくなったらできるよ!それに見えててもみんな気にしてないから!" なかなかうまく言えたし、きっと彼の不安も払拭さただろうと勝手に安堵していたけれど、彼からするとそれこそ驚きだったらしい。人と会うときは必ず"仕舞う"ようにしていたし、そうなれるまでには訓練だったか練習だったかをした、とも言っていた。 その言葉に今度はわたしが驚いた。だってわたしからすると終始彼が身につけているオプション、という名の黄檗色のソレらはアクセサリーより最早、目や鼻と同じようなモノと認識していたから。雨が降ろうが大勢の人の中に揉まれようが、ソレらが消えたところは一度も見たことがなかった。お互いが知った事実に暫く間抜け面で見つめ合っていたのは懐かしい想い出だ。 彼の話ではウン千だかウン万だか、とにかく極稀に全てが見えてしまう…というよりは、そのモノの本質がまるまるっと透けて見える人間がいるそうだ。それがわたし、なんて実感はほとほとないけれど。だって、わたしに限って言えばその対象は彼だけだし、見えることが当たり前だったから。 そんな彼との付き合いも長いもので10年以上になる。物心のついた頃には既にお互いを認知していたから、それより前からの付き合いになる。彼の両親や姉たちは至って普通の、そう頭部に突出した三角形も、臀部から生えたふさふさな毛束も持ち合わせてない人で…彼だけが違っていた。 斯く言うわたしの家族も極々平凡な、サラリーマンの父親にパート務めの母親、それと少しだけ歳の離れた兄が一人。彼らは当然、と言うべきか…わたしのように広くて不思議な世界を見ているわけではないようだ。 幼い頃にはそれが解からず、困惑させてしまうことが多かったものの、今では笑い話の一つになるくらい、幼子の戯言で片づけられてしまっている。まあわたしとしても、その笑い話を否定することも訂正することもしていないのだけれど。 こんなわたしたちが、一緒に時を過ごすのは至極当然な流れで…いつの間にか隣に居るのが当たり前だった。最初はひどく警戒されたし彼はそのオプションにとても悩んでいたようだったから、邪険に扱われてしまうことの方が多かったけれど。 でも、どんなに素っ気ない応対をされたとしても、このふわふわな黄檗色に触れたいと思わせられたわたしは、決して諦めることはしなかった。最早躍起になっていたとも言える。拒絶されればされるほど追いかけたくなる、と耳にしたことがあるし…そういう心境だったんだと思う。 そんなわたしの熱意に押されたのか、将又、諦めの境地なのかは解からないものの、ひっそり行われていた攻防は、見事わたしに軍配が上がった。ある日を境に触れることを許してくれるようになった彼。まあ、渋々というか本当に仕方がない、と言った様子だったけれど。 「名前ちゃん…もう5分経ったっスよー。今度こそおしまいっス!…ほら、起きて?」 わたしの身体を包む黄檗色の毛束は、そんじょそこらの毛布やブランケットよりも温かくて身体にフィットしている。もしかすると高級とされる部類の羽毛布団よりも、気持ちいいかもしれない。あまりの心地良さにまどろみながら懐かしい想い出に浸っていた。 耳を擽る甘い声色も覚醒を促すように頬を撫でるソレらも、わたしにとっては安眠を誘うものでしかないけれど、頬に寄せられていたソレが滑り落ちていったかと思えば突如走った衝撃。脇腹や足の裏を擽る毛束の集団により、思考は一気に現実を認識する働きへと変わっていく。 「っ、…あはは!わかった、わかったからっ…ストップ、!」 わたしの安眠枕ならぬ安眠尻尾は時として、こうやって奇襲をかけてくるから困る。目尻に溜まった涙を拭って、ひりひりする喉を整えるべく咳払いを一つ。いつもはもっとたくさんあってもいいなあ、と思うけれど、こんな風に使われてしまうのなら今くらいでちょうどいいのかもしれない。すっかり覚醒した意識でいそいそ準備をする彼の背中を見つめる。 さっきまでぷりぷり怒っていたのが嘘のように、黄檗色の毛束はゆらゆら想い想いに空を踊っている。きっとこれからの予定が楽しみなんだろう。本当に彼は…というか、彼に付属する黄檗色の毛束や頭部に生える三角形は解かりやすい。感情を直情的に露わしてくれるから。どんなに表情はポーカーフェイスを決め込もうとしても、私に見えているソレらが彼の心情を雄弁に語るのだ。 「……ほんとに、行っちゃう…の?」 「名前ちゃん……大事な試合が近いんス。オレのこと、応援してくれるんでしょ?」 別に彼を困らせたい訳じゃない。幼少の頃から幾分か改善されたと言えど、特異な彼だからこそ歩んできた道は平坦ではなかった。臀部と頭部のオプション以外にも、彼は人知を超えた能力を授かっているらしい。目にしたことがないからうまく説明はできないけれど…大凡の能力値が一般と評される人たちを遥かに凌駕していて、所謂何をやっても出来てしまうタイプなのだとか。 人によっては恵まれている、とさえ感じてしまうだろうけど、それゆえに少々曲がってしまった性格も思考も今なら納得できる。だからこそ、彼が興味を示しそれに見合う程の興奮と悦楽を齎してくれているバスケットボールというスポーツには、全力を注いでほしいと思う。 「……、帰ってきたら、もう一回…いい?」 応援したい気持ちと、物侘しい気持ちと、ちょっとの不満がわたしの中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。その不快感から眉間に皺が寄ったのはわたしでも解かる…けれど、これでも一生懸命送りだしている方なんだ。それくらいは察してほしい、なんて身勝手な言い分をぶつけても、彼は僅かに眉尻を下げて形の良い唇から嘆息を吐き出して…その後お決まりのようにきれいな弧を描くそこから飛び出してくるのは、どこまでもわたしを惑わす甘い誘いだけ。 「いい子で待てたら、ね?…玄関まで一緒に来てくれる?名前ちゃんにお見送りしてもらった日は、調子良い気がするんスよねー!」 黄檗色の柔らかな毛束以上に優しくそっと触れて、頭を撫でてくれる大きく節くれ立った掌。ああ、やっぱりこっちの方がすきかも。小さく呟いた本音が聞こえていたのか、もともと見目麗しい顔を綻ばせて一段と華やかな笑顔を浮かべる彼。 思いの外喜んでくれているらしい。そう言えば、あまりこういうことは口にしたことはなかった気がする。たまには黄檗色の毛束や頭部に突出した三角形以外も、いいかもしれない。こんな彼が見られるなら…。 すっかり準備万端となった彼と繋がる手を一度きゅっと握って、彼の要望に応えるべく重い腰を上げた。 ふたりぼっちのシャングリラ ((自分の尻尾にヤキモチ、なんて情けないっスよねー。)) |