床に散らばる赤。一瞬何が起こっているのか、理解できなかった。呆然と立ち尽くすことしかできなかったものの、耳へ届いた乱れた呼吸に我へ返ると慌てて彼へ駆け寄る。そっと触れた身体は、恐ろしいほど体温が高い。普段は人より低いのが常だったからこそ、この尋常じゃない熱さに驚いた。 強い意志を宿すルビー色の瞳も、全てを見通す金色の瞳も硬く閉じていて、何度呼びかけても反応がない。彼に触れる指先の感覚がないのはわたしの身体が冷えているせいか…意図せず小刻みに震えてしまうのを叱咤しつつ、なんとか彼の身体を引っ張り上げて玄関先の廊下へ横たわらせる。一先ず、これで外気が彼の体温を奪うことはないだろう。 しかしながら、さすがに成人男性をベッドまで運ぶ体力はわたしにはない。これからどうするべきか…今にもパニックへ陥りそうな状況に目頭が熱くなる。けれど今はわたしがしっかりしなくては…! 彼を案じる気持ちだけが糧であり行動力へと繋がっている、と言っては過言ではない。それでも救急車ではなく水色の青年へ電話していたわたしは、やっぱりどこまでもどんくさくて間抜けなんだと思う。 「疲労による風邪だろう。安静にしていれば、そのうち治るのだよ。栄養のあるものを食べさせてやるといい。」 「ありがとう、緑間くん。」 「フン、礼はいらん。赤司のこんな姿を見られただけで御釣りが来るのだよ。」 「素直じゃないですね、緑間君は。…名前さん、気にしないでください。こう見えてとても心配していたんですよ。」 「なっ!…余計なことを言うな、黒子!」 唐突すぎるわたしの電話にも落ち着いて対応してくれた水色の青年は、30分もしないうちに緑色の男性と共に訪問してくれた。水色の青年一人で軽々と彼を抱えあげて、とはいかないらしく…緑色の男性とふたりがかりで彼を運ぶ後ろ姿に少しだけ気が緩んだのは内緒の話。 そういえば、緑色の男性は医大に進んだと聞いた気がする。少し天然の気があるように感じるけれど、個性的なメンバーの中でも常識人な部類だと思っている。とっつきにくいところがあるのは否めないが、いつでも一歩引いたところから周りを見ていた。 捻くれた言葉の裏側にあるのは、わたしが気に病まないよう気遣ってくれているんだろう。本当にいい友人を持ったと思う。彼も、わたしも…。 この緑色の男性が子どもたちに囲まれているところは想像できないが、慣れた様子で聴診器を扱ったり触診したりする姿は、まさに医師という名に相応しくて…きっと近い未来、信頼も人望も厚い名医になると確信させられる。 そんなことをつらつら考えていたせいか、一通り様子を診終えたらしい。緑色の男性が手際良く解熱剤や数種類の抗生物質が入った袋をナイトテーブルへ置く一方で、目的は済んだとばかりにそそくさと帰りの準備をし始める水色の青年。その姿に慌てたのはわたしで思わず縋るように呼びとめてしまったけれど、返ってきた言葉は信じられないものだった。 「く、黒子くん!…帰っちゃう、の?」 「すみません。これから用事をつくるので、赤司君の傍には名前さんが居てあげてください。」 「えっ…ど、どういうこと?というかわたしが居るのはダメな気が…!」 「赤司君にはお大事に、と…それでは行きましょう、緑間君。」 「ちょ、黒子くん!?……行っちゃった。」 一瞬耳を疑ったが"用事をつくる"と確かに青年は言った。緑色の男性も頬を引き攣らせていたくらいだから、わたしの聞き間違えではないと思う。混乱している間に有無を言わせず、颯爽と部屋を出ていくふたりを呆然と見送ることになったのは、やっぱりわたしのどんくささがいけないんだろうか。 固いフローリングではなく寝心地のいいベッドへ運ばれた彼は幾分か落ち着いたようで、眉間に刻まれていた皺が随分和らいでいる。優秀な医師である緑色の男性から処方された薬もある。わたしがここに残る理由なんて最早ない。そう解かっていても、彼の額に薄ら浮かぶ汗に気づけば、身体は自然と動いていた。 家主の許可なく勝手に触るのは気が引ける…が、最後に足を踏み入れた頃と全く変わらない室内にどこか安堵してしまうわたしは、本当にどうしようもない。氷水を入れた洗面器や真新しいタオルなどの準備を済ませて寝室へ戻る。彼が気付く前に出ていけばいい、そう言い聞かせながら、ぎりぎりまで彼の傍に居ようとする貪欲な考えに自嘲めいた嘆息が漏れた。 あれから2時間ほど経つけれど、彼が目覚める様子はない。余程仕事が忙しかったのだろうか。付き合っていたときでさえ、これほど体調を崩した姿は見たことがない。自尊心が高くストイックな彼だからこそ、体調管理には人一倍気を遣っていたのを知っている。もしかすると無理を無理だと思わずにこなしていた可能性がある。 そんな彼に迷惑しかかけていないだろうわたしの存在は、やっぱり負担でしかなかったはず。もっと早くに解放してあげるべきだったのかもしれない。過ぎたことを悔やんでも仕方がないと解かっていても、目の前で苦しそうに呼吸する彼が堪らなく気がかりで、僅かに布団からはみ出している彼の大きくて骨張った手を、両手で包むように握って額へ寄せる。少しでも彼が楽になりますように、そんな願いを籠めながら…。 不意に長い指先がわたしの手を撫でた感覚に、ハッと我に返り彼を覗き込む。発熱しているうえに未だ微睡みの中にいるのか、いつもより虚ろで少しだけ潤んでいるような赤色と金色が見え隠れする。極上の宝石にも引けを取らないような美しさに、思わず見蕩れてしまったのは許してほしい。 彼の寝起き姿に出会うことは早々無かったけれど、それでも眠気が強いときは鋭さを孕んだ目元が幾分か和らいでいたのを思い出しながら、そっと声をかけた。 「……、征十郎…?」 反応は、ない。繋がる指先から伝わる熱に、彼の体調が改善されているわけではないことを察すると、新しく額へ浮かんだ汗を拭うためそっと手を離す。傍に置いてある洗面器へタオルを浸し固く絞って、身体に障らぬよう細心の注意を払いながら拭っていく。数回繰り返すと彼が吐き出す呼吸も幾分か緩まったような気がして、人知れず安堵の息が漏れた。 ふと閉じたカーテンへ目を向けるとすっかり日も沈んだようで、隙間から差し込む光は太陽から月へと変わっている。氷も溶けてすっかり温くなってしまったし、交換した方がいいかもしれない。そう思い立てばタオルを洗面器へ戻しナイトテーブルのスイッチを押して、ぼんやり広がる明かりに数回瞬き目を慣らす。彼へ一声かけてキッチンへ戻ろうとした刹那、掴まれた手首に思わず動きが止まる。 「…行くな。」 とてもか細くて小さいものだったけど、しっかり耳へ届いた言葉。普段の凛とした力強い音色からは想像もできないそれに、一瞬声を発した人物を探してしまったくらい、彼のものだとは思えなかった。 「行くな…行かないで、くれ…。」 再度紡がれた言葉はどこか縋るような響きを持っているように感じられて、堪らなく胸奥が締めつけられるような感覚に陥った。わたしの手首を掴む大きく骨張った掌には力が篭っておらず、簡単に振り払えそうなくらい弱弱しく、添えられているだけ。 人の上に立ち統率することが多い彼だからこそ、こんな姿を見せられてしまうと困惑を通り越して、狼狽してしまう。 わたしの手首を掴んでいる彼の手に自分のそれを重ね、先ほどしたように両手で包み込んで握り返しながら、空を彷徨っている赤と金のオッドアイを追って目線を合わせる。 「大丈夫だよ。どこにも行かないから……征十郎がそう、望んでくれるのなら…ここに居る。」 今にも消えてしまうんじゃないかと錯覚するほどに、ひどく恐ろしくて、怖くて…彼を安心させたい一心で、必死に語りかけた。紡いだ言葉が届いているかは解からないものの、重なる手に力が篭ったかと思えばそのまま強く手を引かれ、バランスを崩したわたしの身体はあっという間に彼の上へ倒れ込んでしまう。 病床の彼に負担をかけることだけは避けたく、慌てて身を起こそうと試みる――が、それを抑え込むように背中へ回された逞しい腕。それ以上身動ぐこともできず、困惑と緊張と気恥ずかしさから布団へ顔を埋めたけど、密着した体勢に落ち着けるはずもない。息を吸う度、彼の甘い香りに混じって微かに届く汗の匂いが鼻孔を擽り、体温が上昇するばかりだ。 「オレの、傍から居なくなるな。離れる、のは…許さない。……オレは今でも、お前が……名前が…――、」 突然放たれた命令にも似た彼の言葉は正に青天の霹靂で…彼が音を紡ぐ度、聴覚だけでなく全身を通して響く。今、彼は何と言ったのだろう?聞き間違えじゃなければ、とんでもない告白を受けたことになる。いや、待て。そもそもこれは病床の身である彼の傍に居ろ、という意味でそれ以上でもそれ以下でもないんだ。そうは言い聞かせても背中に回る頑健な腕の感覚に、熱を持つ頬と激しく鼓動を打ち鳴らす心臓を抑え込むことはできなかった。 独白にも近い彼の呟きは、そう長く続くことはなく、物思いに耽っている間に拘束は緩んでいた。そっと身体を起こして彼を覗き込む。先ほどまでの饒舌ぶりが嘘のように、赤と金色の瞳も形良い唇も閉ざされている。どうやら眠ったらしい。 目が覚めたとき、彼は覚えているだろうか。それとも、いつかのわたしのように、記憶を辿るのだろうか。彼の真意など、わたしが推し量るなんて到底無理な話。それでも、冗談や嘘を好まない彼だけに、どのような意図で紡いだのか至極気になる。 結局最後に発したであろう言葉はわたしの耳まで届くことはなかったけれど、形良い唇が象った動きに芽吹いた期待を膨らませてしまったのは隠しようがない事実だった。 恋の諦め方。 ((いつだってあなたに翻弄されるんだね。)) |