今尚、彼の部屋の鍵はわたしの手元にある。忙しかった、と言い訳がましく言うつもりはないけど、やっぱり直接連絡を取るには時間が掛った。本当ならずっと手元に置いておきたい…例え使う機会が来ないと解かっていても。彼との繋がりを残しておきたかった。そんなわたしの未練がましい思考に終止符を打つきっかけをくれたのは、他でもない水色の青年だった。 偶然の再会を果たしてからというもの、ちょくちょく連絡をくれて…押し付けがましくなく、それでいて踏み込んでほしくないところは距離を保ちながら接してくれる。感謝してもしたりないくらいに助けられた。そう伝えてみても "ボクは何もしていません。ただ名前さんと話したいと思っただけです。" そんな風にさらりと言われてしまえば、本当に頭が上がらない。今度バニラシェイクを存分に献上しよう、なんて思案を巡らせながら2ヵ月ぶりに彼のマンションへ向かう。 意を決して送ったメールの返信には、了承の言葉と日時が指定された簡潔な内容だけ。たったそれだけのことでさえ安堵して胸がはずんでしまうのは、どうしようもないくらい彼に溺れている証拠だ。報われることがないと解かっていても、恋焦がれる気持ちを失くす方法なんて知らない。知りたく、なかった。 吐く息が白いのはもうすぐ訪れる冬の合図なのか、人一倍寒がりなわたしはみんなよりも先取り仕様。さすがに新作モノを買いに行けるほどの時間的な余裕はなかったので、昨年から気に入って使いまわしている灰色のPコートに淡い桃色のストール、焦げ茶色の皮手袋。本格的な冬が来てしまったら、わたしは凍えてしまうんじゃないかと思うほどには防寒対策に抜け目がない。 逃避したくなる気持ちからうだうだ余計な事柄を巡らしているうちに、目的地に到着してしまった。軽く瞼を閉じて深呼吸を数回。以前のような失態を演じることだけは避けたくて、手袋を外し鞄の内ポケットから掌に馴染んだ銀色の鍵を取り出す。インターホンに乗せた指先が小刻みに震えているのは、デジャヴなんかじゃない。今日が最後。本当の終わり。そう何度も言い聞かせて、ゆっくりボタンを押した。 "ピーンポン" 無機質な機械音が響いて来訪者の存在を彼に告げる。これで後戻りはできない。心の準備は散々したはずなのに、いざ彼と対面するとなるとこうも逃げ出したくなる。ちゃんと彼の顔を見て別れられるのだろうか…その前に、彼の瞳にわたしは映るのだろうか。 考えてもどうにもならないことばかりが脳内をぐるぐると駆け巡る。数秒にも、数分にも感じられる間に、どくどくと波打つ鼓動だけがわたしに聞こえてきて………あれ?おかしい。扉が開く気配がない。 腕に嵌めている時計へ視線を向けると約束の時間を5分過ぎたところ。彼は時間に厳しい人だし、無断で遅刻をしたり約束をすっぽかしたりしたことはない。待ち合わせだけじゃなくて、どんな物事においてもそれは正確だ。わたしの時計が遅れているのか、とスマホを取り出してみてもそこに表示されている時間と、腕時計の文字盤は同じ時を刻んでいる。 約束の時間を間違えた…?そんなことはない、とは言い切れないところが悲しいけれど、自己嫌悪に陥っている場合じゃない、と慌ててメールを確認。…間違ってない。どういうことだろう…?今までこんなことはなかったから、正直どうしていいか解からない。 もう一度インターホンを押してみた方がいいのか、それとも…悶々と悩みながらボタンとにらめっこしていたところ、響いた解錠音。 "ガチャ" "ピーンポン" ……やってしまった。あの日と同じ過ちを犯してしまうなんて。電子音が辺りへ木霊する中、対面済みとなっている彼をおずおず見上げる。相変わらず鮮やかな赤色を纏い、整った顔立ちで見下ろしてくる赤と金のオッドアイ。同じ失態を繰り返すわたしのどんくささのせいか、心なしか彼の眉間に寄る皺が深く見える。きっと呆れられている。そう思うだけで一気に急降下する気分を、露呈させまいと何とか笑みを取り繕う。 「……あ、あの…ごめんね?忙しいところ、お邪魔しちゃって。」 「……。」 「あ…え、えっと!これ、鍵。長い間借りててごめんなさい。それと…その、介抱してくれて、ありがとう。お礼というか、ご迷惑をおかけしたお詫びと言いますか…よかったら、どうぞ。」 「……ああ。」 いざ彼を目の前にしてしまうと、頭の中が真っ白になってしまった。緊張からなのか、情けない自分になのか、滲んでぼやける視界に慌てて目線を落とす。言いたいことは山ほどあるのに、どうしてこうもぎこちなくなってしまうのだろう。最後くらいは笑顔でお別れしたいのに。 普段以上に口数の少ない彼はどこか素っ気なく感じて、鼻の奥がツンと痛む。これは寒さのせいだ、と言い聞かせてみるけど、きゅっと喉奥が締めつけられる感覚に口角が歪んだ。 少々強引かもしれないが鍵と一緒に彼が比較的好んで口にしていた銘菓を押しつければ、重なる大きな掌が予想以上に熱く一際大きく鼓動が跳ねて、溢れそうになる欠片を零さないよう必死に呑み込む。 「っ………じゃ、いくね?」 "ばいばい"、その言葉が彼へ伝わったかは解からないけど、震える声を抑えられるほどの冷静さを、今のわたしは持ち合わせていなかった。笑顔でお別れする、なんて最初の決意すら守れない弱虫なわたし。 こんな惨めな姿を見られたくなくて、足早に踵を返す。今更かもしれないけど、最後くらいは彼に迷惑をかけたくない。…それでも彼には全部お見通しなんだと思うと、不思議と強張っていた身体の力が抜けた。 そうだ、彼の前でいくら取り繕おうと全て見透かされてしまう。それなら、彼の姿を瞳に焼きつけるくらいのわがままは許されるだろうか。自己満足でも、ちゃんとお別れを言いたい。例え彼が見ていなくても。 都合良すぎる自己解釈だ、こんなのは。この素直さは正しいかどうかなんて解からない。開き直りなのかもしれないけど、それでも抱いた気持ちを止める術は知らないから。 彼の部屋から数歩離れた場所で一旦足を止める。まだ扉が閉まる音が聞こえないから、彼はそこにいるはずだ。どんな顔をしているのか…願わくば最後に瞳へ焼きつける彼の表情が、穏やかなものでありますように、と心の中で祈りながらゆっくり振り返る。 その先に見えたのは、ぐらりと大きく揺れて地面へ吸い込まれる赤。まるでスローモーションのようにその光景を捉えていた。 「…征十郎?」 恋の終わり方。 ((だいすきでした、なんて過去にはできないけれど…。)) |