残業を終えて会社を出てみれば、地面を濡らしていたはずの雨が止んでいた。天気予報では傘が手放せない一日と言っていたから、全身どころか鞄まですっぽり収まる大きめの傘をチョイスしたのに。使っているときは然程気にならないけど、たたんで持ち歩くとなると途端に厄介な荷物へ変わってしまう。 寄り道も予定には入っていなかったけど、会社を出る寸前に上司からのお願い…という名の雑用を頼まれた手前、おずおずと帰るわけにもいかない。非常に不本意ながらも目的を果たすため、駅から一番近い本屋へと足を向けた。 情報誌や趣味として見る分には好ましいけれど、仕事の一環となるとどうも気が重い。青い海、白い砂浜、新鮮な魚介類、豊富な地酒。様々な特集が組まれている雑誌は、目を通すだけで沈みがちな気分を一新するくらいには興味を惹かれる…というのは、わたしが単純に浮かれているからだろうか。 中途半端なのは後味が悪い。何よりせっかくわたしを買って任せてくれたのだから…出来る限りのことはやりたい。ならば語学に関してもある程度は学んでおく方がいいのかも…そう思い立てば、数冊の海外情報誌を片手に語学書が置いてある棚を探す。その途中で見つけた、水色。 「…あ。」 お久しぶりです、そう言って洗練された仕草で会釈する水色の青年。半年ぶりの再会だ。以前、桃色の彼女(と、黄色いシャララ)から受けたお誘いを断ってしまった手前、どことなく気まずく感じてしまうけれど。それ以上に偶然の再会に嬉しさを感じるのは、やはり苦楽を共にした青春時代の仲間だからかもしれない。 本当に久しぶりだね、元気でしたか?、最近忙しくて…。テンポよく弾む会話は他愛もない話題ばかり。この青年のあどけなさが残る顔立ちのせいか、将又透き通る透明感のせいか…知り合って10年が過ぎるのに全く年月を感じさせない。まあ、当人が耳にしたら確実に機嫌を損ねるだろう内容は決して口には出さないけれど。 とにかく昔から大人びた言動が多いこの青年とは比較的気が合って、過ごした日々も他の仲間よりは格段に多いのはたしか。纏う雰囲気がどことなく彼に似ていたのも一つの要因だったかもしれない、と気付いたのは最近のこと。 「あの…、少し時間ありますか?お聞きしたいことがあるんです。」 割と何事もずばずば口にしていた印象が強いだけに、僅かながら眉間を寄せて言い淀む姿は珍しい。だからこそピンときた。思い当る節は一つしかない。はぐらかすこともできたけど、この青年を前にして嘘や言い訳は通用しない。そんなところがやっぱり彼に似ていると思う。何と言ってもこの青年の行動力や頑固さは仲間内でもずば抜けているのを、長い付き合いの中で十分過ぎるほど痛感している。 それに…わたし自身、話を聞いてもらいたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。こうやって他人に甘えて頼ることでしか自分を律せないわたしは、10年経っても全く成長できていないんだな、と知った。 店内の中でも比較的奥まった位置にあるボックス席。好物片手に上機嫌な青年と向かい合う形で腰を下ろす。人の趣向は早々変わるものじゃない。白いカップが当然のごとく水色の青年の手に収まっているのを数え切れないほど見てきた。中学時代は部活帰りにこうして寄り道すると、バニラシェイクを頼んでいたこの青年。飽きないのかと心配になるほどそれだけを注文していたのは懐かしい想い出。 「相変わらずバニラシェイクなの?」 「そういう名前さんこそ、ストロベリーシェイクでしょう。」 「あ、バレた?」 表面にしっとり汗を掻いたカップを拭うように指先を滑らせる。一口含めば、咥内に広がるベリーの仄かな酸味とシェイクの甘さが絶妙なハーモニーを奏でる。この青年ほどではないけど新商品や珍しいものより、お気に入りを愛用するのを好むわたし…人のことをとやかく言える立場じゃないか、と内心反省する。でもこんな些細なやり取りが妙に擽ったくて、それ以上に心地良くて、あの頃の記憶が鮮明に蘇った。 彼と寄り道して帰ることはそう多くはなかったけど…みんなと一緒に帰る時は一番後ろにふたり並んで、こっそり指を絡ませながら歩く一時が、堪らなくしあわせで…。いつまでもあの頃のままで居られるわけじゃないのは解かっている。それでも、こんな風に変わってしまうとは思わなかった。想像しなかったわけじゃない。 ただただ、深紅に煌めく瞳を細めて、柔和な笑みを向けてくれる彼に見守られる日々が、ずっと続くことを願っていた。 「聞いたんだね、征十郎とわたしのこと。」 「はい。……名前さんはそれでいいんですか?」 「正直言うと、解からない。それでも、どちらかの気持ちが離れてしまったのなら…一緒には居られないよ。」 どうしてこうなったか…そんなことはわたしが聞きたいくらい。気付いたら、彼と一緒に過ごす時間が短くなって、目を合わせる回数も減って…。何よりもわたしがすきな、彼の笑顔が消えていた。もともと口数が多い人ではないから、沈黙に包まれることも珍しくなかった。けれど彼とのそれは苦痛じゃなくて、一緒の空間に居られるだけでひどく安心できていたのに。 いつからか、静寂が怖くなって落ち着かなくなって…。それでも彼の傍を離れたいとは思わなかったし、気持ちが薄れることもなかった。ただ、彼の気持ちが…彼のことが、解からなくなっていった。 「ちゃんと話をしたんですか?赤司君とは。」 「うん。…話をして、納得して、この結論になったの。だから後悔はしてない。征十郎には感謝してる。ずっと大切にしてくれていたのは解かってるから。」 「……そうですか。」 嘘は、吐いていない。無駄や面倒を嫌う彼だからこそ、こういう関係においてもきちんと明白にしたいんだと思う。まあ、別れたからと言って無視をしたり友人関係すらも解消したりするような人ではない、はず。 自分にも他人にも厳しい言動が目立つけれど、その根底にはいつも他者への気遣いがあったし、自分の懐に入れた人たちには惜しみない情を注いでいたのを知っているから。それが表には見えにくいだけ。 もしかすると、彼はわざと隠していたのかも…と今更になって思った。中学時代にすれ違った彼らを思えば、そういうところは意外と不器用なのかもしれない。 「黒子くんやみんなには気を遣わせちゃうかもしれないけど、今まで通りに接してくれると嬉しいなあ。…少なくとも、征十郎に対してはそうであってほしい。なんて、おこがましいかな。」 「そうは思いません。ですが、丁重にお断りさせて頂きます。ボクにとっては赤司君だけじゃなく、名前さんも大切な友人なんです。おふたりが別れたことでこれっきり、というのは納得できません。ボクとしては、今後もお付き合いしていきたいです。」 「……、ありがとう。」 いつだってこうなんだ、この青年は。確かに、今回の件でわたしが諦める事象はないのかもしれないけれど…変わってしまった関係があるのは事実だから、以前のように行かないのは当然で…。それでもこうやって気遣ってくれて、あまつさえ救いあげてくれる。 これはわたしだけに限らず誰に対してもそうで…時折こちらが恥ずかしくなるくらい真摯に想いを伝えてくる。でもその直向きさに救われた人はたくさんいる。自他共に影だ、存在感が薄い、と主張するけど誰よりも強い輝きをもっているんじゃないかと思う。 趣味が人間観察、というくらいだからわたしの薄っぺらい仮面など見抜いているはず。それなのに、これ以上深く追求することなく、あえて何も言わないでいてくれる。 澄んだ空を彷彿させる青年の瞳は、いつでも真っ直ぐに意志を貫く。そんな強さを持っていることがとても羨ましくて、少しだけ怖い。何でも見透かしているようで、全てを見通す彼の瞳を思い出してしまうから。 そんな水色の青年をずっと見続けられるはずもなく、すっかりどろどろに溶けてしまったシェイクへ視線を落とす。手持ち無沙汰から一口啜ると、既に温くなった中身は胸やけがしそうなほど甘ったるくて、苦しい。歪んでいくばかりの表情を見られないよう、俯いたまま手で顔を覆った。 ずいぶん前から熱くなっていた目頭に気付かないふりをしながら。 失くしたモノの見つけ方。 ((ただ、彼の笑顔を取り戻したかっただけ…。わたしに向けられることは二度となくても。)) |