あの日、人生最大とも言える勇気を振り絞ったにも関わらず、自分の不注意で台無しにした。せっかく休日だった彼の半日を潰してしまったのは間違いなくわたし。けれど、やっぱり彼の言う通りにしかならなくて…結局鍵を見つけたのは彼で、わたしが到底目を向けないだろうと思われた場所に落ちていた。 街路樹が植えられているそこは、様々な雑草や草花で溢れ返っていて、一か所一か所を見直すにはかなり根気がいる作業だ。けれど、そこから目的のものを見つけた彼はさすがというか、何というか…。本当に何でも解かっているんだなあ、と改めて感心してしまった。 最後のデート、なんて一方的にわたしが思っていた時間も、終始無言と沈黙が支配していた。それでもわたしにとっては、鮮明に思い出せる彼との足跡の一つで…未練がましいのは解かっているけど、彼と歩んだ日々は本当に輝かしくて、温かくて、優しいものばかりだから、想い出に変えるなんてことはまだまだ出来そうにない。 想い出は美化される、というけれど…これ以上彼との日々が素敵なものへ塗り替えられてしまったら、わたしは一生独り身になってしまう。そんなのはごめんだ。彼のためにも早くしあわせをつかみ取らなければ…なんて、尤もらしい言い訳を並べていたところに、届いた一通のメール。 社会人になってからというもの、学生の頃のように小まめにやり取りする友人はいない。人によって着信音を変えたり、グループ設定したりすることすらしなくなった。どうせ受信ボックスを埋める殆どがクーポンだったりメルマガだったり…望んでもいない迷惑メールに近い内容のものだから。 短いバイブ音と共にチカチカと受信ランプが7色に点滅する。またメルマガか、と新着マークを消すためだけに軽くタップすると予想外の名前が表示された。 "桃井さつき" その名前に動揺したのは仕方がないことだと思う。彼女から連想されるのはカラフルな髪色を持つ、個性的な友人たち。青春を一緒に謳歌した仲間。…そして、赤を纏った彼。彼と繋がる糸ならば慎重に辿らなくては。震える指先に気付かないふりをして、画面を開く。 "久しぶりにみんなで集まろう!今度はきーちゃんも来られるみたいなの。" 出来ることなら今すぐに削除ボタンを押したい。見なかったことにしてしまえ。そう心の中で囁くもう一人のわたしが居ることに気付いて、さすがに嫌悪から深い溜息が漏れた。何て返事をしようと思案するまでもない。わたしの答えは既に決まっている。 "ごめん、いけない。" たったそれだけの文字を打つのに30分は掛った。何度も打っては消して…の繰り返し。だけど、それ以上に的確な言葉が見つからなかった。もっと本を読んでおけばこの残念な語彙力も多少はマシになったのかもしれない。今更すぎる後悔から自嘲するとスマホの電源を落とした。 あれから何度か桃色の彼女からメールがきた。ついでに言うと黄色いシャララからもきた。無視する、なんて暴挙にでるつもりはなかったけれど、しつこく理由を問いただされたのはさすがに参った。 彼らの反応を見る限りでは、彼とわたしのことについては知られていないようだった。別に隠すことではないし、いずれ知られることになる。正直に言えばよかったのかもしれないけれど、わざわざ波風立てる必要もないかと言い訳をつけて、逃げた。いざとなれば彼が伝えるだろうし、わたしが口を出して拗れさせることもない。人へ説明するなら彼の方が適任だから。 「ほら、もっと呑んで!飲み放題なんだから、呑まないと損だよー?」 どうしてわたしはここに来てしまったんだろう…。思わず零れそうになる嘆息を呑みこむように、ぐっとジョッキを煽る。いい飲みっぷりだねー、なんて隣でへらへら笑う見ず知らずの男に同じくへらへらと愛想笑いを返して新しいジョッキを注文した。 彼らとの再会の代わり、と言ってはあれだけど…偶然誘われた飲み会に参加したのは、気まぐれなのか、彼女たちに予定があると言ってしまった手前なのか、ただ寂しかっただけなのか…わたし自身よくわかっていないが、やっぱり慣れないことはするもんじゃないと改めて実感した。 「名前ちゃんって、クール…というかミステリアス、だよね?ちょっと陰のある感じー?俺、そういう子に惹かれちゃうんだよなー。なんかあった?あ、振られた、とか?」 先ほどから左隣を陣取り、延々と喋っているこの男。よくもまあ口が回るもんだ、なんて感心していたせいかデリカシーのない質問をぶつけてくる様に思わず握っているジョッキに力が篭った。傷を抉られた、とか図星だ、とか…そういうことよりも、彼はこんな風に煩くしゃべるタイプじゃなかった、もっと理知的に話す人だったな…と名前も知らない男と彼を比べてしまっているわたしに愕然としたからだ。 新しい出逢いを求めて躍起になっていたわけじゃない。それでも何かしら前向きに進めるきっかけになれば、と思って参加した。それなのに、無意識だったとはいえ初めて出逢った男の人と彼を比べてしまっているわたしはどうしようもないほど身勝手で最低な人間だ。 何より彼を超える人などいないに等しいと知っているくせに。これは欲目でも何でもなくて、本当に、彼という人は全てにおいて完璧だから。こうやって新しい人と出逢う度に彼と比較してしまっていては、わたしにしあわせなんて一生訪れないと悟ってしまった。 わたしの雰囲気に何かを感じとったのか、機転を利かせて間に入ってくれた友人に感謝しつつ、それからは一層アルコールを体内に流し込むことに没頭した。 「っ、…のみすぎ、た…!」 アルコールに耐性があるはずもなく、案の定、1時間もしないうちに限界を迎えていた。周囲の空気としてはこれから、というところでひとり場を乱すわけにもいかず、社会人になってすっかり得意となった上っ面だけの笑みを張り付けて席を立つ。 一目散に駆け込みたいお手洗いは、入り組んだ作りになっている店内のせいで酔っ払いにはちょっとした迷路のよう。全席個室がお店の売りでもあり、通路は思いの外静かでカツンカツンとヒールを鳴らす音が大きく響く。なんとか辿りついた目的地に安堵から歩調を緩め、タイル張りの壁へ右手を添えて一呼吸。 数合わせの飲み会だし会場の熱気が冷めるまでここに居ようかな、と非協力的なことを考えていたからか、背後から肩を叩かれたときは情けないほどに驚いてしまった。反射的に肩を竦めたまま振り返ると、へらへら締まりのない笑みを湛える男。今日知り合った中で一番話しかけてきた人。だけど名前すらわたしの中には残ってない。 「え…っと、……ぐ、偶然ですね!」 「あー…残念ながら偶然じゃなかったり?…名前ちゃんが席立ったの見えたから、追ってきちゃった。」 「え…。」 「いやほら、ずいぶん呑んでたみたいだし。倒れちゃったら困るだろ?それに…二人っきりになるにはちょうどいいかなって。」 相変わらずへらへらとした笑みを浮かべながらわたしの目の前に立つ男。こんな風に声をかけられたことは今までないけれど…いったい何がしたい、なんてこの状況で解からないほど鈍感でもなければ、純粋でもない。それでも乏しい経験ゆえにどうやって切りぬけるのが得策なのか…目の前の男と同じく薄っぺらい笑みを張り付けて通路へ視線を向けた一瞬――それが失敗だった。 背中に当たるごつごつしたタイルらしき壁と手首を拘束する骨張った感触。拒絶する間もなく、塞がれた唇に思わず眉根を顰める。生温く湿った感触も、思った以上に柔らかいソレも、全部全部不快でしょうがない。精一杯力を籠めて押し返そうとするけど、掴まれた手首へ込められる力が強いうえに、アルコールでおぼつかない足元じゃ意味を成さない。 「ゃ、…っ…ん!」 鼻息荒く吹きかけられるアルコールと煙草の混じった悪臭に、ますますきつく唇を噤んでみても、それを許すまいとするかのようにざらついたモノが這い回る。堪らなく気持ち悪くて目頭が熱くなる。 これは何の罰なんだろう。素直になれなかったこと?それとも、安易な考えでいたこと?将又、嘘をついて逃げ出したこと?いったい幾つの罪を認めればいいのか、なんて自分でも訳の解からない思考へ陥るほど混乱していた。 (こんなの、違うっ!やめてやめて…彼じゃなきゃ、征十郎じゃなきゃ…いや!) 「…おい、どいてくれないか。」 息を止めるのも限界で、徐々に全身の力が抜けていく。酸欠から新鮮な空気を求めて唇を開こうとした刹那――割って入った第三者の声。 気が削がれたらしい男の力が緩むと、ずるりとその場にしゃがみ込んで、手の甲で唇を拭いながら浅く呼吸を繰り返す。うまく働かない思考の片隅へ僅かに届く男性同士のやり取りにどこか違和感を覚えながら、わたし自身を落ち着かせるのに必死だった。 ぎゅっと目を閉じると溢れだす雫。一粒流れ落ちれば次から次へと頬を伝っていく。漏れそうになる嗚咽をかみ殺すように手の甲を唇に押し当てながら、ただただ蹲って小刻みに震える身体を抱えていた。 過ちの正し方。 ((今更気付いたって遅いのは解かってるのに…それでも、求めるのは――。)) |