「おい、時間だぞ」 随分と耳に馴染んだその声が急かす言葉とは裏腹にとても穏やかに、優しく聞こえたのはわたしが柄にも無く少し浮かれているからかもしれない。 想像もしなかった世界がわたしの目の前に広がって、大さじ一杯の緊張感がその声によって徐々に溶けていく。こんな未来を、一体誰が描けただろう。 ──「名前!」 何百回、何千回と呼ばれてきた自分の名前も、彼の声で聞くと驚く程新鮮で特別なものになった。トランクを転がして歩けばどうしたって屋敷の人たちには見つかってしまうもの。獄寺さんがついていれば尚の事、事態を察したボンゴレのひとたちが次々に声をかけてくれる。 けれど誰も、理由を尋ねることも引き止めることもしない。ただただ気遣われることにわたしはやっぱり、少しだけ戸惑いながらもその優しさに世界が滲んでしまうのを抑えるために必死だった。 戻ったらお前は、そんなことを獄寺さんが口走ったときだったと思う。するりと耳に滑り込んで来た張り上げられた彼の声。周りにいた数人の視線は彼へ流れ、そのまま散って行く。一瞬驚いた表情を浮かべて、けれどどこか安心したように息を吐き出した獄寺さんもわたしの肩に触れてからそっと離れて行った。あっという間に取り残される彼と、わたし。 握りしめられた彼のてのひらから覗くきらきらと光るオレンジに、一瞬にして胸が波打つ。どくん、どくん。彼の言葉を聞く事が、こわくて仕方が無い。 いつから、なんて具体的なことはわからない。けれどたぶん、わたしを必死に探してくれたあの日から、わたしの中で彼に対する何かが明確に変わっていったのだと思う。気がついたら、好きだった。例え彼がわたしを見ていなくとも、例えわたしが彼を見てはいけなくとも、例え彼の世界とわたしの世界が交わる事がなくとも、それでも、こんな歪な関係だとしても傍にいられたらいいと思っている自分がいた。 彼とどうこうなりたいと願ったわけではない。彼がこの婚姻関係を良く思っていないことなんて最初からわかっていたこと。けれど、その中でもしもうまくやっていけたら、隣で笑っているだけでもいい、彼の生きていく道をそっと見ていられたらどれだけしあわせか。彼の瞳の中に居たかったわけじゃないのだ、わたしの瞳の中に、彼を映していたかった。 すっと息を吸い込んで、ごめん、勢い良く吐き出された言葉は止まる事を知らず、彼の口から次から次へと語られる彼の優しくあたたかな想いたち。彼の言葉がひとつずつわたしの胸の内へ積み重なっていけばいくほど、ぼやけていく視界に彼の声が震える気がした。まるで、泣いているのは彼みたい。 暖かい体温に包まれて、耳元に落とされた「名前の気持ちは、どこに在る?」その一言がわたしの心を動かす。父親に認められたかった。ファミリーが大切なのは、きっと、わたしも一緒。育った環境はどんな形であれ、あそこがわたしの居場所だった。けれど、父への想いも、わたしの今までの人生も、彼の未来も、全部どこかへ放り投げていいと言うのなら…わたしは──。 今までを否定するわけではない。ただ、わたしのファミリーがわたしの本当の意味での居場所にはならなかった、それだけのこと。「準備はいいか?」そう言って一瞬視線が絡めばウインクをする漆黒に小さく頷けば、先ほどまで傍にいた右腕さんはさっさと退散してしまった。 流れるように腕を差し出すその漆黒に包まれた人。そっと腕を絡ませれば大さじいっぱいの緊張が3割増で戻ってくるけれど、時間はわたしのことなんて待ってはくれない。 開かれた扉、ほんの少しの眩しさに一瞬瞳を細め、そして少しずつ馴染んでゆく視界。たくさんの優しさをくれたボンゴレの人たちの笑顔のその向こうで、隣に居る漆黒の人とは真逆の白に包まれた彼がいる。そのすぐ傍に佇むのは先ほどまでわたしのところに居た獄寺さんだ。 一歩ずつ近づく度に読み取れて行く彼の表情は、最初こそ緊張感溢れた少しぎこちない笑みだったけれど、それが徐々にゆるみ、そして今や完全にお怒りである。 「なんでお前が一緒に歩いてんだよ!?」 叩き付けられた言葉はわたしの隣にいるリボーンさんへ。リボーンさんはリボーンさんで、「せっかくだしこのまま攫ってやろうか?」なんてちょっかいをかけるから、ついつい笑ってしまえばああもう、と半ば強引に彼に手を引かれ彼の隣へ。やれやれと肩をすくめたリボーンさんは役目終了と言わんばかりにさっさと席へ戻り、獄寺さんがお決まりの長文をひとつひとつ丁寧に読み紡いでいく。 病めるときも、健やかなるときも、なんてなんだかくすぐったくてたまらない。「誓います」の一言が、こんなにも穏やかな気持ちで言えるだなんて思ってもみなかった。 こじんまりと、ボンゴレの人たちだけで開いてもらった結婚式。父親にだけは招待状を送ったけれど、返事が来ることはなかった。そっか、と困ったように、少し哀しそうに笑った彼がそれでもどこかほっとしているように見えたのはきっとわたしの気のせいではない。そしてわたしも、ほんの少し安心してしまったのだ。結局は父親の思い通りになってしまったわけで、もしもまた彼に嫌な想いをさせてしまったら、そんな心配だけが尽きなかった。 ここがわたしの居場所だと彼が言ってくれたから、それでいい。そんな風に思えるようになったのもきっと、彼と、彼のファミリーのみんなのおかげで、きっとわたしは一生頭があがらないんだろうなあ、なんて思ったりする。 諦めていた未来。切り捨てていた未来。どうせ、そんなことばかり思っていた。隣で笑ってればいいだなんて、とんでもない。 彼と出会って、彼と過ごして、本当に少しずつ画用紙に鏤められた色がわたしの世界を鮮やかにしていく。こんなにも、きらきらとひかる世界を生きていけるなんて本当に、夢に見たこともなかったの。 向き合った彼がそっとベールに触れて、やっと絡んだ視線に、どこか照れくさそうに笑う彼。優しく肩に触れた手がいつもの彼よりは幾分か冷たくて、緊張してるんだなあと思えばそれだけで胸がきゅっとする。愛しい、と、思う。 胸にあるオレンジに手を重ねて願う。これからさき、何年も、何十年も、彼の隣にいられたらいい。たくさん笑って、美味しいもの食べて、たくさんの色をふたりで重ねていけたら、そんなしあわせを噛み締めることができる今が、本当に素敵な奇跡。 ねえ、綱吉さん 「ありがとう」 わたしを、愛してくれた貴方へ。 |