普段なら彼女を見送るために部屋まで付いていくが、どことなく小さく華奢な背中が拒絶を示すようにするりと扉を抜けていくのを視界へ収めると、その場に張り付いたかの如く脚が動き出すことはなかった。怒らせてしまっただろうか…。臆病なオレは、いつまで経っても傷つくことに怯えてしまう。痛いのは嫌だ。 不器用ながらにも淹れたオレの紅茶が飲み干されることはなく、カップに溜まり熱のやり場を失い空気に漂い行くのをぼんやり眺める。一日の終わりを締めくくる就寝前の挨拶すら、彼女へ届いていたかは不明だ。情けないことに未だ彼女の感情の機微がはっきりと解かるわけではないし、本心が見えにくいからこその不安だ。彼女を傷付けてしまったかもしれない…いや、きっと心を痛めているはず。誰よりも繊細で敏感で、自己犠牲が強い彼女だから。でも必要なことだったんだ、と自分に言い聞かせて既に冷めきった紅茶を一口含めば、どこかほろ苦い味わいに胸奥が痛んだ。 今日一日溜まりに溜まった疲労も、オレ自身の中で蠢いていたものを吐き出したことで、少しだけすっきりした気がする。オレ様な家庭教師にどやされる前にさっさと残りの書類の束へ向き合うためにデスクへ脚を向けたオレは、扉の向こうで繰り広げられていた彼女と右腕の攻防なんてこれっぽっちも予想してなかった。今思えば、オレは本当にダメダメな人間で、それこそ10年前に戻ったような能天気さでいたと思う。 心配事が減ったせいか、将又、傍に佇む漆黒の悪魔のお陰か…一夜明けた頃にはすっかり嵩が減った書類。幸い、横暴な家庭教師にとっても及第点であったらしく真っ黒な愛銃が火を噴くことはないのを、恐る恐る横目で確認しつつぐっと両手を組んで前に伸ばす。寝不足なんていつも、と言えるほど眠気に勝てるオレじゃないけど、今日は頑張ったと自分を褒めてやりたいくらいには、真剣に向き合えたと思う。 一息吐く為にコーヒーでも淹れようかと腰を上げるや否や、まるで見計らったようにノック音が静寂を破った。その控えめな響きはここ数日のうちにすっかり聞きなれたもので、思わず掛け時計に目を向ければ――長針はUの数字を少し過ぎていて、短針はちょうどZに重なっている。改めて腕時計に目を落とせば7:10を過ぎたところを差している。どうやら、オレが寝惚けているわけではないらしい。隣から聞こえた舌打ちと安全バーが下りる音に我へ返り慌てて返事をすれば、この時間には珍しい来訪者である彼女へ瞳を瞬かせながら声をかけた。 「どうしたの?何かあった?」 もともと淹れる予定だったコーヒーの豆が入った袋から手を離し、昨日届いたばかりの緑茶に変更して湯呑みへ若菜色のお湯を注ぐ。ソファへ促すと小さく頷いただけで、どこか雰囲気や表情の硬い彼女にいつかのように米神が疼く。とりあえず…と、湯気立つ湯呑をそっと彼女の前に差し出すと、向かい合うようにソファへ腰を下ろしたところで、先程まで黒を纏い佇んでいた家庭教師の姿が消えていることに気付けば、何とも言えぬ敗北感が湧き上がる。 少しずつだけど、彼女の瞳に宿る温かくて柔らかな光に安心していたオレは、対峙した際に見えた様相に息を呑む。初めてと言っても過言でないほどに自発的に合わせられた、大きな黒曜石を彷彿する瞳には強い決意と覚悟が宿っていて…一瞬にして瞳を奪われた。高くも低くもない、耳に馴染むアルトの声がぽつりぽつりと紡ぐ言葉の数々が驚くほどにオレの中を駆け巡っていく。彼女の声に心地良さを感じている場合でないことは百も承知だ。けれどオレが口を開くよりも先に指先へひっかけられた、それ。オレが一方的にだけど、彼女のために贈ったネックレス。 「えっ……ちょ、!」 状況を把握するよりも早く、扉の先へと駆けて行った彼女に対し、呆然と立ち尽くすオレ。チェーンから伝わる冷たい金属の感触が彼女との決別を現実だと言っているようで、思わず肌に食い込むほど強く握ってしまった。 オレはどうしてこれほどショックを受けているのだろうか。彼女の選択は尊重したい…けれど、そう思うには引っ掛かることが山ほどある。穏やかで柔らかな笑みを湛えて礼を述べた彼女…でも、その瞳にありありと浮かぶ悲哀。きっと紡いだ言葉に嘘偽りはないと、思う…でも、オレが望んだ結末はこうじゃない。それだけは、解かる…いや、待てよ。そもそもオレが望んだ結末って何だ?もともと政略結婚なんて望んでない。それは彼女も一緒だったはず…。ならばこれはお互いにとって最良の結果じゃないのか。 ぐるぐると自問自答していたせいか、反応が遅れた。気付いたときには後頭部へ走る衝撃と痛み。ゆらぐまま身体は真っ赤な絨毯へ吸い込まれ、派手な音を立てて顔面からダイブしていたオレ。 「ったく…ちったぁーボスらしくなったかと思えば…やっぱりおまえはダメツナのまんまだな。少しでも期待したオレが馬鹿だった。」 「っ、!……痛いだろ、リボーン!何すんだよ!」 「うだうだ悩んでねーでさっさと行動しやがれってーんだ!おまえの貧弱でダメダメな脳みそで悩んでも、答えなんざ出るわけねーだろ。いい加減にしやがれ。いつまでもガキみたいな感情で誤魔化すな。…さっさと追いかけねーと、二度と手に入らなくなるぞ。」 ひりひりと痛む額や鼻頭よりも、その一言に、どくりと音を立てた胸がざわつく。やっぱりおまえはオレの先生だよ、リボーン。情けないけど、おまえが居てくれてオレは何度も救われたんだ。ありがとう…なんて、今更面と向かって言えるはずもなく、言葉の代わりに全力で駆けだした。 そうだ、ずるいのはオレだ。彼女に全部押し付けて、苦しくて辛い役目を負わせた。本当はとっくにオレの中で答えなんて出てたのに…!後悔と罪悪感、オレ自身への苛立ち…その他もろもろな感情に苛まれ目頭が熱くなったけど、ここで泣く訳にはいかない。 そういえば、彼女と出逢ってからだ…こんな風に自分で制御できなくなるほどに感情が揺れ動くようになったのは。厳密に言うと、思いだした、と言う方が正しいのかもれしない。10年前…いや、それこそ数年前まではこうやって怒ったり凹んだり、笑ったり、楽しんだり…みんなでたくさん共有していた。でもそれは年々減っていって…忘れたわけじゃないけど、諦めていたのかもしれない。いや、思いださないよう、鍵をかけて深く深く、オレの中に封じ込めていたんだ。苦しくならないよう、傷つかないように…。 出逢いは最悪と言えるかもしれないけど、それでも彼女と過ごした日々はどれも鮮やかで温かくて、ちょっと苦しくて…そのどれもが手離したくないものなんだ。何より、控えめだけど柔らかに優しく微笑む彼女が、オレは―――。守りたい、なんて大層なことを言ったけど…本当は、オレが彼女の笑顔をみていたい。あわよくばその笑顔がオレに向くといい、なんて。いつの間にかオレの中はそんな邪な気持ちでいっぱいだった。 エントランスに近づく度に増える人と、別れを惜しむ声に一層脚を動かす力を強めて、初めて彼女の名前を呼んだ。 「名前!」 突然響いた大声に周囲は一瞬にして静まり返った。ついでその元凶を探して視線をさ迷わせて、辿りついた先がオレだと解かれば、幾人かは顔を青褪めさせながら、そして大多数が気遣わしげに彼女を一瞥して去って行く。水を刺したのは悪いと思うけど、正直それを詫びるほどの余裕も言葉も頭からすっ飛んでいるから大目にみてほしい。ただ、今にも折れてしまいそうなほどに細い彼女の手首をきつく掴んで、その存在を確かめる。 よかった、まだ、ここに居る。 そんな安堵も彼女の怪訝と戸惑いに歪む表情によって瞬時に不安へと変わる。何度か深く息を吸い込んでは吐き出して…どくどくとうるさい心臓とざわつく気持ちを落ち着けようと試みる。次第に浅かった息も治まり、改めて彼女と向き合い、その華奢な両手をぎゅっと握る。 「ごめん!…オレ、卑怯だった。君にばかり辛い選択を押し付けて、全てをなすり付けてた。」 何から口にするべきか、昔よりは働くようになった脳内も、彼女を前にするとほぼ機能が停止してしまうのは、きっとオレ自身気付いてしまったからだろう。頭一つ分以上小さな彼女へ視線を落とすと、困惑を露わにした彼女の瞳には薄らと膜が張っているのをみてしまった。まずい、やばい。泣かせたく、ない…! 一度ごくりと唾を呑みこめば思いの外大きく響いたが、これ以上もたもたして彼女を不安にさせるのも、甘えたままでいるのもだめだ。砕けたくはない、けど…オレだって、やるときはやる。信じてくれた獄寺くんのため、リボーンのため、ファミリーのため、何より彼女とオレ自身のために…ゆっくり口を開いた。 「君が本当に望んだことなら、オレは全て受け止める。この話をなかったことにするのも、君がスタッラーレに戻るのも。」 これはオレの本心であり、出来ることなら否定してほしいことでもある。彼女と過ごした数カ月は鮮やかな日々だった。オレ自身忘れていたほどで…世界はこんなにも気まぐれで、残酷で…それ以上にきれいなものだと思い出すことが出来た。オレの自己満でしかないだろうけど、それでも…オレ自身持て余してしまうほどの、どうしようもない感情に区切りをつけたくて彼女の言葉を、力を借りようと思った。この世界は不条理だ、と誰かが言っていた。正にその通りだと思う。本当に叶えたいものこそ掌から零れ落ちてしまうのは、随分と前に痛感させられていた。それなのに、彼女を前にしてしまうと"今度こそ"と思わせられる。 今ここで、オレの願望を押し通すつもりはない。自分の想いを押しこめることにはもう、慣れた。ずいぶんとこんな生活をしていたんだ。最初は違和感を覚えて、ときどき痛むかもしれない。でもそれもそのうち忘れる…きっと無かったことになる。いつもと同じ日々が戻ってくる。 これまで自分を押し殺してきたんだ、これ以上彼女が我慢する必要はないだろう。悪意、と言いきれてしまうオレは、随分と穿った思考をするようになったのかもしれない。それでも彼女から笑顔を奪った世界が憎いし、そうなる原因を作った人物だって許し難い。例えそれが血の繋がった父親だったとしても。生まれ落ちた場所がこんな殺伐とした世界でなければ、彼女と出逢うことはなかったかと思うと心底複雑ではある…が、今はそんなことどうでもいいんだ。 「だから最後に、もう一度…もう一度だけ君の気持ちを聞かせて?君の、本当の気持ち。」 オレが知りたいのは彼女の本当の気持ちだ。初めて彼女自身から告げられた言葉に嘘があったとは言わない。だけど、彼女の全てでもないだろう。全てを諦めることで自分を保ってきた彼女だからこそ、本人も気づいていない想いがあるような気がするんだ。確証なんてない。ただオレの中に流れる血が何かを訴えていることだけは紛れもない事実で…。強い焦燥感も、落ち着きなく生を刻む心臓も、全部彼女がオレに齎したもの。 「お父上のことも、スタッラーレのことも、マフィアのことも…オレのことだって、考えなくていい。君自身のことだけを考えてほしい。……名前の気持ちは、どこに在る?どうしたい?」 返事を待っている間も怖くて恐くて、仕方がないんだ。震えそうになる四肢や声を誤魔化すように、呆然と突っ立っている彼女を腕の中に閉じ込める。やっぱりオレはヒーローなんかにはなれない。こんな形でしか彼女の前に立てない。彼女を抱き締めるのは片手で数えるくらいだけど、オレ自身驚くほどに落ち着けるし、安心できる。…何より、こうやって触れていたいと思う。 願わくば彼女の笑顔があふれる未来でありますように、なんて心の中で呟いてみても、それ以上の鮮やかさで彼女と歩む未来を思い描いてしまうオレは、既にどうしようもないほどに手遅れだったと気付かされて、腕の中の温もりを逃すまいと小柄だけど女性らしくて柔らかな彼女の身体を拘束する腕に一層力を籠めた。 |