父親が視察にくる。そう告げた時の彼の慌てぶりにどうしたものかと考えてしまった。彼は知らない。わたしの父親が、彼が嫌う側の人間であることを。 別にこの世界じゃ珍しいタイプの人間ではないと思う。マフィアなんて、どれだけ手を汚しても金と権力、そして地位が欲しいだけの生き物であると信じて疑わなかったわたしにとって、異端なのはむしろ彼の方。マフィア界を全て支配出来る程大きなファミリーのトップが、こんなにも穏やかな人だなんて誰が思うだろう。 会わせたくなかった。わたしが彼といることで、わたしの父親と関わる事で、彼の何かが変わってしまったら……彼がそんな人じゃないのは分かっている。筋が一本通っているような人であることは重々分かっていても尚不安でたまらなくなるのはやっぱり彼が綺麗すぎるから。 彼の笑顔が、いつからかわたしのなかではとてもとても大切なものになっていたのだと、おもう。 酷く緊張した面持ちで当日を迎えた彼と、ぎこちなくも隣に並び父親を出迎える。相変わらずだと思った。何度か言葉を交わして、食事をともにする。あれ、父親と一緒に食事なんて、一体いつぶりだろう、もう記憶にほとんど残ってないな。懐かしいと思わせるのはきっと、父親の言葉や表情に垣間見えるわたしへの想いが昔からずっと変わらないからだ。 「娘とふたりで話がしたい」 一区切りついたところで口を開いたのは父親。見計らったかのようにリボーンさんがふらりと現れて、少し心配そうな瞳を揺らしてから去って行く彼の背中。 それでも、ここで出来る話じゃないだろうと、よく手入れされている中庭へ連れ出す。これから相手が言おうとしていることなんて分かり切っている。語られるのは自分のファミリーの存続の話だけ。別に悪い人じゃない。これが、この世界ではとても当たり前のことなのだ。 「お前が男だったらこんなに苦労しなくて済んだんだ」 そうね、その台詞ももう聞き飽きた。だからこうやって、貴方のお望み通りここにいるんじゃない。 「些かぎこちないようだが、本当に大丈夫か?とにかく、向こうの機嫌を損ねて破談になるようなことだけはするな。そのためならおまえのつまらぬ願望や期待など一切捨てること。忘れてはいないだろうが…おまえの存在意義は、我がファミリーの繁栄に貢献することだ。…いいな。」 わかってる。わかってたよ、もうずっと前から。こんな父親でも、わたしにとってはたったひとりの父親だから、小さい頃から疑う事なんてしなかった。諦めはもちろん多いにあったけれど、それでも、自分の中で悪者にはしたくなかった。これが当たり前だし、マフィアの世界の中では比較的大事に育てられた方だと思うのだ。売られるわけでも傷つけられるわけでも、まして抗争に巻き込まれることなんてなかったから、守られていたのだろう。それが例えこの日のためだったとしても、当時のわたしは一切の疑いを捨て、ただただ母親の腕の中で父親の背中を見つめていた。 大嫌いだ、と思ったことはなかった。仕方が無い、そうやって生きてきた。わたしだって、普通に笑って泣いて怒って、そうやってそれなりに青春を過ごして来たりもしたのだから。この日の、ために。 それなのに、やっぱりわたしはどうやら彼に随分と感化されてしまったらしい。初めて、父親が怖いと思った。わかっているふりをして、本当は見ないフリをしていた父親の瞳にはわたしなんて映ってなかったのだ。 彼の気遣いに触れて、彼のファミリーの暖かさに触れて、わたしはきっと……大切で、けれど気付かない方がよかったものに気付いてしまったのだと思う。娘だなんて思っていない。そんな風に言葉を並べても心の奥底で、本当は……そんな期待があったのも、恐らく事実。 切り捨てていたはずが、捨てられてなどいなかった。切り捨てられていたのはきっとわたしの方。僅かに無意識のうちに信じて縋っていたものさえもわたしはたった今失ったのだ。目の前が真っ暗になる。彼に、どんな顔で会えばいいのだろう。心配させてしまっているだろうか。探させてしまっているだろうか。もしかしたら、怒ってるかもしれない。 頭の中を彼の顔がちらついたとき、もう随分と耳に馴染んだ、それでも少し刺々しい彼の声。 「…こんなところに居たんだね、ずいぶん探したよ。急に居なくなるから…。」 貼り付けられた笑みは今までわたしが見た事ない程綺麗で、いつからいたんだろう、どこから聴いてたんだろうと焦るわたし。 「っ…ドン・ボンゴレ!こ、これは……!」 それ以上に取り乱す父親に、嫌気がさした。もういい、いっそ破談にしてくれたらいい。彼が幻滅して、この場で全て壊してくれたら……いや、これはきっとわたしが逃げているだけ。 隣に並んだ彼のあたたかい手がそっとわたしの背中を撫でる。そのまままるでわたしを庇うように立つ彼にほんの少しだけ、心臓が脈打つ。彼は今、どんな顔をしているのかな。 「ご心配には及びませんよ。さすがドン・スタッラーレの娘さんでいらっしゃいますね。非常に助かっています、僕たちファミリーも。ですから…これ以上彼女と僕の関係に、口を挟まないで頂きたい。幾ら彼女のお父上とあろうお方でも、ボンゴレの内情に関わることまで口出しされるほど、無粋な真似はなされませんよね?……あまり、横暴が過ぎると…オレたちも黙って見過ごすわけにはいかなくなるんで。」 初めて聴く、彼の酷く冷たい声。淡々と、それでも怒りを含んだ彼の声はするりと耳を通り抜けわたしの脳を突き刺すようだ。 「っ……わ、私はそんなつもり、など…!」 「大丈夫ですよ。あなたの仰りたいことも、解りますし…彼女に対する心配が行き過ぎただけですよね?僕は信じていますから。」 いくつか言葉を残して帰って行く父親の背中。わたしは、どうなってしまうのだろう。きっともう父親が此処へ来ることはない。下手したらもう会う事さえないかもしれない。今更どうしたというのか。ふっと呼び起こされた頭の中に映し出される記憶は、ただただ優しく笑ってわたしを抱き上げる父親の姿だけ。 諦めていた、なんて嘘だ。きっと父親の望むように生きていればいつか、わたしを見てくれると思っていた。父親の選んだ人と結婚すれば、笑ってくれると思っていた。褒めてなんてくれなくとも、ただ、少しくらい、父親によって作られたわたしのしあわせを喜んでくれると思っていた。 だから、我慢出来たのだ。引き戻され調律されていく価値観に違和感を感じ苦しさを感じていたのはきっと、それを正義としてしまったらわたしの今までがなくなってしまうから。 それでも、それが全て今父親に壊されてしまってはどうにもならないじゃない。笑うしかないのに、もうこれ以上彼に迷惑をかけてはいけないのに、そう思えば思う程苦しくなるのは何故だろう。身動きがとれない世界で、触れた彼のてのひら。 先ほどまで酷く冷たかった彼の空気はいくらか穏やかになり、日頃の彼を思わせるものへと変わっていく。わたしの手を握る手とは反対のそれが頭に触れる。怒ってないの?嫌な思いさせたでしょう、ごめんなさい、言いたい事はたくさんあるのに何一つ伝えられないわたしはただの臆病者。 どこへ向かっているのか分からない彼との関係をこれ以上近づけるのは怖かった。それなのに、一瞬見えた彼はとても哀しそうな表情を浮かべて、そしてそのままわたしを引き寄せる。まるで何かを祈るように繰り返しわたしの髪を撫でる彼が一体何を考えているかだなんてわたしには少しもわからなかったけれど、胸の内に生まれた暖かさはとても心地の良いものだった。 その夜。いつものように彼に呼び止められ部屋に呼ばれた。いつものようにデザートタイムだね、なんて言って笑う彼の表情は昼間見た姿とはまるで別物。だって、何か覚悟を決めたような、そんな顔をしているのだ。何か彼の中に渦巻いていたものが消化されたような、きっとわたしが呼ばれた本当の理由はそれについてだろうと思う。 何度か言葉を放つそぶりを見せては口をつぐむ彼にほんの少しだけ嫌な予感がした。そして、その予感は当たることとなる。 「ごめんね、疲れてるはずなのに…。あの、さ……オレ、今回の話を無かったことにしたいんだ。」 困ったような顔をして、控えめに紡がれたその声にわたしはただただ聞くことしか出来ない。だって、わかってたことなのに。彼が淹れてくれた紅茶の味なんてもう分からなかった。そうですか、その一言だけが精一杯で、顔も見れないままおやすみなさい、と呟いて彼の部屋を後にした。 毎日部屋まで送ってくれる彼は、今日は居ない。代わりに、部屋を出たところでわたしを待っていたのは獄寺さんだった。 「十代目の真意はオレには分からねえ。けどな、絶対なにか考えあってのことだ。あのお方は、無闇に人を傷つけるような人でもなけりゃ、見捨てるような人でもねえ」 彼と歩いた廊下を、獄寺さんと歩く。途中、口を開いた獄寺さんからわたしへ向けられる言葉はとても真っ直ぐで、彼への信頼と忠誠心そのもの。 友だちなんだと思う。ボスと、部下じゃなくて、もっともっと違う暖かいもので繋がっている。ここの人たちはみんなそうだけれど、特に彼と獄寺さんの間には他のファミリーの人とは違う何かがあると思う。ボスのフォローで来たわけじゃなくて、純粋に彼のことを想い、同じくらいわたしのことまで想ってくれる獄寺さんの言葉は驚く程に暖かかくてなんだか涙が出そうだ。 「そうかもしれない。けれど、ファミリーを守るためには必要な判断だったと思います。わたしのファミリーはきっと、」 有害でしかない。そう続くはずだったのに、それを遮る獄寺さんはどこか必死に見えた。 「だったらお前だってもうボンゴレの人間だろ。お前の親父がどういうヤツかなんて見りゃ分かる。今日のことで下した結論だろうが、お前を苦しめる為に出したもんじゃねえ。絶対だ」 出て行くとか言うなよ、きっと言葉が足りなかっただけだ。そのうち分かる。そう言って煙草を吹かす獄寺さんの瞳はやっぱり真っ直ぐで、去り際に頭に二回軽く触れたてのひらは彼ほどではないにしろとても暖かかくてわたしはまた泣いてしまいそうになる。 初めまして、薄っぺらい挨拶を交わした時の印象はただただ本当にこの人が?という思い。生活を始めて彼の張り付けたような笑みとは裏腹な優しさに酷く戸惑った。ファミリーの人たちからもらう気遣いにもとても戸惑った。外出に誘われてついていけば、幾度となく振り返っては笑ってくれて、一生懸命はぐれたわたしを探してくれた。 初めて誰かからもらったプレゼント。お礼ができればいいと甘い物が好きだと聞いてチーズケーキを作ったら予想以上に喜んでくれたし、それ以来少しずつ縮まった距離。 夢のような日々だった。きっと、本当はわたしなんかには無縁の世界だった。マフィアらしからぬ平和で穏やかな空気だけが流れるこのボンゴレで過ごせた時間はわたしにとってかけがえのないもので、一生忘れることのできないものであり、今後生きていく上で大きな支えになる。 失くしてしまうのが怖くて、どうしていいかわからなくて、しまいこんでいたネックレスに触れれば痛いくらいに締め付けられる胸。ああ、そうか。わたしはこんなにも……。 翌日、部屋を出たところで様子を見に来たらしい獄寺さんにばったり。何か察したのであろう、なんだか複雑そうな顔をして十代目なら部屋にいると教えてくれた。ありがとうございます、そう告げて一礼。 一晩で部屋の片付けは終わってしまった。元々持ち物も少なかったから。彼から与えられた生活用品はとても持ち出す気にはなれなかった。持って来たものと、それから彼への想いも一緒にトランクに詰め込んで廊下を転がす。 扉の前にトランクを置いて扉を叩けば、答える彼の声は少し疲れているように思えたけれどこの声もきっともう聴き納め。 どうしたの、こんな時間に。大きな瞳を揺らして首を傾げる彼に、深呼吸をひとつ。あんなに見る事が出来なかった彼の瞳を、ただただ真っ直ぐ見つめて言葉を紡ぐ。 「わたし、嬉しかったです。沢田さんだけじゃなくて、ファミリーの人たちみんながわたしをわたしとして見てくれて、たくさん気を遣ってくれて、優しくしてくれて、本当に嬉しかった」 最初で最後。わたしが、わたしのためだけに、今まで言えなかった事を伝えても許してくれるかな。 「こんなに楽しく過ごせたのは、きっと初めてです。誰かからプレゼントをもらったのも、誰かとお茶をしたのも、こんなにも嬉しい気持ちになれたのも、全部初めてで。わたし沢田さんに会えたから、生まれて初めてマフィアも悪くないかなって思えたし、動機は不純だったけれど、父親に少しだけ感謝もできた。出会えてよかった。だから……短い間でしたが、お世話になりました。ドン・ボンゴレ」 嘘も建前もない。ずっとずっと、思っていたこと。嬉しかった。楽しかった。しあわせだった。彼と出会えたこと。彼と過ごせたこと。全てがきらきらして、わたしの胸にあたたかなものが流れ込む。どうしたって伝えきれない感謝の想いが、少しでも伝わったらいい。 くだらない縁談。不本意な生活。それでも文句も言わずいつだって優しさでわたしに付き合ってくれた彼。わたしの父親に、付き合ってくれた彼。だれかの笑顔がこんなにも大切なものになるなんて、思っても見なかった。 「…これは、お返ししておきます。きっと、沢田さんが本当に大切な人に送るべきだと思うから」 帰ったら父親に殴られるかもしれない。家になんて入れてもらえないかもしれない。それでもいいと思った。彼には、彼にとって本当に大切な人としあわせを分け合ってほしいと思ったから。綺麗事じゃない、きっとそれだけ彼に感謝しているわたしがいる。だから、まるで彼のようなあたたかなオレンジの石はわたしが持っていてはいけない気がした。そして……持っていられるわけもなかった。あの嬉しい気持ちを思い出してしまうのはあまりにも、苦しい。 押し付けたネックレスは彼の指に引っかかり床に叩き付けられることはなく、何も言わない彼に頭を下げて、たくさん言葉を交わした彼の部屋にさようなら。扉を出てトランクを転がせば、昨日よりずっとずっと困った顔をした獄寺さんが何か言いたげに口を開いたけれど、わたしが笑えば彼はすっかり黙り込んでしまう。 一度未来に別れを告げてヒールで叩いた石畳にもういちど会う日がくるなんて。仰ぎ見た空はどこまでも澄んだ綺麗な青。嗚呼、今度こそ本当にさようなら、わたしの未来。彼の未来が、しあわせであふれますように。 |