突然告げられた予定に淹れたてのコーヒーを書類にぶちまけたのは記憶に新しい。また笑われるかも、と多大な羞恥と少しの期待を籠めて書類を手にする彼女へ視線を向けたが、同一人物かと見紛うほどにごっそり表情が抜け落ちていた。動かぬ表情から感情は読み取れないけど、微かに皺が寄った紙切れに、あまり歓迎すべきことではないのだけは解かった。 漸く、目に見えて縮まった彼女との距離。婚姻関係を結ぶことに関しては未だ納得していないからこそ、こうやって傍で過ごす一時が心地良いと感じることに戸惑いを覚えていた。けれど、徐々に僅かながらではあるが、軟化していく態度を見ていると到底拒絶することはできないし、オレ自身、この温かく柔らかな空間を抜け出したいとは思えない。 穏やかに過ごし始めていたのに…まるでオレたちの役割を忘れるな、と言わんばかりに浮上した視察という名の監視。正直、未だ腹を括れていない状況で、婚約者となっている彼女の父親に合うのは荷が重い。 不安と不満、少しの緊張を携えて迎えた当日。以前と変わらぬ笑みを張りつけ、滞りなく会食を終えたところまでは順調だった、はず……そうこのときまでは。 「娘とふたりで話がしたい」 その申し出に一瞬こめかみが疼いたが、家族同士だから積もる話もあるだろうし、ちょうどタイミング良くオレ様な家庭教師が呼びに来たこともあって、良い機会だと判断して了承した。 少し席を外す旨を伝え、椅子から立ち上がると突き刺さる視線。その先を辿っていけばどこか不安げな面持ちで此方を見つめる彼女と目が合い、声をかけるべきか迷ったが急かすようにオレを呼ぶヒットマン。今にも火を噴きそうなアイツの拳銃が視界の端にちらつけば、流石に彼女の父親の前で情けない姿を見せる訳にはいかないため慌ててその場を後にした。 「毎回厄介ごとを持ってくるよな、リボーンは……あれ?」 思いの外、時間がかかってしまい足早に部屋へ戻ったものの、既に空となったカップが二つだけ置かれているテーブル。怒らせてしまったか…!と一瞬背筋を冷たいものが流れたが、タイミング良く片付けに現れたであろうメイドから告げられた言伝。"天気がいいので散歩なさると仰っておりました"と。たしかに今日は雲一つない快晴だ。 窓を見上げつつソファへ腰を下ろして、安堵から嘆息を一つ。どっと疲れが押し寄せてくるような感覚へ陥るが、どこか落ち着かない。せっつくように痛むこめかみとそわそわとした落ち着きない感情に突き動かされるまま、今しがた座ったばかりのソファから立ち上がる。 あの場で待っていても良かったけど、彼女はあまりこの屋敷内をうろつかない。自ら出歩くことは殆どしないからこそ、毎日オレが足を運んでいるわけだし……迷子になっていないだろうか。僅かに目を出した不安は徐々に膨れあがって、オレは居ても経っても居られないまま彼女の姿を探すことにした。 それで、この場面だ。不甲斐ないやら、情けないやら…呆れるやら……いろんな感情がごちゃまぜになっているせいで、冷静な判断を下せそうにない。全身の血管が膨れるように血液が湧き立つ……この感覚は紛れもなく怒りだ。久しぶりに訪れた激情は、形振り構わず目の前の光景をぶち壊したくなるほどの強烈さで…なんとか抑え込もうと試みるが、その合間にも聞こえてくる冷たい刃たち。 「些かぎこちないようだが、本当に大丈夫か?とにかく、向こうの機嫌を損ねて破談になるようなことだけはするな。そのためならばお前のつまらぬ願望や期待などの一切を捨てること。忘れてはいないだろうが…お前の存在意義は、我がファミリーの繁栄に貢献することだ。…いいな。」 ずっと気になっていた。感情を切り離して機嫌を伺う、中身のない笑みを湛えた人形のような彼女。その元凶となる出来事、と言うべきか存在を目の当たりにした今、オレはこれ以上オレ自身を抑える術が見つけられなかった。幸い、オレの行動を止めるオレ様な家庭教師も忠実な右腕も傍にはいない。 「…こんなところに居たんだね、ずいぶん探したよ。急に居なくなるから…。」 「っ…ドン・ボンゴレ!こ、これは……!」 突然割って入った第三者の声に動揺したのか、将又、邪魔をした人物が"オレ"だったからか…一瞬にして驚愕の表情から血の気が抜けて青褪めていく様子は正に滑稽で、わざとらしく革靴の音を立ててゆったり歩み寄る。小さく今にも崩れてしまいそうな、華奢な背中へ手を添え男から彼女を庇うように立つ。 このまま声を上げて嗤いたいくらいだ。容易に感情を読み取れそうな仕草をする男に、貼り付けていた笑みが一層深くなる。本心を悟られぬよう、気色が悪いくらい綺麗に貼り付けて。 「ご心配には及びませんよ。さすがドン・スタッラーレの娘さんでいらっしゃいますね。非常に助かっています、僕たちファミリーも。ですから…これ以上彼女と僕の関係に、口を挟まないで頂きたい。幾ら彼女のお父上とあろうお方でも、ボンゴレの内情に関わることまで口出しされるほど、無粋な真似はなされませんよね?……あまり、横暴が過ぎると…オレたちも黙って見過ごすわけにはいかなくなるんで。」 「っ……わ、私はそんなつもり、など…!」 「大丈夫ですよ。あなたの仰りたいことも、解りますし…彼女に対する心配が行き過ぎただけですよね?僕は信じていますから。」 納得した、というよりはこれ以上この場にいるべきではないと判断したようだ。歯切れ悪く二、三言呟き去っていく男の姿を見送るものの、その視線はどうしてもきつくなってしまう。彼女にこんな姿を見られたら…怯えさせてしまうだろうか。いや、それ以前に幻滅されるだろうか。それでもオレは許せなかった。彼女をこんな風に追い詰めてしまった男が…。仮にも彼女の実の父親であるはずの存在なのに。 オレは恵まれて育ったんだと思う。今はこんな世界で生きているけど、後悔はしていない。血筋に散々振り回された過去もあるが…この地位に立つことも、両手を血で染めることも、大切な人たちを守ることも、全てオレ自身が決めたことだ。限りなく0に近いものだったろうけど…それでも本気で、それこそ死ぬ気で拒絶すればボスになることだって回避できたはず…。\世ならば、きっとその願いを叶えてくれていただろう。そうやってなんだかんだ甘やかされて、守られて、平穏に生きてきたんだ。オレは。 けれど、この子はどうだろうか。一番に彼女を守り、慈しみ、愛するはずの存在である実の父親が、権力と欲望にまみれた存在で…ずっとその悪意に晒されてきたとしたら…? 表情を失くし、自己主張を一切しない、果ては何もかもを諦め受け入れてきた。そう成らざるを得ない理由は考えるまでもない。人の顔色を伺い、視線をさ迷わせ、焦がれているものに手を伸ばすことすらしなくなった、がらんどうな彼女。 実の父親のことだから、あまり悪くは言いたくない…が、あの男は人として、父親として…あまりにも見過ごせない。それほどにボンゴレの名がほしいのだろうか…こんな欲望が渦巻いたお金と権力しか得られないものが。久しぶりに心底辟易した。釈然としない、感情。 俯き小さく震える彼女へ手を伸ばし、その細く小さな手をやんわりと包み込むように握って、空いているもう一方の手でそっと頭を撫でる。彼女にここまで触れたのは、あのとき以来かもしれない。 当たり前だけど、女の子だから柔らかくて、華奢で…力を籠めてしまえば今にも壊れそうなほど脆く感じる。彼女をひとりにするべきじゃなかったと今更後悔しても遅い。初めて出かけたときにも、散々誓ったはずなのに…もう彼女をひとりにはさせない、寂しい思いはさせないと。 この先、オレはどうするべきだろう。この結婚に乗り気ではないのはお互い周知の事実だ。オレが破談だ、と言えば彼女は結婚せずに済む……だけど、それで彼女は救われるのか。 "オレがしあわせにしてみせる" そんな台詞を吐けるほどオレが強ければ、円満に話が進んでいくのかもしれない。でも、オレ自身の感情を偽れるほど大人ではないし、彼女の気持ちを無碍にしてしまうのも嫌だ。彼女は…どう思っているのだろうか。そんなことすら、聞けないオレたちの間柄はやっぱり歪で、脆弱な硝子のようなものだと、このとき再認識した。オレはただ、彼女が屈託なく笑う顔が見たかっただけなのに。 このままじゃいけない。腕の中で必死に何かを堪えようとする姿があまりにも痛々しくて、オレの眉間まで深く皺を刻んでいるのが解かった。どうにかしたくて、でもオレじゃあどうにもできなくて…もどかしさと歯痒さを握り締めた拳の中に押し込めて、その小さくて華奢な身体を抱き寄せた。大丈夫、何も心配はいらない…そう伝えたくて、ただただ震えが収まるの願いながら、指から零れ落ちる手触りの良い髪を梳くように何度も撫で続けた。 あのあと、オレを探しに来た獄寺くんによって、腕の中に収まっていた温もりは一瞬にして消えてしまったけど…微かに指先へ残る感触が、あの出来事は現実だと知らしめてくる。これからオレがしようとしていることは、誰にも相談していない。 あのオレ様な家庭教師にも、だ。知られてしまえば即刻頭に風穴が空くだろう。ボスであろうと容赦しないのが、アイツの良いところでもある。それでも横暴なヒットマンからの説教より、彼女が消えてしまうことの方が何倍も、怖い。 大袈裟なのかもしれないけど、やっと感情伴った表情を見せてくれるようになったんだ。初めて彼女の笑った顔を見たのは、いつもの如く家庭教師からの小言を聞いているときだったと思う。小さいものだったが口元は緩やかに弧を描いていて、アルトの声が奏でる響きは程良く耳に馴染む。控えめなそれに、柄にもなく鼓動が大きく脈打った。 眉尻を下げた困ったような笑顔でも、眉根を寄せた怪訝な表情でもなく、柔らかな笑顔。ずっと恋焦がれていた、というと語弊を招きそうだけど…それでも、見たいと密かに願っていた彼女の笑みを視界に収めた瞬間は、今でも鮮明に思い出せる。胸の奥がほんのり温かくなって、少しだけ苦しくなった。 京子ちゃんの太陽のような笑顔でも、ハルのような天真爛漫な笑顔でも、クロームのような艶めいた笑顔でもなかったけど、なぜかオレはすごく安心したんだ。そんな彼女の笑顔を守りたい、なんていつかの"オレ"が抱いていた感情をもう一度抱くことになるとは思わなかった。 いや、厳密に言えば…あのときよりももっと鮮烈な感情だ。オレ自身、これがなんなのか知らない…いや、知ってしまっては取り返しのつかないことになりそうで…深く考えることはしないけど。 夕食を終えて、彼女へ声をかけたときには、普段通り…とまではいかないけど、それでも貼り付けたものじゃない困惑交じりの笑みで小さく頷いてくれた彼女に安堵して、そのまま日課になりつつある自室へ招待した。食後のデザートと称したアイスと紅茶を用意する。 昼間のことがあったせいか、幾分ぎこちなく気まずそうに俯いて身を縮こまらせる彼女へ追い打ちをかけるような言葉を吐くのは、正直心苦しい。 オレのせいで彼女が悲しむ姿をみることになるんだ。けれど、いつまでも目を背ける訳にはいかない。甘えてばかりでは、いられないんだ。今の彼女に何が必要か、なんて女心を推し量ることができないオレには解からないけど…この選択が彼女にとって、プラスになるように…あの時見た、控えめだけど柔らかくて温かい笑顔がもう一度見られるように…。オレは腹を括ることに決めた。 「ごめんね、疲れてるはずなのに…。あの、さ……オレ、今回の話を無かったことにしたいんだ。」 |