「ありがとう、ございます」 それはとても小さな声だったけど、オレの聴覚はしっかりと拾いあげていた。愚痴を零されたりダメ出しされたりすることは有っても、まさか、彼女自らお礼を口にするとは思っていなかったから、正直何を言われたのか理解するまでに数秒要した。いや、もしかすると数分だったかもしれない。 偶然通り掛かった、と最もらしい事を言って登場したオレ様な家庭教師によって足蹴にされるまで、だらしなく口を開けて呆然と突っ立っていた。彼女との距離を示すように遮る扉へそっと指先を這わせれば当然の如く、木製独特の温かみあるひんやりとした感覚が伝わってくるだけだ。 数刻前に初めて彼女から触れてきた、袖口へ視線を落としてみると…ほんの少しだけ縒れていた。彼女が触れた、証…夢じゃない。 理解した途端、どうにも居た堪れない気持ちでいっぱいになり、騒がしく鳴り響く鼓動を沈めるように胸元のシャツをぐしゃりと握り、足早にその場を去るだけで精一杯だった。 あの日を境に、彼女との距離は少しだけ…ほんの少しだけ、縮んだように感じる。目に見えた劇的な変化はないし、どこがどうなのか、と説明を求められても口にはできないけど…オレの勘、なんて一言で片づけたらだめだろうか。 それでもやっぱり政略結婚、というものに対しては到底前向きになれないし、できるものなら破棄したい気持ちは変わらない。せっかくなら、彼女とは別の形で出逢いたかった…好感を持てる人柄だけに、そのことが悔やまれてならない。 だけど…今は少しだけ、こう思うこともある。彼女となら…この婚姻関係も、うまく乗り切れるかもしれないと。 不本意ながらもオレがボスになると決意してから知り合った女性はお世辞にも好意を抱けるような人はいなかった。いや、みんな容姿は端麗だし育ちも良かったし、マフィアであることを理解している人ばかりだったから、オレには勿体ないくらいの人選だったと思う。それでもオレからすると、敬遠しがちなタイプの人たちばかりで…何より、これ以上マフィアという組織や柵に縛られたくないというのが本音かもしれない。せめて、好きな人…想い人くらいはオレの自由にさせてほしいと。 そんな女性たちとは当て嵌まらない彼女の傍は思いの外、居心地が良い。決して多くを語るわけではないし、構えた姿勢が軟化することは今のところないけれど…変に気合いを入れて捲し立てられたり、過干渉されたりするよりはよっぽど好感が持てる。 オレだって話すのが苦手だし、流行りだって疎いし、女性の扱いはからっきし……って、あれ?これって、男としてダメダメなんじゃ…!とにかく、彼女とすごく時間は嫌いじゃなかった。 「喜んでくれるといいけど……ん?」 オレの直感任せにプレゼントしたネックレスはあの日以降一度も目にしていない。やっぱり女の子が気に入るものを選ぶセンスはオレにはないらしい…解かっていたことだけど、思いの外ショックを受けていることにオレ自身が驚いている。止せばいいと思う反面、今度こそ、とも思う。 手の中に溢れんばかりの色彩で賑わう花束を見つめて自然と頬が緩んだのも束の間、遠目に見える見慣れた右腕と、渦中の彼女の姿。 (珍しい…彼女と獄寺くんが一緒にいるなんて。) いや、獄寺くんなりに彼女を気遣っているのは、言動からなんとくなく感じとっていたけど、こうして目にするのは初めてだ。 (あんな場所で何してるんだ…?) ここからじゃ、獄寺くんの表情しか見えないから彼女がどんな顔で、どんな言葉を紡いでいるかは解からない…けれど、明らかに獄寺くんの周りを取り巻く空気はいつもより柔らかい気がして、何よりあんな風に目に見えて解かりやすいほど誰かを気遣って接している姿を見るのは初めてと言っていいほどだ。 なんとなく…ふたりの姿を視界に映すのが嫌で、オレは見ない振りを決め込むと踵を返した。 「なんだ?ずいぶん湿気た面だな。…オメーがそんな面でいると余計ジメッとしてくるじゃねーか、うっとしい。」 「……うるさいよ、リボーン。だいたい、全部おまえのせいだろ!」 「自分の至らなさを棚に上げて人に八つ当たりすんじゃねー。…ったく、これだからダメツナって言われんだろーが……。」 「今のオレをそんな風に呼ぶのはおまえくらいだよ……まあ、図星なだけに反論できないけどな」 「……オメーが凹んでも碌なことになんねーってまだ気づかねーのか。おまえはどうやったってヒーローにはなれねーんだ。ダメならダメなりに死ぬ気でもがいてみやがれ。」 行き場を失くしたせいか、さっきまでは色とりどりに賑わっていた花束がその華やかな元気さを失くして萎んでいるように見える。その姿が今のオレ自身を露わしている気がして、ますますいたたまれ無さを感じてしまう。 ちょっとの罪悪感と消化できない不満を消すように、普段はできる限り向き合うことを回避する書類へと視線を落とす…が、当然の如く文字の羅列を目で追っても頭に入る訳もなく、早々に万年筆を放りなげ軽く瞼を伏せて組んだ手に額を押しあてる。吐き出した溜め息は、いつも書類に追われているときに零れ落ちるものよりもずいぶん重たく聞こえる。 だいたい、どうしてオレはこんなに凹んでいるんだ?アイツの言う通り、オレがこんな状態で居ても何も解決はしない。そもそも腹を括ることは腐るほどあっても、解決しなければいけないことなんてないはずだ。 わからない…なんだろう、この感覚。腹の奥でぐるぐると廻る不快感。目を瞑る度に浮かぶのは、一瞬だけ見えた、彼女が微かに浮かべた柔らかな笑みだ。 彼女のこと、きらいじゃないのに…いや、そう思い込んでるだけ、か…?オレのことなのに、こんなにも解からないのは初めてだ。いや、今までだってそうだったかもしれない…けど、オレのことでここまで悩むことはなかった。厳密に言えば悩む暇が無かったとも言えるし、その必要がなかったとも言うのもある。 そんなことをうだうだ考えていたからか、不意に耳を刺激した第三者の声に思わず素っ頓狂な声を上げて反射的に立ち上がったせいで、思いっきり膝をデスクにぶつけたのは見なかったことにしてほしい。 「っ……ど、どうしたの?…あ、何かあった?」 予想外の訪問者に驚愕したのも一瞬で、目線を合わせるように覗き込むと逸らされる視線に収まっていたはずの不快感が、再びせり上がってくる。 (…獄寺くんとは、あんな楽しそうに笑ってたくせに。なんだよ、そんなにオレが嫌いならはっきり言ってくれればいいんだ) 今にも口をついて出そうになる愚痴を何とか呑み込み、最早癖になりつつある笑みを貼り付けて声をかければ一瞬顰められた形の良い柳眉。 「……あ、の…これ…。」 言葉少なに差し出された手元へ視線を落とせば、パステルブルーの小箱が収まっていた。彼女の様子から察するにオレへ渡すものだと解かるが、意図が全く分からなくて自ずと眉根を寄せて凝視してしまったせいか、丁寧に言葉を付け足してくれたことで漸く理解する。どうやら、昨日のネックレスのお礼、らしい…。 予期していなかったことだけに、どんな顔をして受け取ればいいか解からず、暫し硬直していると痺れを切らしたように少々強引な仕草でオレの胸元へ押し付けられる小箱。ぐしゃりと嫌な音が聞こえたところで我へ返り、変形してしまう前に慌てて受け取る。両手でそっと包みこむように。 昨日のプレゼントは彼女なりに喜んでくれていたのだろうか…。あれは、見失ってひとりにさせてしまった彼女へのお詫びに近いのだから、気にしなくていいのに…と言ってしまえば彼女だって気に病まなくて済んだかもしれない。 オレの両手に収まる小箱から微かに香る甘い匂いに、中身が気になると同時に今日は何も口にしていなかったため空腹を訴える胃により、思わずごくりと喉が鳴った。 ちらりと彼女へ視線を向ければ、いつもはやんわりと浮かべられている微笑みが不安げに歪み、忙しなく目線がさ迷っている…珍しい姿に瞠目したのも一瞬で、ある一つの考えにいきつくが、まさか、そんな…オレの都合の良い解釈でしかない。これは彼女の手作りだ、なんて…。 「開けて、いい?」 急く気持ちからお礼も儘ならないうちに口から飛び出した言葉に、どこか緊張した面持ちで微かに頷く彼女を視界に捉え、破いてしまわないようゆっくりリボンを解いていく。箱の中には収まっていたのは、ほんのり甘酸っぱい香りと真っ白なケーキ。 見る前から薄々気づいていたけど…彼女の手作りのようだ。作りたてなのか指先が僅かに温かい。努力と想いの籠ったものを易々と押し返すほどの図太さは持ち合わせていないし、何より彼女の意志でオレに渡されたモノだ。誰にも譲るつもりはない。 いただきます、気付いたらそんな言葉と共にそのまま豪快にケーキへ被りついたていた。咥内に広がるレモンの酸味と舌触りの良いなめらかで濃厚なチーズの味わい……チーズケーキだ。オレの好みを知っていたのだろうか…いや、たまたま当たったのかもしれない。とにかく、無言で完食してしまうほどにはおいしかった。というより、オレの口に合った。 ボンゴレお抱えのシェフが作るモノだって文句なくおいしいし、母さんが作るモノも温かみが合ってすきだ。でも、今口にしたケーキはどこか懐かしくて、ほんのり残る甘酸っぱさがやみつきになる。 「……すごくおいしかった。器用なんだね」 食べ終えた頃には数刻前まで散々ムカつきを訴えていた胸も、腹の奥から渦巻く不快感も一切感じなくなっていた。それどころか、仄かに胸の奥が温かくなるような充足感に満たされていた。 あまり表情の変化は大きくないものの、僅かに眉尻を下げてはらはらとした面持ちでオレを見上げる彼女に表情は緩んで、自然とオレより頭一つ分以上小さな彼女の形良い頭をそっと撫でる。今日一日でずいぶんいろいろな表情を見た気がする…。 彼女は決して表情がないわけではない…ただ、その必要性をあまり感じなかったのかもしれない。そんな風に思うと、胸の奥がきりきり悲鳴を上げているような錯覚へ陥る。 「また、今度作ってくれる?次は…一緒に食べよう?ひとりより、ふたりで食べた方が、もっとおいしいだろうから。」 どうすれば女の子が喜んでくれるか、なんてわからないけど…ちょっとずつ彼女のいろいろな表情を見れるよう、傍に居たいと思った。こんな風にオレが主張することで、彼女を孤独や苦痛を強めてしまうかもしれないけれど…それでもひとりよりはふたりの方が、寂しくないだろう。 俯いてしまった彼女からの返答はないけれど、こうして小さな頭を撫でる手を拒絶されない、ということは良いように解釈しても罰は当たらないはずだ。 不意に視界の端へ入った、デスクに置かれている花束たちも日光を浴びたせいか、さっきよりも元気さを取り戻したように見えた。 (「……いつまでいちゃついてんだ、ダメツナが。そのだらしのねー顔をボコボコにされたくなかったら、さっさと終わらせろ」) (「あ…。(すっかり忘れてた、リボーン居たんだった!)」) |