dream | ナノ


ごめん、そう繰り返す彼の瞳は今にも溢れんばかりの涙でいっぱいだった。眉間に寄った皺。歪められた表情は涙を流さずとも泣いているように見える。
自信なさげに言葉を紡ぎながら贈られたネックレス。ほんの少し後ろで手間取っているように感じて、慣れてないことを知った。



そして、この一瞬のうちに彼の纏う雰囲気が今までとは変わったような気がする。わたしを拒絶していたことも、今日一日探り探りだったことも、全部嘘だったんじゃないかと思う程に……するりと人の懐に入ってしまいそうな、誰をも懐にいれてしまいそうな、そんな雰囲気にわたしの心の中に溢れていた何故?の疑問が少し解消された。


こういうことか、と思った。


彼の本質はきっとこれだ。以前、彼の右腕さんが言っていた一言を思い出す。「あのお方は、敵も味方も、全てを包み込んでしまう大空のような方だ」、と。そのときはわたしはただただボス信者なだけだろうと思っていた。実際、父親を慕う部下にもいるのだ、盲目のような人間が。だけど彼のファミリーは違う。わたしが感じていた違和感の正体はきっとこれで、自分のファミリーが当たり前だと思っていた事がそもそもの間違いだったのかもしれない。



……否、彼のファミリーが特殊な気もする。きっと、彼は本当に大空のような人で、ファミリーは組織ではなく本当に家族のような関係にあって、皆が彼を心から慕い、信頼し、彼もまた自分のファミリーを信頼している。ボスの威厳ではないのだ、彼の人柄でファミリーを纏めている。


これは気のせいでも憶測でもなんでもなく、わたしの中に生まれた一つの確信。何かがすとん、と心の中で落ちたような気がする。



だからだろうか。彼から贈られたネックレスにそっと触れるだけでわたしの心が解けだす。どれくらいぶりだろう、心の底からうれしい、と思えた。誰かと出掛けることも、誰かから贈り物をされることも、まるで無かったわたしにとってはひとつの夢が叶ってしまったかのようで、こんなにも真っ直ぐな彼のことを疑ったことに罪悪感を覚える。



だけど、それと同時に顔を出すのは少しの恐怖。彼の真意がわかったわけではない。一定の距離で上手くやればいい、それなのにわたしは既に彼のことが知りたいとさえ思っている。言葉を重ねたら彼の世界が見えるかもしれない。けれど、そこで本当に、拒絶されるのは酷く怖いのだ。あの時の瞳をわたしは忘れられない。
政略結婚でしかないことを、忘れてはならない。たとえ一時でも彼と笑い合えたとしても、それはきっと、あっという間に壊れることになる。彼の瞳に、わたしはいない。わたしの瞳に、彼を映してはいけない。情がうまれてしまったら、後戻り出来なくなる。



繋がれた手。わたしの手を包み込んでしまうそのてのひらは相変わらず冷えていて、いろんな事を想いながらも、彼に涙は似合わないだなんてくだらないことで胸が締め付けられて、ほんの少しだけ、そっと、彼の手を握り返す。


ありがとう、声にならなかった言葉が彼に伝わる事はない。少しばかりぎこちなくケーキを買って、帰路につく頃には彼の表情も雰囲気も、来た時のようなものへと戻っていた。
そう、思ったのに。何故かわたしは今、彼の部屋へ呼び出されてソファに座っているし、目の前には当然彼が座っている。わたしと彼の間にある小さなテーブルには買って来たケーキと、紅茶。




夜ご飯を終え、部屋に戻って少ししてからドアがそっとノックされた。開いたドアの先には微笑む彼。ケーキ、食べない?そう首を傾げた彼になんだかうっかりついてきてしまったわたしは、何とも不思議な事に彼とふたりでデザートタイム。
甘いものが好きだと言う彼は本当に嬉しそうな顔をしてケーキを食べ進めるから、なんだか調子が狂ってしまう。もちろん美味しいという事実に変わりはないのだけれど、こんなことでいいのだろうか。



平和過ぎる時間の流れ。合間に紡がれる彼の声。大した話をしたわけじゃない。勿論、さっきはごめんね、と眉を下げて謝られたりはしたけれど、わたしが勝手に迷子になっただけで、とか、ごめんなさい、とか、自分でも緊張してよくわからないままに思ったことをそのまま口に出せば彼は安心したように一息ついて、笑う。


「長居させちゃったな…ごめんね。部屋まで送るよ」


そう言って立ち上がった彼に慌ててついていく。大丈夫です、そう伝えても彼は微笑んだまま送らせて?と言うから、なんだかやっぱり相当気にさせてしまっているのだろうかと焦る。
探してくれた、この際そこにどんな感情が交じっていても構わない。ただ、探して、見つけて、連れて帰って来てくれたことにわたしは酷く安心しているのだ。この関係に納得出来ているわけではない。彼と関係を深めようだなんて思ってもいない。ただただ穏やかに何事も無く与えられた環境で生きていかなければ、そう言い聞かせる。



だけど、彼がこんなにも真っ直ぐだから……少しだけ感化されたのかもしれない。



「今日はありがとう。おやすみ」



部屋の扉の前でまたひとつ微笑んで、背を向ける彼。わたしもきちんと伝えなければと慌てて彼の袖を掴んで引き止める。振り向いた彼の瞳は見開かれ驚きを隠しもしない。こんなにも解りやすい人だっただろうか。



「あの、」



これ、そう言って自分の胸元に小さく光るオレンジの石に触れる。ぴくり、彼が反応した気がした。心無しか表情も少しだけ強ばったように見える。まずかったかもしれない、それでも、伝えたかった。



「ありがとう、ございます」



自分の意志で彼に言葉を紡ぐのは初めてに近い。緊張とか、恐怖とか、もういろんなものでいっぱいいっぱいで、やっと出た声は震えていた。彼に伝わった、それだけを確認しておやすみなさいと彼の顔も見れず部屋に入る。少しだけ勢い余って強く閉めてしまった扉に凭れてしゃがむ。
必死に作っている壁が、すぐにでも壊れてしまいそうで怖くてたまらないというのに、壊れてしまえばいいのにと思う自分もいることにわたしはやっぱり戸惑いっぱなしなのだ。



あれから、失くしてしまうことが怖くて小物入れにしまわれたネックレス。小さい頃から少しずつ自分のファミリーの目を盗んでは買い集めた大切なたからもののようなアクセサリーの中できらきらと光るオレンジ。あたたかな色が、まるで彼みたいだなんてやっぱり少し調子が狂っているのかもしれない。




外からみたらわからない程度だけれど、あの一件から彼と過ごす時間が増えた。いつも通り寝る前に彼がわたしを訪ねては様子を伺うことに変わりはない。相変わらず、大丈夫?足りないものはない?そんな言葉を並べる。
けれど、たまに彼が一言今日はこんなことがあってね、と話をするようになった。時にはお土産と言ってクッキーを残して行ったり、プリンを置いて行ったり、それも誰もが聞いた事あるような有名なお店のものである時もあれば、これまた誰もが聞いたことあるようなスーパーで売っているようなもののときもある。



甘い物が好き、その一言は本当のことなんだろうと思う程に彼が置いて行くお菓子たちは美味しくて、そうしている間に彼とわたしの距離は少しだけ、一歩にも満たない程度だけれど近づいたように感じる。
今の環境を生きる道だと諦め受け入れているわたしと違い、彼はきっと彼の意思で生きている。この関係に納得する事もなければ受け入れることもないのかもしれない。その事実に変化は無い。



けれど、以前のような息苦しさは存在しなくなった。わたしの中に生まれたこの想いの名前はわからない。以前よりもずっとずっと苦しくなることもある。けれど、寝る前の彼との小さな会話がわたしは心地よくて、戸惑いは減っていく。



どうしてだろう。張り付けた笑みと、社交辞令。それだけで生きていこうと思っていた。わたしが信じて疑わなかったわたしの生きる道が、今、少しだけ、霞んで見えている。


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