もちろん、ムッちゃんは素直に俺の腕の中にはいなかった。シーツの上には温もりの欠片もなく、重い体を引きずってリビングに向かうと、すっかり身支度を整えたムッちゃんが、力むことなく携帯を窓に向かって構えていた。
 ぱしゃり、と。命を封じ込める音がする。
 その横顔は、俺が決して手に入れることが出来なかったものだった。星を、月を、宇宙を見る時だけ、見るもの全てを溶かしつくすような、熱い眼差しを向ける。NASAにいるときのムッちゃんは、ずっと、こんな顔だった。多分、それに惹かれたのは俺だけじゃないだろう。増え続ける銀河のように輪を作り、いろんな人に愛されていた。
 こんな時、俺はムッちゃんに声をかけることすら躊躇する。俺を見る目はいつだって何かと戦っているように、怯えたように、震えていた。
 宇宙のような深い瞳の中は俺を写すために、出来てなんかいなかった。
「おはよ」
「おお、はよ」
 ムッちゃんは少し、ホッとしたように携帯をポケットに片付けた。わかる気がする。真っ白なものを見たあとは、色や熱のあるものが欲しくなる。家具も食器も。人の温もりでもいい。
 一人分だけ置かれた、手作りのサンドイッチを口に突っ込む間、ムッちゃんはずっと俺の前に座っているだけだった。ぽろぽろとパン屑が皿から零れていくのに、小言もない。
「なあ、ムッちゃんの分は」
「食べたよ」
 だったらどうして、流し台には皿一つ置いてないのだろう。冷めたサンドイッチに挟まれた具はは、赤とか緑とか、色でしか覚えられなかった。
 俺が最後の一口を含むと、荷物纏めてくる、とムッちゃんが腰を上げる。隣の寝室に置かれた、シルバーのキャリーを一度開けて、二分もしない内に鍵を閉める音がした。時間稼ぎでもしているのか、寝室からすぐに出てこない。テレビも着いていないから、些細な身動きでさえ捕まえられる。
 それでも刻一刻と針は進み、彼の言う出発時刻が気配なく忍び寄り、十分、数えた頃だろうか、ムッちゃんは上まできちんとボタンを閉めたあのコートを羽織り「行こう」と白い顔で微笑んだ。
「う、わ……前がよく見えねえ」
 外は猛烈に吹雪いていた。多分今なら何が出て来たって驚かない。魔法だ、と言われても信じてしまえる。それぐらいに、静かで色の無い世界だ。カチカチの星の塊が皮膚を刺す。ムッちゃんは時々立ち止まって、人の歩いた通りの道を確認しながら前に進む。俺はキャリーがつまづかないよう、ローバーよりも遥かに細い轍を見守った。
「これ飛行機出発すんの」
「知らねぇよ」
「嘘だろ、空港まで行って、飛んでません、なんてシャレになんねーって。正気かよ」
 駄目だったらその時だ、なんて言いながら歩くのは止めない。
 気付けばムッちゃんの黒のコートも頭も星屑だらけだった。サイズが合わなかったせいで吹き飛ばされそうになったウシャンカは、雑巾みたいにムッちゃんの手に握り締められている。 手袋のない爪は血液を知らなくて、血管の機能も追いつかないほど、色を失った手はかたかたと震えていた。
「熱は、体、平気なの」
「今日帰るのに、こんなとこで倒れてられねーだろ」
「いいよ、倒れたら俺が持って帰る」
「馬鹿言うな」
「言ってねぇよ。気が狂ってんのはムッちゃんだ。こんな日に何処に行くつもりだよ」
「何処って、停留所に」
「ムッちゃん。逃げんなよ。何処に行くの」
 手を捕まえる。細い腕だった。昔はもっと肉付きも皮膚の張りもよかった。それでもトレーニングさえ続ければ老いはいくらでも待ってくれたのに、彼の腕はそうじゃなかった。
 降り続く冬の使いのせいで、視野を一メートル先でさえ保てないはずが、振り返った黒い二つの点に動揺の色が灯ったことだけは、見落とさなかった。
「チケット、今日の分じゃないだろ。見たんだ。なあ、何処に行くんだよ?」
 不安気に当たりを見回すムッちゃんに腹が立つ。転けたキャリーに一瞥もくれず、強引に路地裏に連れ込んで、口を塞いだ。ねじ伏せるように絡めた舌は温く、口を離す度にのぼせた吐息が、恥ずかしげもなく空に上る。石壁と体で閉じ込めたのに、常識を自で行く男からの抵抗はなかった。何度も唇に吸い付き、肉を噛み、舌を無理矢理絡めても全てを諦めたかのように、無抵抗だった。
 枕を手放したことも、舐めたいと言ったことも、受け入れてくれたのだって、全部、そういうことだ。
「ムッちゃん、俺はずっと待ってたんだ、今までも、これからだって。ここまで来たら何年だって待てる。ムッちゃんが来るためなら、何でもやるよ。ムッちゃんが諦めない限り、可能性だって残ってる」
 かさついた唇を触れ合ったまま、俺の声はムッちゃんの喉にごくり、と飲み込まれた。
 ムッちゃんの痩けた頬が、今日初めて赤く染まっていた。多分、俺もそんな顔だ。欲と理性の狭間で、どっちに傾けばいいか整理も出来ずにぐちゃぐちゃで、でも寒くて、赤い顔をしている。
 ムッちゃんの荷物は極端に少なかった。それこそ本当に帰らないつもりなのか、二泊の荷物にすら満たない僅かな着替えがあるだけだ。ろくな防寒具すらない姿でやってきたムッちゃんの復路便のチケットは、今日なんかじゃない、三日後だった。
『ムッタは、選ばれなかったんだ』
 NASAに直接問い合わせたところで、明確な答えを貰えないのは端からわかっていた。リークとも疑われかねないのに、必死な声で頼む、と請う俺のために、ローリーはぽつりぽつり、と電話の向こうから絶えず鼻水を啜る音がする。
『運がなかったんだ。ムッタの後に入ってきたやつが、有名なドイツの車会社で開発担当だったらしくて、ローバーの更なる改良案を出してきたんだ。若さ故の、斬新な発想だった、ってムッタは言うよ。今回は、ローバーの老朽化対策もミッションに含まれてたから。気付いたときには、もう決まってたんだ。みんな、J兄弟の無念を晴らしてやりたい、って。うん、ヒビトとムッタを知ってる人達は、みんな、そう思ってたよ。だって、二人にとってこれがラストチャンスだったのに』
 キスをして、舐めて、噛んで、ふ、と笑ったムッちゃんは、犬かよ、と目を細めた。
「……犬は、こんなことしねーよ」
「ああ、そうだな。だから、日々人、お前は犬みてーに賢く待ってなくてもいいんだ」
 ムッちゃんの頬に大きな結晶が落ちる。溶けては、彼の涙になる。勝手に寒さのせいだと決めつけて、ムッちゃんの体を弄るように抱き寄せたのに、カイロの代わりにもなりはしない。
「見られたら捕まるだろ、やめろ日々人」
「いいよ、捕まればいい」
「やめろよ……こんなおっさんと一緒に捕まるお前なんか、見たくねぇ」
「だったらほら、早く逃げろよ」
 わざと緩めた腕から、ムッちゃんは逃げなかった。雪のせいか、それとも白髪が増えたせいか、オセロみたいになった黒髪に顔を寄せたら、昨晩もその前も俺と同じシャンプーを使ったせいだろう、胸が詰まる。俺が好きだから、ムッちゃんは文句も言わず同じシャンプーを使っていた。ただ、そんなことが幸せだった。
「なあ。もう、お前と行けないんだ。タイムリミットだ、日々人。俺はこんなにも歳をくっちまった。次なんてない。俺を待ってるのは引退だよ」
 俺達を匿うようにそびえ立つ石壁は何処までも薄暗く牢獄のようで、それでも雪は遮れない。鎖もないのにどんどんと熱を奪い取られていくムッちゃんの体はいくら強く抱き締めても、一向に暖かくならない。
 もう何日もモスクワの雪は止んでいなかった。二人で見る最後の雪だ、と言わんばかりに、天からの冷ややかな贈り物は幸せをくれる訳でもなく、俺たち二人を転がり落ちた先のマイナス世界に閉じ込めていく。
『ムッタ、最近体調悪そうにしてる。みんな気を遣うけど、それでもムッタは大丈夫、って言うよ。署名活動も必死に、一番に頑張ってたのに。嘘みたいにふらふらしてるよ、ヒビト、ムッタは本当に大丈夫かな?』
 堪えきれずに、ローリーは泣いた。大丈夫だろ、ローリー、ムッちゃんはそんなヤワじゃないよ、って慰めるために返した声はきっと泣いていることがバレバレだった。
 ムッちゃんは「大丈夫」って言いながら、身体は嘘みたいに、金属のように熱を急速に失っていく。俺の熱なら全て差し出してもいいのに、頼ることをしない。朝起きるともぬけの殻になった腕の中も、ハグを嫌がる仕草も、まともに手を繋ぐことさえも、許さない。
「ムッちゃん……何でだよ、俺と約束、しただろ。つき、目指すんじゃねーのかよ、ずっとまってるのは俺だけなのかよ」
 気の利いた言葉一つかけられず、気付けばロシアに身を据えたまま、ひたすら前を向いて走り続けた数十年だった。いつかムッちゃんが隣に並ぶ日のことだけを考えて、言葉を探すことさえ忘れていたのだと思う。
 足りない、って言われ続けたのに、ムッちゃんにとっての俺は、やっぱり足りない男のままだったんだろう。俺の知らないものを背負いきれないぐらい背負って、久しぶりに目の前に表れたムッちゃんは、こんなにも小さく、細く、腕の中に収まっている。
 日々人。風の音に負けそうな声で、俺の名前を呼ぶ。緩めた腕から、やがて顔を上げたムッちゃんの目は俺を見てはいなかった。黒いはずの目の中は、真っ白だった。星を見ずにはいられない、宇宙に囚われた人の目だった。
 睫毛に乗っかった雫が小さく震えている。
「……俺は、お前のところには帰らないって決めたんだ。お前は帰る場所じゃない。俺はお前の隣に辿り着きたかったんだ。お前の隣で見たかったよ、月も星も、一緒に。
 でもここも、ほら。星がたくさん、降ってくる。月にいるみてぇに。なあ、日々人。綺麗だな。俺はこの綺麗な場所で、お前の手の届かない場所で、お前が月に行くのを見届けるのも、悪くない、って思ってるよ」
 それでも俺のこと、好きだ、なんてふざけたこと言えるのか。
 とても静かに。瞼を閉じた瞬間、溜めた雫が頬の上を滑っていった。泣いてるくせに笑うなんて器用だな、とこんな状況で思う俺の頭の回線は、あべこべに繋がってしまったのかもしれない。
 器用なくせに、不器用すぎて、好きだった。
 この人は、残り三日で何処に行こうっていうんだろう。三日もあれば月にだって行ける。ここに星は降るけれど、綺麗だってムッちゃんは言うけれど、本物じゃない。三回唱えたところで、人の願いなんか叶えてくれないんだ。
 ほら、ムッちゃんは生きてるよ。ムッちゃんの冷たい熱でも、まだ、たくさんの星を溶かすことが出来る。この熱がある限り、ムッちゃんはこの世界で生きてるんだ。

「俺は、ムッちゃんと一緒じゃなきゃダメなんだ。いつだって。今でもまだ、ずっと、ずっと、なあ、わかるだろ、ムッちゃん」

 涙を拭ってあげた俺の手も、彼の顔と同じ温度だったんだろう、何も感じなかった。このまま熱を全て捧げてしまえたらと思うのに俺は何も、出来ない。
 いつまでも俺は、彼の弟だった。
 兄であろうと、我慢をして、それじゃあ彼の押さえつけた本心が行き着く場所は、何処なのか。そのことを考えると、俺はいつだってあの真っ白なムッちゃんのベッドと冷たい手を思い出した。
「ほんと、お前は……」
 馬鹿だな、って。遅すぎだろ、って。お前本当に足りてねえ、って。そう言って冷たい体を脱ぎ捨てて、今すぐ、俺のことを抱き締め返せばいい。これ以上冷たくならない内に。一秒でも早く。
 崖っぷちに立たされ、死に物狂いでようやく掴んだ言葉は喉まで出かかってるんだ。準備はもう、出来ている。
(ずっと傍に居て、って)
 その瞬間、彼の熱が途絶えようとも、俺は。
 白い流れ星に向かって、彼の未来を強く願わずにはいられない。


完、
2013.07.20
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -