月の裏側

トン。と壁に手を付かれて驚いていたのも束の間。
あっと言う間に腕の檻に捕らえられ、流れるような甘い空気にのまれかけながら、ごくごく自然に壁際に縫い止められる。


「律…。」
「ちょ、ちょちょ!高野さん冗談辞めてくださいよ…!ここ仕事場ですって…!」


首を傾けて、やけに艶めかしい低音で囁かれながら寄せられる唇に、逃げるように首を背けながら必死に打開策を巡らせる。
何がどうなってこうなったんだ!?落ち着け!俺!とあまりのパニックに冷や汗が出てきた律はぎゅるぎゅると思考を働かせる。
ここは仕事場、今月も片足棺桶につっこみそうになってようやく終わってそれから記憶が飛んでて…いつの間にかキョンシー軍団が帰宅してて、俺も帰らなきなゃと思って立ち上がって名前を呼ばれて振り返ったら…これだ。
っておいおい!振り返ればヤツが居るってこんな展開望んでない!


「取りあえず、落ち着きましょう。ね?疲れきってるんですよきっと。」
「当たり前だろ。だから入稿終わった祝いに充電が必要なんだ。…大人しく奪われてろ。」


奪われてろって何だー!?と余りの理不尽さに心の中で盛大に叫びながらも律にも惚れた弱味、というものがあるわけで。
疲れすぎてやや自棄っぱちが入っている高野は律の顎を掴んで自分と向き合わせると、止めることさえ知らないような色気を放ちながら再度唇を寄せようとする。


「律…。」
「っ!?」


ふわりと甘くほどけるように表情を崩されて、カッと顔に熱が上がるのと同時に白旗をあげた。
もう仕方ない、助けが来ないならどうにもならない。そもそも仕事場に居て初めから下の名前で呼ばれている時点でもう此方の負けは決定しているのだ。
ばくばくと鳴り続ける心臓の音を聞きながら、覚悟を決めて迫る呼吸音にきゅ、と目蓋を閉じて感触を待つのと、ぎゃいぎゃいと騒がしい声が耳に入るのは同時だった。


「ティーンクルティンク〜ルゥゥ〜何見てはーねーる〜ぅぅ」
「それを言うならうーさぎうさぎだろうが。変に替え歌作るな紛らわしい」
「いやいや、明らか横澤さんも疲れてるでしょ。日本の童歌にカタカナ入ってたら可笑しいから。」
「…ステッキ持ってる時点で跳ねるという動作は捨てているも同然ではないのか…?」
「うん、木佐さんは疲れてないように見せかけて実は墓穴掘ってるっていうのに羽鳥は天然でそっち視点なんだよね。無自覚って面倒くさいね!」
「なにおう美濃!」
「流石ブラック美濃様…!ティンクルは羽持ちだからスティックよりも羽に普通着目行かない?って思ったんですね…!え、羽持ち…?地球に居るってことは月の人間…かぐや姫の使者?」
「君を月の使者にしても良いんだよ?夏目さん。」
「げぇっ!?まだ良いですまだ!私は冥王星人で居たい!」



冥王星人って何!?と思いながら、妙に気の抜けた…と言うか単に思考能力が働いていない聞きなれすぎた声が反響して部署まで響いてきている。
この一連の会話を聞いて、気が抜け、最後の気力までごっそり抜き取られたらしい高野さんは無言で壁から手を離すとスタスタと自身のデスクまで行き死んだように顔を突っ伏してしまった。
座った時の振動によって、バサバサーバッサバサーと軽快に雪崩れ始めた書類など見向きもしないで死んだフリをし通すその姿を見て、ほっとしながらも乾いたように笑うしかない律は、これから来る元キョンシー軍団に高野さんのように現実逃避したくて仕方が無かった。


「あれー?起きてる気配がしなくない?律っちゃんまだ死んでるの?」
「えぇぇ…!まだ復活しないなんて木佐さんが隣のデスクで若さ吸い上げてるからだ…!律っちゃんせんぱーい!おお起きてぇぇ!」


どんな大妖怪だよ俺!という声にその前に律っちゃん先輩なんて初めて言われたよ、と思いながら、ぞろぞろと顔を覗かせた人物達に目を向ける。
3日3晩徹夜で寝食共に極限まで削り、悟りを拓けそう所か日増しに極悪凶悪に口も悪くなり、発狂間近悪鬼巣窟と呼ばれ他部署の同業からガクブルと怯えられている精鋭達は、その勲章とも言える濃ゆい隈をガッツリと目の下に刻み、精悍な顔つきをやや痩けさせなから足取り危うく現れた。
その姿は息を吹き掛けただけで倒れ、小さい小石にすら、躓いたら転んで一生起き上がれそうに無いくらいの危うさがある。
けれど、

(美形ってどんなにやつれてても、それすら武器に出来るんだなぁ)

どこか外れた感想を思いながら律は現れた面子をしげしげと見やる。遠目から見るとどう見ても、成仏しきれていないおどろおどろしい幽鬼にしか見えないのだが、近づいて良く見て見ると、激務明けとは思えない程の白く絹の様なスベスベのやや痩けた頬に、隈では覆い隠せないキラキラとした涼やかな目元が一人一人、眠さと極限の疲労のためにやや細められ、朱色に色づいているそれが美人に輪をかけていて、見ようによっては儚げに頼りなく見える。


「…疲れきってるっていうよりかは眠すぎてふらふらしてるのに分かって貰えずにふいに肩辺りにぶつかってきた人に寂しいんだね!美人さんが可愛そうに、僕が守ってあげるから…!なんて一度は皆さん言われてそうですよね…。」
「律先輩エスパー!?」
「そうそう、律っちゃん聞いてやってよ、夏目がさぁ、」
「暴露するのか!?木佐先輩こそ王子級のイケ顔のお兄様に絡まれてた事皇サマに言いつけるからな!」
「ふざけんな!お前、助けてやった人間に恩を仇で返すつもりか!?」
「誰がお前も救出したと思ってる。木佐。」


はぁ、と疲れたようにため息を吐く横澤さんとその他の二人の反応を見るに、どうやら俺の予測はあっていたらしいと律は苦笑いをする。
因みに、口を挟まないクールな二人はお姉さま世代に人生に疲れた顔なんかしてないで家にいらっしゃいな、と拉致られかける事が多いので、突っ込まれる前に我関せずを貫いていた。


「で、何で皆さん一緒に戻ってきたんですか?」
「それがさー、意識飛ばしてたのを起きた順で退社して、わらわら集まってきた連中をちんたら巻こうと思ってたときにふと目の前見たらドーナッツみたいな人混みがあんの。慌てて見てみたらコイツでさ。拉致されかかってたから救出しに行ったら横澤さんが居て、」
「そうなんですよー、外人に絡まれて道聞かれてると思ったからここ、まっすぐ!って言って叫んでたら腕捕まれて引きずられたんですよ。あれには流石に、ビビったー。」
「ビビったで済むか!ホテル街連れ込まれかけた女が呑気にちんたら喋るな!だからデット入稿直後の夜中に一人で帰るなって言っただろうが!」


ごちん、とグーで叩かれた頭を痛いー!と涙目で叫びながら擦っている夏目はさながら母親の言いつけを守らなくて躾的指導が入った小学生の様である。
ぎろり、と恨めしそうに、眺め見た先には当たり前だと言わんばかりに鼻をならす母親…横澤が居り、それを見ていた乙女部メンバーは叩かれたトラブルメーカーを冷めた目で見つめた。
自業自得である。欲を言えば少しは学習して欲しい。


「てゆか英語で話しかけられてるのに日本語で豪語する人も中々居ないよね」
「そう言いますけどね木佐さん!中途半端な日本人の英語の発音よりジェスチャー付きの日本語の方が余程伝わりますって!」
「立派な心掛けだが、会話がまるで成り立ってなかったぞ。」
「本当ですか!?トリさん。だからクレイジーガールって言われたんだ…。」
「ナンパしてるのにこの道真っ直ぐ!なんて普通言われないよ。…ハハハ!思い出したら笑えてきた…!」
「思い出さなくても腹抱えて指差しながら爆笑してましたよね!素敵おねぇさまに逆ナンされてた美濃様は!」
「…それは言わない約束だったよね…?」


ぎゃいぎゃいと夏目を弄りだしたキョンシー軍団に、状況を聞き出すのも面倒くさくなってきた律は、よく体力が持つものだと一人感心しながら溜め息をつく。
分かりましたよ!今度律先輩に英会話教室開いて貰って、英語ペラペラになってれば良いんでしょ!?見てろよ性悪美形上司共!なんて言葉に聞かなかった振りをして、今まで聞き出した事を要約すると、どうやら別々にてんでバラバラに帰った筈の草臥れ乙女部は、疲れすぎて口を開くのも嫌で増える一方になってしまったギャラリーを連れて何故かバッタリと各々が遭遇してしまい、その中でも過激派ギャラリーを持っていた木佐組とギャラリーと言う枠を突破した夏目組の国際交流から当人達のみを白馬に乗れる王子横澤さんを筆頭に魔王とクールビューティが、童顔姫とじゃじゃ馬姫を救出して会社にとんぼ返りしてきたと言うことだろうか?


「多分それでドンピシャだが、小野寺、お前も大分思考能力低下してるな。」
「全てにおいて初めから現実逃避した誰かさんよりはマシですよ。」


どうやら声に出していたらしい。
クワー…。なんて呑気にでっかく口を開けて欠伸をしながら隣に並び立った高野さんに出来うる限りの嫌味を言いながらふと、舌戦を繰り広げている夏目の手元を見ると、ごっそりと何かが大量に入っているらしいコンビニ袋が握られており、思わず首を傾けた。


「なんだ、小野寺。さっきの続きをして欲しいのか?」
「現実逃避したんだからその常春頭はどっかに埋めてきてくださいよ。それより、夏目さん、それ何?」
「それ…?…うわぁ!すっかり忘れてた…!早くしなきゃ溶けちゃう…!」
「てゆか何で夏目が持ってんの!?美濃様持ってなかったっけ?」
「ムカついたから途中で持たせた。」
「気持ちは分かるが駄目だ美濃、コイツに1グラムでも重石をつけたら重力に逆らえずに木っ端微塵だ。」
「いや、原型保ってるからね、トリさん」


真顔でそう言う羽鳥さんが自然に夏目の手元からビニール袋をさらうと、夏目はそんなに貧弱じゃ無いんだけどなぁ。とぼやきながらもお礼を言うと、此方に向き直って溢れんばかりの笑顔で嬉しそうに口を開いた。


「律先輩。屋上出て、お月見しませんか?」
「お月見…?あっ!?」
「そうなんですよ、気付きました?クソ忙しくて月見してないんですよ。1ヶ月経っちゃいましたけど今日月が綺麗に出てるし、良いかなぁって」
「月見と言ったら月見酒だけど、今俺ら飲んだら倒れるか一瞬で夢の国だから可愛くアイスで月見だけどねー。」


本当は月見バーガー食べながら月見とかも理想なんだろうけど、どっちにしろ俺ら暫く固形物食べてないからカロリーの塊ガッツリはイケないから消去ね。とカラカラ笑う木佐さんは多分気付いてないけれどきっと月見バーガーもすでに販売期間を終了しているのだろう。
日付感覚が無くなるほど仕事をしていると虚しくなる瞬間が増えてくるのは例えばこういう時だ。
けれど、同じ時間を共有して、同じようにどよんとした空気を纏う同僚がこうして笑って居てくれるから、毎月毎月を乗り越えられるような気がする。


「ここだけの話、夏目さんがナンパ君と国際交流しかけちゃったのは、あの真ん丸の月見上げながら、エメ編でお月見したいなぁってぼけーっと思ってたからなんだって。」


こっそりと美濃さんが伝えてくれた言葉の後に、本当に馬鹿だよねぇとふわりと笑いながらも毒気の無い声で紡がれた音は言葉とは裏腹にとても嬉しそうで、思わずつられるように笑ってしまった。


「夏目、アイスの種類は?」
「よくぞ聞いてくれました編集長!雪見だいふくです!今ならイチゴやらチョコやら種類いっぱいあるのでバラエティには富んでます!」
「乗った。横澤、警備に了承得に行くから付き合え。夏目、俺チョコ食うから先行ってレジャーシート敷いとけ」


先程まで眠そうに欠伸ばかりしていた高野さんがニヤリと笑いながらそう言うと、夏目は嬉しそうに目元を緩め、口角を悪戯に上げた。


「らじゃー!だけど編集長!チョコは今ならイチゴ大福仕様になっててイチゴが入ってるので争奪戦は必須です。」
「何個買った?」
「馬鹿グマの奢りなのでチョコは先着二名のみ、けれど、狙う人数は四人です!」
「分かってんだったら人数分買っとけよ横澤!」
「ふん、タダで食えたんじゃ面白くねぇだろうが政宗。」
「ちなみに馬鹿グマもチョコ狙いです。木佐さんと美濃さんは半分個協定を結んでるので残りは一つです。半分個協定しますか?」
『二個食う』
「交渉決裂なので、警備を説得して早く屋上に着いた方が勝ち。早くしないと溶けるので、三分以内でお願いします。ではよぉぉーい、」


デッド入稿直後の気力体力も限界を越え、からっきしの状態で、それでも騒いで、横澤さんと高野さんの楽しそうでいて、本気を窺わせる顔をしながら走る準備をしている様を見ると、馬鹿だなぁと思いつつ、暖かな思いが心を包む。
どん!と言う、涼やかで凛とした声が静かな部署内に響いたと同時に駆け出す足音と笑い出す声に同じように様相を崩した。


「あっはっは!あの二人本気で走ってるよ!ばっかでー。」
「雪見だいふくで月見しようとしてる俺らは人の事を言える立場か?」
「まぁまぁ、こういうときもありますって。ちゃんとご飯も買ってきたんで、行きましょ?律先輩。」


雰囲気は全員疲れきってて、悲壮感駄々漏れ。定番の濃い隈も、やつれたような顔もキョンシーと間違われても仕方ないと思う程のもの。
けれど、疲労感満載の疲れた身体と倦怠感に苛まれて眠くなる意識に鞭打ってでも布団と感動の再開をするのはもう少し後にしようと思う。


「俺、イチゴ希望します。」
「まさかの!ノーマルだと思ってたのに律先輩!一個しかない…半分個協定します?」
「ふふ、良いですよ。一個ずつ食べようか?夏目さん。」


ふわりと笑うと同じように柔らかく返された笑顔。暫くにこにこと笑い合っていると、美人対決は引き分けに決まってんだから早く行くよーと木佐さんに急かされる。はーい、と返事をして歩き出しながら、たまには銀の光に優しく照らされながら、皆で酒無しの宴会も良いなぁと、律は一人ワイワイと煩くなる皆の背中を眺めながらひっそりと笑った。



後日、
当直の警備員を一分でダブルサウンド宜しく脅しに脅して半泣きにさせて屋上の夜間使用を強奪してきた編集長と敏腕営業は井坂さんに呼ばれ、警備員の苦情を問われた所、ティンクルが餅ついてるのにその編集部が月見をしない訳がないと開き直り、次は俺も呼べとカンカンに怒られて原論は不問になったとか言う話が伝説に新たに入ったと言う話が噂されたのは言うまでもない。






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