青い春
頬を撫でる風が冷たくなったのを肌で感じ、一週間前までのあの蒸し暑い熱風など幻だったかのようにふわりと前髪を揺らす。 日射しが穏やかになったから、昼寝が良い感じに出来るようになったと大きな瞳をいたずらに細めて笑う黒髪の先輩に、木佐先輩は受験生なんですから屋上とか吹きっつらしの場所で寝るのは身体に障るから辞めてくださいよ。と芸能人顔負けのキラキラオーラを纏った後輩が心配しつつもしっかりと釘を刺していた昼休みの一時をふと思い出して思わず笑みが溢れた。 美人が憂い顔をするとそれだけで胸が切なくなり、ひょんな事でも罪悪感を感じてしまうのは見た目にそぐわず、豪快で溌剌としたあの木佐先輩にも例に漏れなかったようで。 入学早々、新入生女子の黄色い声の八割をあっという間にかっさらっていった王子様の心もとな気に揺れる瞳の色にぐっと息を詰まらせると、バツの悪そうな顔をしながら…善処する。とぼそりと呟いて瞳を逸らしていた。 何とも微笑ましい上下関係を現している会話の中で律は、それを聞いた瞬間の雪名のパッと華やいだ笑みを忘れられずにいる。 その後、流れるように自然にブランケットを華奢な肩にかけ、風が冷たいですからと言いながらふわりとその肩を抱いた雪名に、用意良すぎるだろ…。と呆れような、それでいてそれを甘受するような穏やかな顔で、雪名だけに許された柔らかい微笑みをふわりと浮かべた木佐先輩の顔も。
「まぁいっか、なんて気軽に付き合う付き合わないの話には出来ないからさ、男女の情とは違う訳さ。だから手放せと言われたら何時でも手放せるように準備をしながら、秘密を抱えて細い細い道を歩んでいかなきゃ…いけないんだよな。」
ふいに思い出した、あの時の横顔の意味。 快活で、明朗で。後輩からしたら憧れて慕って共に歩んでいきたいと思わせるような兄貴肌である先輩が、まぁた囲まれてら。と茶化すようにぽつりと呟きながら、苦しそうに、けれど幸せそうに心の内をひっそりと俺に吐露し、青空の下、キャアキャアと群がられている中心人物を廊下の端の窓から眺め見て、それでもゆったりと笑みを浮かべた、あの表情。 それは仕方ない、とどこか諦めにも似た、愛情の向かう先を決めきった顔で、そんな表情が出来るからこそ、あんな穏やかな空間を二人で共有出来るのだと強烈に実感させられた。 脳裏に焼き付いて離れないくらい焦がれるふたりのカタチ。
けれども俺は、と律は制服の上から痛む胸を掴むように掌を握り込む。 あの人と過ごす季節が、ひとつひとつ、増えてゆく度に降り積もってゆく感情。 それはきっと幼くて、細い細い道を先にゆくあのふたりが一緒に乗り越えてきた感情とは並び立つのも甚だしいくらいで、前を見据えては足元を見るふりをして戸惑う。 視線が合う度、ふと意識を向けた瞬間と同時に、あの人を囲う華々しい声が廊下を渡っていて、邪険に扱いもせずに穏やかにその声に応える低い声に唇を引き結ぶ。 ふわりと微笑むその微笑も、呆れたように勉強しろよ学生とたしなめるその声も、全部全部俺ではない頬に朱を穿いて微笑む華奢なあの子達のもので、律の出る幕すらない。 だからノートに目を落とす振りをして俯き、シャープペンを走らせて見ない振りをする。 木佐先輩のように目の当たりにして笑える程割りきれている訳でもなければ、ふわふわと可愛い女の子達の輪に割って入って行ける勇気もないから。
そもそも、愛することの意味も分からないのに、あの人の隣に立って並び立って居られる理由が自分にあるのだろうか。
「…あーあ、駄目だ。本気で埒が明かない」
堂々巡りも良い所だ。 恋人の関係に皆其々あるのは当たり前な事で、欲張ろうとする心が理想を現実に目の当たりにして不安がよぎっただけなのに。 思考がぐるぐる回るだけ回ってどん底に落ち込みそうな気配がした所で頭を振り、肘を付いていた窓枠から腕を解放して窓を閉める。 夕焼け空がとろりと滲み出すように橙に世界を塗り替えていき、その優しい光に、泣きたくなるくらいの寂しさを覚えて、ふいに視界が滲む。 何故だろう。 あの可憐な女子と笑いあっていた高野先生の優しげで穏やかな表情が脳裏に焼き付いて、離れない。
「オイ、こんな所で部活サボってんじゃねぇよ、全国大会覇者の小野寺律クン」
コンコン、とノックするかのように後頭部を叩かれたかと思ったら、ふわりと香った煙草の匂い。 疑問に思う刹那、落とされた声に慌てて涙を引っ込める。 ちょ、何でアンタが居るんだこの時間補講のハズ…!と心の中で叫びながら振り向くと、肩で息をしながらあからさまにホッとした顔を浮かべている高野先生が視界に入り、ギョッとした。
「はっ?え?何で汗だく…!?」 「………騙された。」 「えぇ?」
こちらが目を剥いて驚いていれば、途端に機嫌が急降下し、瞳を不機嫌そうに半眼にするとボソッと一言吐いて高野先生は教室の床に座り込んだ。
「…クソ、木佐の野郎、後で最難関校用古典プリント200枚刷って叩き渡して3時間で終わらせなきゃ冬休み全部潰してクリスマスも古典地獄にしてやる…ハッ、俺を嵌めた事を精々後悔しろ部活脳ミソッカス受験生め」 「ア、アンタ急に座り込んだと思ったら滅茶苦茶大人気ないな!それでも古の文化の教鞭を打ってる教師か!」 「この歳で階段で4階まで全力疾走してみろ。雅な心もアキレス腱ぶちギレる寸前の必死筋肉の軋みにあっという間に降り落とされるわ。」
あーあ、走り損かよ。ったく、28にもなって秋にYシャツ汗だくにしながら階段駆け上がるなんて、高校生より青春してんじゃねぇか、と胡座をかきながらぶちぶち並べ立てるその姿に話が見えずにオロオロと立ち上がったままどうしようかと悩んでいると、指先をきゅっと捕まれた。
「え、っと…高野、うわっ!?」 「だらしねぇ、それでも現役運動部か?もう少しバランス感覚鍛えろ。」
律の言葉を遮るように整えている最中の息の間から言葉を紡ぎながら、掴まれた掌を思いっきり引かれてしまったので高野と同じように座り込んでしまった。 反論しようと口を開こうとしたした刹那、肩に顎を乗せられ、背中に腕を回されてきゅ、と抱き締められる。 鼻孔をくすぐるほのかな汗の匂いと嗅ぎ慣れた柔軟剤と紫煙が混ざる匂いに締めた筈の涙腺が緩みかける。 それだけなのに、ひどく、安心した。
「明治の三文小説に出てくるような二枚目を具現化したみてぇに窓際で夕日背負って切なそうにしてんな、…本気で泣かせたくなる。」 「…おいドS、アンタ本気でここが何処だかまで階段で振り落としてきただろ。…さっさと離さないと殴りますよ。」 「涙声で良く言いやがる。素直に寂しいなら寂しいって言えよ。俺が教師だからって理由だけで、いくらお前でも俺をお前から今離させる理由にはなんねぇんだよ。」
呆れたような低く艶のある声が優しく鼓膜を揺らして、宥めるように頭を撫でられた感覚にぽろりと瞳を覆っていた膜が雫にかわる。 慌てて拭おうとすれば、くすりと僅かに笑われ中途半端に上げた掌を掴まれて握られる。
「良いよ、無理すんな。ずっと、待っててくれてたんだもんな。」 「…だっ、れが!待つもんか…!」 「…っとに素直じゃねぇな、全国行って、木佐なんかとドンチャン青春謳歌してる内にいつの間にか季節は秋で、木枯らし吹いたと同時に心にまですきま風が吹いて埋めようとしたら俺にまとわりつくきゃーこらピーコラうるせぇ小鳥どもに気づいて勝手に線引いて大人しくしてたのに空気読めないノロケ目の前で炸裂されてウロウロノコノコ腹ペコの熊みたいにさ迷ってたんだろ、明らか待ってんじゃねぇか」
少しだけ距離が空いたかと思えば、前髪を掻け上げられ、その額に唇が落とされる。慌てて取りなすように腕を突っ張ろうとすると、後頭部を引き寄せられて高野先生の肩口に顔を埋めさせられてしまったので身動きが取れずにただただ赤面するしか無かった。 本当にこの人は古典教師なのかと思うほどざっくばらんの説明なのに、心にすんなり入り込みすぎてなにも言うことが出来ない。 高野先生の肩口で、別の意味で潤み始めた瞳に険を滲ませて狡すぎる…。と思っていると、熱を持ってきっと赤くなっているであろう耳介をいきなり食まれて、ビクリと過剰に反応してしまった。
「ひゃっ…!?」 「大丈夫、俺はちゃんと律が好きだよ。お前と一緒で離れれば寂しいし、しんどい。だけど、何時までも、何処にいてもお前が良いのは変わらない。」 「ちょ、っと待っ…」 「愛し愛されは経験だ。だから、俺がちゃんと教えてやるから」
くすくすと優しく、甘く囁きながらうなじにその指先を伸ばされ撫で上げられる感覚に感傷的な気持ちが吹き飛んでゆく。 砂糖菓子のような甘やかされ方に心臓がばくばくと脈打って煩い。 不安だった何もかもが杞憂のように溶け解されていく。 年齢の差、禁忌の恋、荊の道。 その全てを俺ごと受け入れて、欠けていると思い込んでいた距離事あっさりと詰めて元の鞘に納めてしまった。 上向かされるとかち合う、俺にしか見せない蠱惑の甘い瞳。 滲んだ視界から涙を落とすかのようにひとつだけ瞬いて、目蓋を落とす。 もう仕方ない。だって委ねることに決めてしまった。 息をのむ気配がして、仕方ないというような溜め息の後、唇が触れ合う寸での所で小さく囁かれた。
「あんまり、綺麗になるなよ。俺がどんだけヒヤヒヤしながら見てると思ってる」
言葉の意味を問う前に噛みつかれるように口付けられる。 3ヶ月振りの会瀬の口付けは、ほんのりと甘酸っぱいような気がした。
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