気付いた時には、もう、何もかもが手遅れだった。


あんなに優しく触れてきた手も、
いくら拒んでもさらわれた唇も、
壊れ物を抱くように抱き締められた腕も、


いつの間にかもう、届かない、
他の愛しい人を愛すための
ものになってしまった。


背に氷塊が滑り落ちた瞬間、
全てががらりと表情を変えて、
総てがもう、どうでも良いものに変わった。
宝物にしたい本も、漫画も、あの人に全て繋がってしまうから、逃げ出すように部署を出た。
気がつけば、全く関係の無いファッション紙の編集になり、取材と言う名目で出会う艶やかなグロスを引いた唇に誘われるように唇を合わせたり、行きずりの武骨な掌に肌を預けたりもした。


あれから、あのマンションには帰っていない。
すれ違えばきっと、粉々に、
かき集めて必死になっているものが霧散しそうで怖かったから。
ざぁざぁと肌を叩く、豪雨が汚れた身を一掃してくれれば良いのにと、肌に張り付いたシャツを呆然としたまま見て、思う。

深夜の長雨。
この時間ならば、会うことはないだろう。
そう思って、エントランスに向けようとしていた足が、ピタリと止まる。
どうして、と動く唇は音もなく、
暖かい部屋であの人と睦言を囁きあっている筈の、その人が傘をさして、じっと自分の事を見つめている。

どくりと鳴く心臓の音に、無性に泣きたくなった。


「律」


ぱしゃり、と水溜まりを弾く足音がする。わざわざ濡れに来なくとも良いのにと力無く頭を振るともう、立っていられなくなった。
膝から崩れるようにばしゃりと水溜まりの中に膝を落としながら、耳を力無く両手で塞ぐ。
声を聞いてはいけない、存在を、認めるな、優しさに触れたら、もう。


あんなに激しく叩きつけていた雨足がピタリと遮られる。
俺に合わせるように膝を折る気配がして、突き合わせるように膝を水溜まりに落としたボヤける音に、それしか出来ない子供のように首を振る。
それを遮るように、両の手を捕まれると、塞いでいた耳からはずされる。
ざああ、と再開される強い雨の音に、かき消される程小さいそれは、それでもストンと胸の内に落ちた。


「おかえり」


濡れるのも構わずその腕に抱き締められる。どうして、なんで、という言葉より先に、涙が溢れた。
これしか、欲しくないのに、
大切なものは、もう。
しがみつくようにその背に腕を回して、ひきつる喉に嗚咽が溢れないよう唇を引き結ぶ。


こんなに好きなのに、
遅ければ、もう、手に入らない。


パタリと手から離れた傘が仰向けに広がり雨をうける。
それと同時に俺と同じように濡れ鼠となった高野さんは、かじりつくようにしていた俺を少しだけ離すと、頬に掌を寄せてきた。


「律」


確かめるように名を呼びながら、涙の軌跡か、雨かも分からぬものを拭うように親指の指の腹を滑らせる。
夢なら早く醒めてほしい、
こんなに残酷で、優しい夢を
俺は他に知らない。

いくつ瞬きしてもクリアになら無い視界に思わず顔をくしゃくしゃにすると、高野さんは子供のように笑った。


遅くて、ボタンをかけ違えて、
どうにもなら無くて、でも
この感情を何とかしたくて、


バラバラに散らばる寸前でとどめていたそれをこの人はいとも簡単に納めようとしている。
それが、わかった。


「俺が、欲しい?」


少しだけ、顎を上向かせられながら露になっているであろう首筋の紅い花のその上に口付けられる。
押し付けられた感覚に、流し込まれる声に、もう、戻れないと確信する。


ごめんなさい、横澤さん。
俺は、この人無しでは、生きられない。


一度は譲ることを良しとしたその恋しかった腕に祈るような思いで、俺はその甘言を受け入れた。


(さようなら、なんて言えなかったんだ。)

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