6月の梅雨の少し肌寒いある日、事件は起きた。


「おーはよーぅ、ございまー…す。」
「おー、おはよ、てゆか夏目、お前大丈夫か?」
「だーいじょーぶ、でぇーす。」


シトシトと雨が降る昼下がり、作家と打ち合わせをしてから出勤して来た夏目は、季節外れな冬物のジャケットを着込み、ふらふら〜っと危なげな足取りで自分のデスクにつく。その一連を見ていた木佐が思わず声をかけた。


「風邪か?お前、自分の事おざなりにし過ぎだろ。あんまりキツいなら無理すんなよ、まだそんな立て込んでもねぇだろ。」
「風邪じゃないんで…すよ。ちょっと寒くて…。しか、も…今日あのバカグマ、んとこのアホ上、司とバトんなきゃ…いけない、んで」
「風邪だよそれ、自覚しろ。あ、そか!今日部決会議か!」


部決あるんじゃ、俺の一存で帰す訳にいかねぇけど、羽鳥にバレたら強制帰宅だぞと諭すように言葉を紡ぐと、夏目はふらりと木佐の前デスクまで寄って行き、そのなだらかな頬に白くほっそりとした指をぴとりと這わせた。
その瞬間、木佐の全身が総毛立った。


「っっっっつめてぇ!?なんっだお前!本当に人間!?」
「失礼ですよぅ、これでも体温34.2分の立派な人間ですー…。」
「それ明らかエラーだっつの!既に体温じゃねぇからなそれ!」


反射的にがしりと細い手首をつかんで、右の掌を包み込むようにその小さい手を取ると、ほう。と息を付くようにふわりと顔色の悪い頬が僅かに緩む。
低体温過ぎるにも程があんだろと、その小さな掌を暖めるように擦りながら、珍しく弱っている夏目に木佐は眉間に皺を寄せる。
何と言っても黙っていれば10人中10人が振り返るような美人さんだ。怪物なのはその人格だけで、外面だけを見れば、その辺の女とは比べ物にならないほどの庇護欲にかられる。
何とかしてやらねばと木佐が事態の改善に思考を回転し始めると、小野寺が出勤してきた。


「おはようございます。って、木佐さん、何してるんですか?」
「律っちゃん、おはよう。ちょ、コイツの手握ってみてよ。」
「手…?」


突然の事に不思議そうに首を傾けながらも、ダルそうに律先輩ぃ〜、おはよー、ございま…す。と紡ぐ夏目を見た小野寺は早速異変を察したらしく、ちょっと夏目さん借りるね。と木佐が握っていない左の掌を取った。
そして、その掌に触れた瞬間、びくりと跳ねた小野寺の肩を木佐は、見た。


「ヒッ!?ゆゆ幽霊!?」
「…うーら、めーしやぁぁ、…。」
「全然恨めしそうじゃないけどね!そんなんじゃ誰も呪えないでしょ!?どこの雪山で遭難してきたのッ!」


絶叫しながら身を持って実情を理解すると、右にならえよろしく、両手で木佐と同じように夏目の左手を包み込んだ小野寺に、やっぱり同じ反応するよなぁと、未だ右手を持っている木佐はしみじみ思った。


「あー…、2人とも暖かいですねぇー…。」
「イヤイヤ、俺の平熱36.3分だからね。お前が低すぎるんだよ自覚ある?」
「昔から低体温で、低血圧なんですけど…6月は気候が安定しない、か、ら毎年ふら…ふら、するんです、よねー、なぁんで…だろ」
「夏目さん、これ動ける方がおかしいからね。血凍ってるよ絶対。」
「私もそう思って…手と足暖めて来ようと、思ったんですけど…熱すぎて、お湯に浸けれなかっ…」
「当たり前だろ。これじゃ、お湯にドライアイスぶちこむようなもんだろ」
「徐々に暖かくしないと、蒸発するよ?」
「気化するん、ですかー…私ー、」


んじゃ、バカグマ来たら終わりですねぇ、アイツ平熱高そうだから、と可笑しそうにのんびりと緩く笑った夏目に、木佐と小野寺は戦慄した。
夏目の部決会議となれば、書類の山に囲まれて忘れがちな彼女のために、彼は必ず会議前のすっぽかし防止に立ち寄るのだ、このエメラルド編集部に。
未だ温度が揃わない白い小さな手があの低血圧とは縁もゆかりも無さそうな熱血高体温に触れられたら、確実に、火傷する。


「律っちゃん」
「…はい。」


その応対を交わした直後、手早く夏目を自分のデスクに着席させると木佐は暖房の温度を上げに、小野寺は高野に横澤の足止めをして貰うべく携帯を鳴らした。


「…何やってるんだ」
「おぉ!良いところに!ナイスタイミング羽鳥!」
「まだ周期に入るには早すぎると思ったけれど、…しかもなんか暑くない?」
「おはようございます!美濃さん!」


良いところに!と目を輝かせた木佐と小野寺が全力で素早く状況を説明し、パタリと力無くデスクにふせっている夏目に視線を向けさせると羽鳥は眉を思いきり潜め、美濃はニコニコと笑いながら華麗に毒を吐いた。


「お前は恒温動物か」
「蛇は可哀想だよ、羽鳥さん。せめて自律神経失調者って言ってあげなきゃ。」
「どっ、ちにしろ、人間として欠落させたいんでしょ…が、私は人間です、よー」


やはりまだダルいのか常の元気いっぱいな反応も薄く、ひらひらと力無くふる繊手が痛々しい。
はぁ、とひとつため息をつくと、羽鳥は着ていたジャケットを脱ぎ、華奢なその背にふわりとかけた。


「ちょっと待ってろ」
「小野寺くん、一緒に宿直室来てくれる?後、木佐さん、その辺のファンシー棚に間違えて買ったブランケット無かったっけ?」
「おー、あった気がする。探しておくー」
「美濃さん、行きましょう。」
「じゃあ、僕たちは毛布とか借りてくるから、木佐さん見ててくださいね」
「だいじょ、ぶですよーう。だいぶ、良く、なったん…で、」
「そう言うことはあの横澤さんと本気でやりあえる数少ない夏目さんのあの張りのある声になってから言って貰える?大丈夫な時じゃないほど大丈夫って言うんだから最年少らしく今は甘えときなさい」
「で、も」
「はい。もう聞かないよ。木佐さん後よろしく」
「おー、」


念を押されて黙るしかなくなった夏目を横目に美濃に口で勝てる訳ねぇだろと呆れたように笑いながら、大柄の苺がプリントされているふわふわのブランケットを羽鳥のジャケットに重ねるようにかける。


「あー、温い、なぁぁ…」
「温いって感じられるまでになって良かったな、雪女」
「ん、」
「あぁうん、寝とけ。その方が体温も上がるだろうから。」


暖かさに気が緩んだのかパタ、パタとゆっくり瞬きする様子に子供か猫みたいだなぁと笑いながら苺のブランケットに包まれた背をあやすように弾ませる。
たかが10分、されど10分、夏目には必要な休息時間だと判断した木佐は眠りを誘うような優しい声で夏目が瞼を閉じるのを見守った。


「お疲れ、」


今の若者は泣き言ひとつ言わないんだから、こういう時くらい年上に甘えろよ、と夏目と同い年の恋人と重ね合わせながら。




(木佐さーん、ってあれ?寝てます?)
(お帰り、律っちゃん。だいぶ暑くなったからな、気抜いて寝た、羽鳥帰ってくるまで良いだろ。)
(えーっ、こんなに持ってきたのに。)
(美濃…それ持ってきすぎじゃね?)
(取りあえず、一枚だけかけときます?)
(…夏目、……どこやった?)
(あ、羽鳥。え、この下?)
(いくらなんでもかけすぎだろ。本人埋まってるぞ?)
(ん、)
(ほらー、うるせぇから起きちまったじゃねぇか!)
(夏目、しょうが湯だ。熱いからタオルでカップくるんで飲めよ)
(どんだけ過保護だよ、お前ら。)
(げぇ!?横澤さん!)
(げぇとはなんだ!しかもこの雪だるまみたいな毛布の塊はなんだよ!ふざけてねぇで会議行くぞモヤシ!しかもこの部屋空調イカれてんじゃねえか?)
(ちょ、ちょちょ、横澤さん平熱いくつ!?)
(あ゛?7度5分。)
(美濃!)
(…ピピッ…えー、5度1分)
(はい、アウトー)
(気にせずゆっくり飲めよ、夏目)
(はー、い)
(あ?)
(はいはい、夏目の半径10メートル以内に入らないで下さいねー、触るのも禁止)
(はぁ?)
(夏目さん気化しちゃうから。もう少し待って下さいねー。)
(へ?)
(あんまり暑苦しいと嫌われるぞ、横澤)
((ガーン))
(…、あっつ!?)
(一同/だからゆっくりって言っただろ!お前溶けるぞ!)

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