※学生時代




色を捉える間もない世界で、
流れを見極めて、ただ、流されないように必死に独りで上手くすり抜けていたつもりだった。


晴天に恵まれた、とある日曜の休日。
嵯峨は、余りの人の多さに辟易していた。
がやがやと賑わう目の前の歩道の両端にはところせましと本棚が並んでおり、この一帯の総てが本で埋め尽くされている。
それこそ、どこぞの本屋でも手に入らないであろうお宝級の本から、どこの書店でも売っているベストセラー本や文庫までピンきりだ。
本についてはとても興味がそそられる。
以前から目を皿のようにして探している本がここなら見つかるのではないかという妙な確信が持てる位にはお宝がギッシリと並んでいるのだ。
本好きにとっては流涎ものだろう。
しかし、嵯峨は眉間にシワを寄せながら、今一歩が踏み出せないで居た。


「嵯峨、先輩、や、やっぱりお気に召しませんでした…か?」


そんな嵯峨を見かねて、隣から控えめに呼び掛けてきた尻すぼみしていく声に嵯峨は耳を傾ける。
おどおどと落ち着きなく、やっぱり誘わない方が良かったんじゃないかとぐるぐると考え始めただろう気配に、心の内で笑うと、嵯峨は頭ひとつ分低い位置にあるそのブラウンの髪をくしゃくしゃと撫でながら口を開いた。


「良いんじゃねぇの、行くぞ。」


最後に頭をポンっと弾いて、地面に張り付いたように動かなかった踵を喧騒の中へと運んでいく。
ふらり、と重力に従い降ろされた掌は、数分前、少し後ろを着いて来るように歩き出した後輩の掌に悲鳴と共に弾かれたまま、歩く度に前後に寂しげに揺れている。
先輩の私服!?と至極当たり前の休日だという概念すら忘れて、そう叫んだ後、頬を真っ赤に染めながら酸素を求める魚のように口をはくはくとさせてパニックに陥りかけていたから当然の反応なのであろうが、


「…アイツ、どこ行きやがった。」


背後に気配の無い足音に、振り返れば案の定、一瞬にして居なくなったアイツに思わず舌打ちしたくなった。
この人混みだ。そして、アイツがこの中で正しく俺の後を着いてこれる訳がない。
突然足を止めた事により肩にぶつかる人や、迷惑そうに抜かして行く人々に、思わず眉を寄せる。
一先ず、最高潮の通路よりも道端の本棚に沿って居た方が良いだろうとそちらに足を向け、ふと視界に入った、並ぶハードカバーを目前にアイツの顔が浮かんで、一層腹立たしくなった。自分から誘ったくせに、ものの1、2分で姿を消すとは何事なのだろう。
消える背に、呼び止めれば止まる足先に、声すら掛からなかったのはきっと、いつものように顔を真っ赤に染めて伏せたまま、それでも嬉しそうに呑気にその口角を緩めていたからだろう。

予想ではあるが、多分当たっているであろう確信に、指を伸ばしかけていた本が、ただの紙の束にしか見えなくなって、思わず舌打ちした。
アイツにしたかったのではない、俺に、だ。
待ち合わせ場所で、俺が視界に入った瞬間ふわりと無意識に笑んだ笑顔から段々と意識的に頬を薔薇色に染めるアイツに無意識に掌が伸びていたのを弾かれて、ほんの少し虚しかったのも、人混みに萎えた心をふわりと浮上させられたのも、着いてこれないと分かっていて、それでももう一度手を取るのは何だか癪で手を差し出せなかったのも…律だったからなのに、


隣に居なければ意味はないのに、


がばりと振り返り、再度、人混みに目を凝らす。
やはり見当たらない姿に逸る心をそのままに足を動かそうとした時、
後ろに振った掌が冷たい感触にふわりと包まれた。


「や、やっと、みつけた、」
「…り、つ。」
「すみませんッ、嵯峨先輩。いつの間にか、なな、流されてしまいましてだだ、だいぶ後ろの、方に」


ぜえぜえと息を付く間に絞るように言葉を紡いだ律は、背中を丸めるように上体を低くしし、膝に手を置く。
それを見ていた嵯峨は、熱い背を労るように無意識に掌を置いた。
じんわりと熱い熱が伝わる掌とは反対に、握られた掌は血の気の失せた冷たいもので、その冷たさが心配の程を物語っているようで、嵯峨は妙に落ちつくのを感じた。


「…大丈夫か?」
「はいッ…っ、大丈夫で、す。…せんぱ、いは大丈夫です、か?」
「…俺?」
「人混み、苦手なんじゃ、ないかなぁ、と思って、たので、」


誘った俺が言うことじゃないですよね。すみませんと顔も上げずに紡ぐ律に思わず嵯峨は吹き出した。
その声を聞いて慌てて顔を上げた律の耳元に唇を寄せた嵯峨は、愉しそうにゆっくりと囁いた。


「そうやってあんまり苦しそうにしてると唇塞ぎたくなる。」
「っえッ!?」


律が驚きの声を上げる直前に、耳の後ろに唇を落とすと、嵯峨は何事もなかったかのように上体を起こした。
それより一瞬遅れてがばりと丸めた背を元に戻した律は赤面のまま、耳後ろを掌で押さえてあわあわと二の句が紡げないでいた。
耳まで真っ赤とそんな律を見て口許を緩めた嵯峨は、今だ繋がれたままの掌を引いた。


「ほら、行くぞ」
「せせせ、せんぱいっ!手!」
「なに?嫌なわけ?」
「そ、そん、なこ、と」
「俺は構わないけど?どこから見るんだ?」

あわあわと今にも許容範囲が越えそうな恋人を横目で見ながら嵯峨は嬉しそうに目元を細める。
今ならさっきの紙束も小さな宝物の本になるかもしれない。
がやがや混雑する人混みの波をうまく切り抜けながら、嵯峨は繋ぎ手を恋人繋ぎのそれにかえた。
うわっ!?と驚いたような声は雑踏に消え、歩幅を合わせる歩調はゆるりとした今の気分にちょうど良い。
良い日曜だな、と嵯峨は心からそう思った。


今度は振り払われずに繋がれたままの掌は暖かく、ほわりと二人の心を表すそれに良く似ていた。




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