小説で使い古された心の内が空っぽになるという意味がよく分かった。

誰と肌を重ねても、誰と笑いあっても、普遍的な日常を繰り返しても、どこか虚無で虚しくて、泣き出したいような気持ちでいっぱいだった。
あんなに暇潰しに通った図書館に行っても、好きな本に没頭しても、思い出すのはあの伏せ気味の顔であったり、真っ赤に染まった頬であったりで、いつの間にか思い出の中で生き始めてしまった小野寺の事を思い出す度に、胸が苦しくて、苦しくて仕方なかった。
愛情や、恋情が冷めきれば人は二度と顔を合わせないくらい離れ離れになる事は両親を見ていたから嫌と言うほど知っている。
だから、この恋が終わってしまったのだという自覚はあるし、アイツにとって俺は突然消息不明にして連絡が取れなくなっても困らない程度の存在でしかなかったのだということも受け入れようとしている。
けれど、それなら何故、思い出す度に口の端が緩み、目の前に居ない小野寺を実感する度にまだ終わっていないのに、と叫びたくなるのだろう。
本音を言えば婚約者が居るなんて、本当に認めたくないし、直接この目で見るまでは信じないとまだ心の中で燻っている。

ただ、俺が何か言う度にすみませんとしか応えないあの噛み合わない会話が好きで、
先輩、と呼ぶ緊張しすぎて震える声が好きで、
赤くなったり青くなったりとコロコロ変わる顔色が好きで、
さらり、と指通りの良い髪を撫でるのが好きで、
一向に慣れない行為に必死についていこうと遠慮がちに俺の背にすがり付いてくる腕がいとおしかっただけなのに。


昨日寝た相手の表情も、仕草も一つも思い出せないのに、…律の事だけは鮮明に思い出せるその意味は…


「高野さん!」


慌てたような心配するような声に意識が浮上する。
瞼を開くと、つり革や手すりがぼやけて見えて、あぁ、電車の中じゃねぇかと一人納得した。
ぱたり、と一度瞬くと目の端から頬にかけて雫が伝うのを感じ、泣いていたのかと冷静にその雫を親指の腹で拭った。
こんな歳にもなって夢見て泣くなんてどんだけ切羽詰まってんだと自嘲の様に笑うと、隣から控え目な声が調子を伺ってきた。


「あの、大丈夫ですか?」
「あ?」
「べ、別に何ともないんじゃ良いんですけど!」


小野寺の方に向くと、うわぁぁぁ!何聞いてんだ俺!?という心の声が聞こえてきそうな程、勢い良くパッと目をそらされて、顔を背けられる。
けれど真っ赤に染まった頬と耳介が横顔からでも伺えて思わずクスリと笑ってしまった。
あの頃隣に置きたくて、一緒に居たかった相手が手を伸ばせば触れられる距離にいる。
そう思うと、考えるより先に手が小野寺の髪に触れた。
くしゃりと撫でるとさらりと流れる手触りの良い髪は、あの頃と何も変わっていない。


「き、急になんですか!?」
「…別に、ただ、何で起こしたか気になったから」
「そ、それは!」


頭から俺の手を払うように手を伸ばしてきた小野寺の照れたように赤く染まる頬を見るだけで心がほわりと暖かくなる。
それだけで、俺は律じゃなきゃダメなのだと実感する。
荒れたときは、律を越える誰かを探して誰彼構わず寝た。
けれどそれも一時の痛み止めのようなもので、ふと思い出すのは律の事ばかり。
どうしても思い出になってくれないのならばせめて好きでいようとようやく心の内で一人そう決められた時に、再会した。
あの頃に比べたら、どうなったのかわからないくらいひん曲がって全っ然素直じゃなくなって可愛くないことこの上ないが、それでも変わらないものも、ある。


「た、高野さんがあんまりにも寝苦しそうだったんで…」
「へぇ、それで?」
「あわよくばそのまま終点まで苦しんでろと思ってたんですけど」
「…最悪だなお前」
「あぁそうですよ最悪ですよ!でも寂しそうすぎて見てらんなくて起こしちゃったんですよ!」


悪いですか!?
と真っ赤な顔で啖呵を切る律に思わず驚きすぎて目を見張る。
確かに10年と言う歳月は人を変える。
けれど、変わらないものも確かにあるのだ。
容量が越えすぎると洪水を起こすかのように本心を溢れさせる所だったり、
無視を決め込もうとしても、変異が起こると見ていられなくなったり。

昔とは変わってしまったけれどそれすらも俺にはいとおしいものでしかないのだ。


「悪くねぇよ。俺、お前のそーゆー所好きだし。」


ぶわわわと更に頬に熱を上げた律にどこまで真っ赤になりゃ気が済むんだよ、茹で蛸になるぞと言いながら掌を重ねてきゅ、と握り込む。
あわあわと慌てて離そうとしてくる律に起こしてくれたお礼だからありがたく受けとれと言うと、セクハラで訴えますよと返された。


「ほんと、ムカツク。昔のお前ならヒャーとか叫んで大喜びしてただろうが」
「それただのアホじゃないですか!」


カンカンに怒り出したその姿に、それでも無理矢理には手を離そうとはしないんだろと小さく呟くと聞こえなかったのか律は眉間にシワを寄せ、片眉を上げた。


「なにか言いました?」
「いや、」


好きで好きで忘れられなかった思いにもう一度チャンスが来るなんてそうそう無いし、わだかまりも少しずつなら解決しつつある。
後はこいつの心を頂くまでだが、如何せん意地っ張りで素直じゃなくなったので骨が折れそうだ。
伝わらなくて腹が立って八割方俺が暴走すると思うが、本当に嫌なら律が俺を蹴り飛ばしてでも振り払えば良いだけの話だ。
それまでは絶対に逃がさない。
後は昔の俺が足りていなかった言葉をきちんと声にしていけば、いつか、必ず。


「俺はお前が好きだよ。」


心の内で叫び続けた言葉を受け止めてその声で表情を変化させてくれることが堪らなく嬉しいから、
今は、下車する駅までの車内で律の鼓膜に睦事を囁いて部屋に連れ込もうと真っ赤に染まった耳介に唇を寄せて、愛を囁いた。






(君は、俺の最初で最後の想い人)




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