モノクロの学生時代から、リクルートスーツを着の身着のまま着せられて、飛び出た先は、目まぐるしく、雑音が多く、そして万華鏡のように変わる世界でもあった。
…なにせ、学生時代は排他的で、他人となるべく関わらないように息を潜めて生きてきたもので。
世の中で蔓延る、大学デビューだとか、飲みサーだとか、急性アルコール中毒で運ばれるだとかのワードを、講堂の生徒たちの世間話やニュースなどで勝手に流れる環境音だと聞き流していたものだ。
そんな時代の流れに逆らうように本の虫と化していた自分が初めて知った酒の味は、20歳の誕生日のその日で、それはもう穏やかに舌を楽しませる程度であった。
向こう1年越しまで埋まっているホテルの最上階のレストランは、専属の音楽家がクラシックをその場で奏でる耳に優しい空間であった。
ボルドーの薫り高い赤が、ワイングラスにゆっくりと注がれ、涼しい音色の乾杯と共に舌に馴染ませたのは、父がこの日のために用意していた自身の生まれ年のワインだった。

「お前が産まれたその日に、嬉しくて嬉しくて、病院から帰る最中に有頂天になって買ってしまった。」

普段口数の少ない父親が、ついつい滑らずにはいられないとばかりに、懐かしそうに20年前を追憶するその目尻の細かい皺を見ながら、曖昧に微笑んでワイングラスを傾けた記憶がうすらぼんやりとある気がする。
「おめでとう」という母親の喜色に富んだ優しいソプラノの声に、優しいフルートの音が重なって聞こえた事は鮮明に覚えてる。

「ありがとう」と応え、はにかむように微笑んでからもう一度喉に流し込んだ、その薫り高い葡萄酒の味は、、



「味はどうだったんだよ?」


はた、と一度瞬いて、自身の目の前のグラスへと目線を落とす。
グラスの中身には、なみなみに注がれた山田錦があり、あぁ、これは飲み会の最中であったかと、ふとアルコールに染まった熱い呼気を吐いてから隣の声の主を見やる。
ザワザワと落ち着かない雰囲気は扉を隔ててすぐの場所で醸し出されているが、それでも大衆観衆といったような場所からは隔離された居酒屋の個室の部屋で、俺は今、上司兼隣人とお酒を嗜んでいた。

お酒を飲む機会は、自身の場合人種が学生から社会人にシフトチェンジした瞬間から急激に跳ね上がった。
しかも親の会社で、自分が最初に配属された部署の文芸部の作家達は皆酒豪が多く、酒を愛して止まない人種がそれはもう、多かった。
やれいいウィスキーが手に入ったから舐めながら打ち合わせをしようだの、いい話が思い浮かばないから赤兎馬を買ってこいだのは日常茶飯事であった。
作家の為、良い作品の為と奔走した結果、その酒類たちが高価で普段の人種は飲み合わせないものであると知った時には時すでに遅し。
普通の居酒屋のウーロンハイだのレモンサワーだのの履修にとてもとても時間を要したのを覚えている。

「これは機会飲酒なので、答える義理はありません。」
「…お前、上司に酌させた瞬間に吐く言葉の機会はそれで合ってると思ってんのか?」
「だまし討ちで機会に持ち込んだアンタに釈明の余地があると思ってんのか!」
「チッ、ああ言えばこういう…」

舌打ちを余儀なくされ、どの口が言うかとやさぐれながら升の中に置いてあるグラスだけを取り出してグラスから酒を煽る。
口当たりが優しい山田錦をガブガブ飲むのはこの後がとてもとても怖いが、飲まなきゃやっていられない夜もある。
今日この場所に自身を置くことを勝手に決めて、拉致監禁に成功した隣の理不尽大魔王は、手酌で同じく一升瓶から酒をグラスに注いでいる。
手酌なぞ、知ったことではないと知らん顔して、自分の酒の方に向き直るとグラスを机に置き、今度は升の方に手を伸ばした。

「こら、小野寺。ペースが早ぇ。刺身を食え刺身を。身体に悪い飲み方するな。」
「アンタは俺の母親ですか?おかーちゃんならおかーちゃんらしく、お酒とご飯を食べに行くからお車にのんなさいって予告しろってんだ。」
「ハッ、予告すりゃ定刻と同時に競走馬待った無しな勢いでエレベーターにかちこみかけるくせによく言うぜ。俺はお前みたいなデカくてヘソがひん曲がってる息子なんて産みたかねーよ。」
「俺だって拉致られる心配がなければばんえい馬くらいのスピードになりますよ!」
「…お前がばんえい馬…?片腹いてーわ。ドーピングして出直せ。」

ああ言えばこう言うのはどっちのことだと、鼻で笑いながら俺の皿にどんどこ刺身を盛っていく上司をジト目で睨み、歯噛みをするのを堪えて、かわりによそられたプリプリと弾力のあるタコを前歯で思いっきり取り込んだ。
咀嚼していくうちにこのタコが己の血となり肉となるのだ。
ばんえい馬のような強靭な肉体に繋がる第一歩となるであろうそれを噛みつつ、咀嚼する毎にこれでもかと満腹を訴えはじめた胃袋を抑えて早速無理だと内心白旗を振った。

「お前それ食いきらなかったら今日俺の家に泊まりだから。」
「アンタは地獄の門番ですか。」
「なんとでも言え。」

横顔から覗く完全勝利者の笑みに、ばんえい競馬の周りを蹴散らして砂塵を巻き上げ、ペンペン草も残らないようなあの迫力を思い出し、思わずびきりと青筋が浮かびかける。
この人の口車に負けたら終わりだと思うのに、カラカラ歯車を回すハムスターさながら、上手に歯車を回すように誘導されているようで本当に心の底から腹立たしい。
自身の心の地獄の中で、隣の男をグラグラ煮立ったマグマの竃にぶち込みながら、行き先閻魔と行き先指定をドカンと貼り付ける。
そのよく回る舌の根が乾かぬうちに、美濃閻魔大魔王に無限マグマの刑に処されればいいのだ。永遠に苦しんでのたうち回ればいい。

「お前今絶対不穏なこと考えただろ。」
「なんとでも仰ってください。」

ふい、とそっぽを向いてグラスを傾けようとすると、右腕が捕まり、とん、とグラスが机の上に置かれる。
じんわりと腕から広がる自身ではない、別の体温にあぁ、捕まったと諦めにも似た感情が湧き上がる。

「……律、」

あぁ、本当にやめてほしい。
目は口ほどに物を言うという言葉は、この人にとっては、声色ほど物を言うの間違いではないかと、ただ名前を音に乗せられただけなのにそう思わされてしまう。
ふ、と力が抜けるグラスを持つ掌を、待ってましたとばかりにグラスから外され、掴まれて声色で絡め取られるだけでなく、身体の一部まで捕まってしまった。
言葉を促すかのように親指で手の甲を撫でられ、隣の隣人の体温が染み込んでいくようで、ふ、っと呼気を吐いてから感覚を逃がそうと口を開いた。
いや、開かさせられた。

「……味なんてわかりませんよ、だって、20歳の若造ですよ?苦くて苦くて、とても渋くて、深みが複雑すぎて、飲み込むのにひと苦労しました。」

吐露させられる、あの日の思い出。
銘柄は後で教えてもらっていたから、そんな大層なものを20年も熟成させて、そしてその日のためだけに管理をお願いして一思いにポンと開けてしまった父親の懐の大きさに度肝を抜かれたし、そこまで大切に想ってくれていたことに面映ゆさを覚えた記憶もある。

自身が苦労して、ひとくち舐めるだけでぶわりと口の中に広がる風味に四苦八苦しているうちに、スルスルとグラスの中身を開けていく父が本当に大人なのだと魅せられた事も、
そして、

こうして苦い思い出も、苦しい想いもこの液体で飲み干してしまいなさいと、大人の処世術を学ばされた気になって心に隙間風が吹いた事も鮮明に覚えている。

「大人になるってこういう事なんだなって、そう思いましたね、…でも、両親がきっちり俺が成人になるまでワインをもってくれていたこと、大切に大切に熟成させて大人になるのを待っていてくれたんだなっていう、嬉しさも相まって…しっかり飲めた記憶があります。」

その頃の事を思い出しながら、口元を緩めて少し笑う。
語ったことは本当であるが、実は少しだけ付け足す事もある。
グラス1杯分、きっちりボルドーを飲み干したそのすぐあとに、小野寺はほんのちょっぴり泣いてしまったのだ。
両親はギョッとして、本当に驚いた顔をして慌てていたから、申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだけれど、忘れて、完全に消し去った高校時代の思い出と、ワインの味がとても似通っていて。
そして、それを飲み干さなければならない事に、大人になる階段を駆け上がるその時に、ようやっと、燻って小さくなって、そうして幼い傷になったと思い込んでいた傷が大きく疼きだしてしまったのだ。
この感情は置いてけぼりにしなければならないのだと、幼い恋心なんて、大人には不必要なのだからと。

心で理解した瞬間と、胃にボルドーを収めきったのは同時だった。
それから、少しワインは苦手だったりする事も。

苦い思い出と共にあの頃の心苦しさが蘇って、眉が落ちそうになるのを堪え、さて、つまらない話もこれくらいにしましょうと話を転換させようとすると、くい、と掌を引かれ、上体が隣に倒れ、唇が重なる。
ただ触れるだけの口付け。
驚いて固まったままの己を動かすかのように、唇に彼の呼気が触れ、ふっと息を吹き返させるかのように、吐息を送られる。
バチリと瞳を瞬くと、黒曜石の瞳が真摯な瞳でこちらを射抜いてくる。

「お前がワイン嫌いでいてくれてよかった。」
「な…で、それを…」
「お前、酒に弱いくせにやたら酒の銘柄知ってんじゃん。しかもどれも玄人向けの一般流通してないツウなヤツ。でもワインだけは銘柄聞かねーからなんでかなって思ってな」

自身の驚きに見開く瞳を、焦点がブレないギリギリの距離で見据えるのを保ちながら、それでも嬉しそうに笑みを穿く口元に、バクバクとお酒の力ではない影響で心拍数が上がる。
思わず、今日一度も呼んでいない彼の名前を呼ぶくらいには動揺させられた。

「た…かのさん、」
「絡み酒愚痴派、だからきっと飲む種類は選んでる。自分が飲めるもんを選んで飲んで、思いっきり愚痴吐き出せるモンをその舌で吟味して、口当たりがいいもんばっかり当てて美味いもんで腹満たして、溜め込んだもんようやっと吐き出せる。それでも吐き出せないから飲まない酒の種類がひとつだけ、…だろ?」
「た、」
「ストップ」
「んう、」

長年秘めていた、ひとりだけで抱えていた秘密が、そのたったひとつを知られたくなかった人に知られる恐怖と、…期待。
絡まった糸を解き明かすかのように楽しそうに目尻を下げる彼の様相を見ながら、それ以上は言わせまいと彼を呼ぶと、ピタリと人差し指で半開きになっていた唇を押さえられる。
中途半端にさせられたその場所から、ゆるりと前歯をたどって口の中に入ってくる指先にあっという間に翻弄されて、涙目になっている俺を眺めながら、うっそりとその秘密を握ったその人は笑うのだ。

「泣きたかったら泣けよ。苦いも深いも飲み込めなくて、オトナになりたくないって泣いて縋って、初恋捨てずに腹の奥底で抱えてくれてた誰かさんに俺は心底愛されてるし、俺ももちろん愛してる。だからお前は泣き顔くらい見せろよ。」

そんな無茶苦茶な。
そう回した頭の思考を置いてけぼりにして、心はストンと腑に落ちたようだ。
じわじわと湧き上がる涙色の視界で、優しく彼が笑っているのを見たのが最後、ぼろぼろと、決壊したかのように落ちる涙に顔を下げたくて仕方がなかったけれど。
口の中に指は入れられたままだし、手慰みのように舌を弄られ、苦しいしで涙はますます止まらないし、そんな俺を見てクスクス笑いながら閻魔大魔王に送ったはずの地獄の門番が、目の前にいて目尻にキスをしてくるものだから、
全部コイツのせいだと思いながら、決して離されないように、地獄の門番の脇腹を掴んで離さないようにする事に必死になるしかないのだ。
あの時、離したくて、切り離せなかった、心の内側と同じように。



(それで?そのワインの銘柄はなんだったんだよ?)
(ぐす…父親が大盤振る舞いで買ったらしいので、ロマネ・コンティだったらしいです…)
(ハタチでロマネ・コンティ…お前ん家の舌の完成度の形成の仕方えげつねぇな…)
(…その完成度高い舌を散々弄くり回して痺れさせた人が何を言いますか…)
(あ?今日は帰らせねーし、明日の朝飯も食わせるからいーんだよ。)
(!?んなっ、)
(あんな顔させられて帰せるかっつーの。高級な馬鹿舌に酸いも甘いも、たっぷり俺が仕込んでやるよ。)
(ななな、何を言ってるかわかってんですかアンタ!?)




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