生まれつき、眼底が弱いらしい。

それを知ったのは目まぐるしく回るある日の静かな終電の中であった。
いつ聞いたという正確な日までは覚えていないが、中学の頃から眼鏡をかけるのが嫌で、騙し騙し眼鏡をかけずに高校生活を送っていたらしい。
大概は意識も虚ろな夢うつつの中で寝過ごさないようにと、ただ言葉を紡いでいるだけであるから車内での会話など覚えていないことがほとんどなのだが、何故かそんな些細なことは記憶していた。

意外だったからかもしれない。
あの上から目線の口調で何処にでも敵を作り、どこまでも真っ向勝負。正面から面白い漫画、毎月手にとって貰う雑誌を売ることを心情に勝ち取ってきたその功績で、エメラルドを会社の看板雑誌に伸し上げた腕の持ち主に弱いところがあったのかと純粋に思ってしまったから、眠気に半数の思考を持っていかれた霞みがかった脳でも覚えていたのだと思う。


「目、痛むんですか?」


入稿日当日の夜中。
何かの間違いでは無いかとカレンダーを50回は確認して、夢じゃないかと頬を叩き合った後、夢だったら怖いから早々に帰ろうよ。と各々恐怖感を持ちながら、結果的に奇跡のようなスムーズさをもって全原稿の入稿を終えた今日は、毎月時計を睨み付け、時間よ止まれと止まらない秒針と闘いながら、ギリギリと歯を鳴らして原稿を待つ同僚の姿も無く、静かで穏やかな滅多に無いエメラルド編集部の姿があった。
残っているのは俺と高野さんの二人だけ。
そんな、調子が狂うような珍しい日に、デスクワークに勤しんでいる編集長の姿を眺めながら、ふと思った言葉をそのまま吐露すると、高野さんは驚いたように黒曜石のような黒い瞳を見開いた。
何か変なことを言ったかなと首を傾げたくなったが、あまりに驚いているので眉間に皺が寄ってしまった。
俺は、本の虫とは良く言ったものの、幸いにして視力は落ちなかった。
だから視力が悪い人の見る世界など知る由もないし、レンズを通すことでどれ程目に疲労が蓄積されるかも体感したことが無いから分からない。
けれど、以前それなら試してみろと手渡された高野さんの眼鏡をかけた瞬間、世界が回るようにグニャリとねじ曲がるのを見るのが早いか、突き刺すような目の痛みを体感するのが早いかで直ぐ様その黒縁を外したことは覚えている。その姿を見ていた高野さんに一頻り笑われた後、まぁ見なくて良いものがボヤけるのは良いことだとふと自嘲のように笑って言った言葉が引っかかって離れなかった。
だから思ったのだ。あれほど細かい指示を出し、誰よりもネームを確認して、尚且つ眠っていない体であの人の視覚は疲労に今どれ程悲鳴を上げているのだろうと。
だから紡いでいた。電気をつけることをすっかり忘れていた暗い室内で、手元しか照らさないスタンドライトのみで仕事をこなしている高野さんに。
眉間に皺が寄っていることを悟られたらしく、パタリと持っていたボールペンをデスクに放る音がしたかと思えば、ふと短く息をつく気配がした。


「小野寺、」


名を呼ばれ、椅子を引く音がする。眼鏡を外すカチャリという音を合図に自分もデスクを離れて、高野さんが座るその場所へと足を運んだ。
歩み寄ると、痛みを散らすかのように目蓋を閉じたその姿が痛々しくて、声をかけるのを躊躇った。


「律」


優しい、優しい声。
そんな声で俺を呼びながら、その瞳で何を思い、何を見てきたのだろうと思うと目頭が熱くなった。
見て見ぬ振りが上手い俺とは違って、何事にも真っ直ぐ、誠実に向き合おうとするその瞳の奥ではきっと、俺とは比べ物にならないくらいの傷や痛みを湛えている筈なのに、それでも尚、この人は人と視線を合わせることを恐れない。
それが例え、拒否の言葉を繰り返してきた俺であったとしても。


「お前が悪いんだからな、こんな目蓋が重くて熱くてズキズキ痛い時に目蓋なんか閉じらせるから」


高野さんが目蓋を押し上げるのと同時に頬を滑った涙が、ただの生理現象だと分かっていても、どうしてだか込み上げて来るものがあった。
弱みがあるのに、そこすら武器にして前に突き進んでいってしまうから、傷付いてもそれを傷として扱わない。涙すら流さない。
決して強いわけでは無いのに。


「はは、鬼の目にも涙だな」
「…っ、そっくりそのまま返してやりますよ」
「可愛くねーの、」


自分にいっぱいいっぱいで自分の為に泣いてばかりいた無慈悲な俺をそれで良いとばかりにクスクスと穏やかに笑いながら、優しい仕事の鬼は、そっと俺の冷たい掌をその大きな掌で包み込んだ。


「見たいものすら歪むのは考えものだよな。俺のために初めて泣いてくれた恋人の可愛い顔すらのっぺらぼうに変えやがるとかてんで空気読めねぇよ」


本当に残念そうに紡ぐその声が可笑しくて、暗い室内で尚且つ視界が効かないことを良いことに、疲れ目の目蓋へと唇を寄せた。
初めて寄せる薄い皮膚は、痛々しいほどに熱く、僅かに震えているのが唇越しに伝わったけれど、手を握るその掌は俺の腕を引くと、その腕の中へと抱き込んだ。

間近で見た、目尻がほんのり赤く染まっているのを見つけた時、鬼じゃなくてウサギだったなと胸の内で笑った事はこの人には内緒にしておこうと思う。










(平然とした顔で問いかけられた言葉に、弛んだのは心か、涙腺か。
それでも嬉しいと純粋に思ったのは…お前だから)






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