そのときはいきなりやって来た。
「ちょ、高野さん何を…ってうわっ!?」

深夜、作家さんから送られてきたネームの直しにドン詰まり、進行上、絶対今日までにネームを完成させておかなければならないいつかと全く一緒の状態のデジャヴに正味30分は悩みに悩んで、向かない気と、嫌だ嫌だと叫ぶ心に鞭打って、泣く泣く高野さんに知恵を請いに隣の家のインターフォンを鳴らしたのが2時間前。
案の定、負け犬が背水の陣に立たされているような状態の、ネームの束と赤ペンだけを握って訪ねてきた俺を、玄関を開けて一目見たと同時に編集長様々は盛大に鼻で笑い、思わず回れ右しかけた所をフードをガッチリと捕まれて、室内に放り込まれたのも2時間前。
それなのに何故、最終確認で目を通し終わった筈の俺は今この人に腰をガッシリと捕まれて床に引き倒されているのか。


「ちょ、もう本当に帰りますって!これ直ぐに送り返さないと入稿絶対大変なことになるんですよ!」
「耳元でギャーギャー叫ぶな。キンキンする。」
「ヘルツの問題じゃなくて時間の問題なんです!送り返したい一分一秒がボリュームにかわってるんですよ!」
「うるせーなぁ、眠いんだよ」


じゃあベッドで寝てくださいよ!お願いだから!と俺の目の前で同じく寝そべっている高野さんに半泣きのように叫ぶと何が可笑しいのか、くくくと喉で押し笑う声が聞こえてきた。
その声にジト目で高野さんの顔を見上げると、からかってんだったら早く離してくださいよ、と腰を抱くその手を強めに叩いた。


「上司が睡眠削って見てやったのにお礼も無しにとんぼ返りなんて良い身分なんじゃねぇの?」
「すみませんねぇ、ひとりでネーム直しの判別がつかないような使えない編集で。いつでも異動願出しますから必要なら言ってください!」
「ったく、ひねてんなぁ。そこまで言ってねーだろ。つうかあれ俺に今日見せてなかったら明日朝イチで怒鳴り決定だったな。」


悩んで良かった…!30分…!と高野さんに気付かれないように心の中で全力で安堵していると、仕方ねぇなぁ、と名残惜しそうに溜め息をつかれ、腰に回されていた腕の重さが離れていく。
良かった…!今日は開放される…!と実は高野さんが近すぎてばくばくと鳴っていた心臓を宥めながら、上半身を起こすと、この横暴編集長の気が変わらない内にと素早くネームを引き寄せて、手に持ち部屋を辞そうと腰をあげた。


「本当にありがとうございました。ではまた明日、おやすみな、」
「5分」
「は?」


俺の言葉を遮って、未だ床に寝そべったままの高野さんは、フローリングにその黒髪を散らしたままの状態で俺を見上げると、今にも微睡みそうな声で言葉を紡いだ。

「5分だけくれてやるから…帰ってこいよ。」
「いやいや、意味分かんないですから。ここ俺の家じゃないですからね。」
「俺、ここから動けそうにねー、し。鍵も開けっぱになるから戸締まりだけ、頼むわ。」
「なに言ってんですかあんた!そんな所で寝たら風邪引きますよ!?」
「眠り浅いから俺。物音で直ぐ起きるし、お前が来たらベッドに行く。だから小野寺、添い寝しろ。」
「お断りしま」
「編集長命令。」


最後の気力使ってネーム直し手伝ってやったんだからお礼位しろよ。といつもより覇気を無くしたゆったりとした声で紡がれる言葉に、寝る直前までなんて傍若無人なんだこの人は…!と思わず手にしていたネームの直しにパキペキと力を入れていると、俺の様子など関係無しに、パタリとゆっくりと瞬かれていた瞼が限界を越えたように閉じられ、それと同時にすー、という穏やかな寝息が静かな室内に溶け込んでいく。


「…本当に寝ますか普通。」


イライラしていたのが馬鹿らしくなるくらいの清々しいオヤスミ3秒っぷりに思わず呆れ返る。
けれど、そのゆったりとした寝息には似合わない眉間の皺が、サラリと流れた硬質の髪の間から伺えて、寝るときくらいもう少し気を抜いていれば良いのに、とその不器用っぷりに嘆息した。
フローリングに直に置かれた頭の枕にすれば良いものを、横向きに投げ出された両の手は、先程までの温もりを待つかのように広げられたまま、動く気配が微塵もない。


「猫だってカーペットとか座布団の上で寝ますよ、ちょっと考えたらどうなんですか。」


無防備すぎるその姿に膝を折って、思わず黒いぬばたまのような髪に手を伸ばして、起こさないように恐る恐る触れると、険しかった表情が一瞬だけ穏やかなそれに変わった気がした。
気温と相乗するように、冷たくなった指先が、眠りについたことによって体温の上がった額にかすってしまったというのに、起きる気配どころかその感触すら甘受するようなまろやかな寝顔。
眠りが浅いというのは、仕事中連発される欠伸の数や、電車内で惰眠を貪っているのを見ているので何となく気づいていたが、以前言われた、お前の隣は良く寝れるというあの言葉はあながち嘘では無いのかもしれないと、今目の前でこんこんと眠るこの姿と、情事後自身の隣でぐっすりと眠る高野さんの寝顔をしげしげと思い浮かべながら、律は1人納得していた。
俺が出来る事ならなんだってするのに。とふと思い至った考えにぶわりと顔を赤くすると、慌ただしく立ち上がる。何を考えて、何を思ったかなんて反想するのすら恥ずかしい。
動いたことによって、冷気も一緒に起こってしまったのだろう、頬を撫でた冷たい風にむずがる様に眉間に皺を寄せて、僅かに目蓋を押し上げた黒曜石の瞳と視線がかち合った。


「…お、くり…おわった?」
「今からですから、まだもうちょっと待っててください!あと、節々と腰悪くしますから今のうちにベッドに移動してくださいちゃんと来ますから!」


寝起き独特の僅かに掠れる低い声が鼓膜を揺らしてドクリと心臓が高鳴る。
ゆるりと無自覚だろう向けられた甘い微笑に、パッと目を背けると、言い逃げるように言葉を捨て置いてバタバタと足を玄関へと向ける。
あの声も、顔も完全に反則だ。いつもなら、後3分、等とカウントを付け置く筈なのに、ほわりと珍しく優しく笑んだ後、大人しく身体を起き上がらせようとしていたのが視界の縁で僅かに見えた。
熱い頬を冷ますように冷たい掌の甲を頬に押し当てながら、忙しなく履いてきた靴を引っ掛ける。

きっと、あのままであれば、俺の言付け通り、あのふかふかの布団にくるまってすやすやと眠りに入るに違いない。
ならば、戸締まりをして俺は自宅で寝れば良いだけの話になり、横暴な上司にやっと一子報いたと手放して喜べる所が、そうもいかなくなってしまった。
甘やかすのも、甘やかされるのもあの人から俺が一方通行に貰われているだけだと思っていたのに、あの人の最大の弱味を不可抗力とは言え、握らされた。
幼子が絶対の信頼を置き、暖かく幸せに安心して眠れる場所が母親にあるように、高野さんにとっての絶対無二の場所。
それが自分だと思うのは多分自惚れでは無い筈で、何よりあのほわりと緩ませた表情が物語っているので間違いではない。
そして、心臓には悪いが実は以外と高野さんの表情筋は豊かに動く方なので、あの緩みきって、安心しきった表情を向けられることは然程問題ではない。

そう、問題は、
高野さんに助けられて、散々救ってもらってるんだから、せめてあの穏やかな眠りくらいは守ってあげたい等と指先を髪に滑らせたあの瞬間思ってしまった自分自身にあるのだ。

ガチャガチャと音を立てて鍵を開けると、玄関を開け、自室へと入る。爪先に絡まる靴がなかなか脱げないのがまどろっこしくて、足を振って靴を払い落とす。
どうかしてる。
あの、声と表情ひとつで、一秒でも早くあの人の隣に帰って夢へと旅立つその瞬間を穏やかなものにしてあげたいと思うなんて。

FAXを作家に流すと、確認も早々に直ぐ様踵を返す。折角帰ってきた自宅から出て、もう一度鍵をかけると、溜め息をつく。
ほだされる、というのはこう言う事なのかもしれない。
けれど、人を散々甘やかすくせに寂しくないと言う虚勢を必死に張って、ギリギリまでその様相を崩さない甘えベタが、そのギリギリの境界を保てないくらいの素顔を無防備に晒す瞬間に、一緒に居て欲しいと乞われるのなら居ようと思ったまでの事。
自分の行動を何かと正当化しないと、顔の熱だったり心臓がはち切れそうになるのでそう割りきるとひとつだけ深呼吸をして、自分の家と全く同じ作りの玄関のドアノブを握る。
戸締まりをして、ベッドに歩み寄った瞬間、今か今かと待っていたらしい微睡みの中から一瞬だけ意識を浮上させた家主は、ほわりと甘い笑みを浮かべたかと思うと、俺の腕を引き寄せて、白いシーツの波へと引き込んだ。
腰に回された編集者とは思えないしっかりとした腕と、頭の下に差し入れられた腕のせいで、高野さんの白いシャツに顔を寄せる体制になる。


「おやすみ、律」


満足したように、一言、やっとの思いで紡ぎ出した様な音を俺の頭の上から落として、高野さんは深い眠りに落ちていく。
眠っている時独特の温かい体温と、自身が纏ってきた冷たくなった体温が徐々に揃うその感覚にほうと息をついた。
この距離が境界を越えたと言うのなら、なんて子供染みた、と笑われるかもしれない。
けれど、先までの寝苦しそうな寝顔が安心しきった優しい顔に変わっているこの人の表情を見ていると子供じみていても良いとすら思えてくる。


「…お休みなさい。」


良い夢を、なんて言っておきながら自分自身はしばらく眠れなさそうな心臓の音を聞かないふりをして、ゆっくりと瞳を閉じた。
あわよくば明日の朝の寝起きも良いものでありますようにと心の奥底で思いながら。





(…なぁ、小野寺。何で俺ら同衾してんの。)
(朝から第一声がそれですか!寝惚けてるときも記憶力発揮しといてくださいよ!てゆか同衾って言うな!)






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