満月の晩、リーマスはベッドの周りを囲う天蓋をわずかに開いた。
異国の文字が書かれた紙の鳥が窓際で月の光を浴びているのが見える。
“肩たたき券”はこれで3つ目だ。
最初はただの白い紙に書かれたものを、次に長く連なったものを、そして昨日は紙で作った鳥をレナは持ってきた。
“折鶴”というのだと彼女は言った。
「券じゃないね」と笑うとムキになって言い訳を始めるレナはいつも全力で見ているこちらが元気になる。
ハリーといいレナといい、子ども達のほうが自分よりもよっぽど強い。
逆境にも負けず、なんとか適応しようとし、楽しもうとさえするレナの姿にはいつも感心させられる。
心配していた言葉の壁も乗り越えつつある。
レナを見習い、いつか機会があれば日本語も学んでみたいとリーマスは思った。
「機会があれば、だけどね」
寂しい独り言は、小さな唸り声となって夜の闇に消えた。
犬嫌いだという彼女が、リーマスが狼の、しかも化け物だと知ったらどうなるかと考えると恐ろしい。
せっかく魔法界を楽しんでいるというのに、水をさしてしまいかねない。
いい思い出が、いっきに崩れ去ってしまう可能性がある。
(レナのためにも、なるべく距離を置いたほうがいい……)
レナがリーマスに好意のようなものを抱いているのはなんとなく感じていた。
それはきっと子ども特有の大人への憧れだとか、見知らぬ土地で頼れる数少ない存在への依存であって一過性のものなのだろうが、手放すには惜しいものだった。
好かれて悪い気はしないし、“教師と生徒”とも“保護者と子ども”とも違う特殊な関係性が新鮮で興味深く、何よりリーマス自身が楽しかった。
普段は自分の身体のことを考慮して深入りさせないようにするのだが、レナの場合は特別だ。
“ポートキーが直るまで”という期間が限られた関係が、リーマスの気を大きくさせている。
期間が限られているからこそ深入りしてはいけないという面もあるのだが、どうせ近い将来離れなければならないのだから少しくらい依存してもいいかなと甘い考えを捨てきれない。
人狼だと悟られないように一定の距離は置きたいが、繋ぎとめておきたい、自分のわがままだった。
ハリーとの練習のことを告げたときにすごく寂しそうな表情を見せたのも、その後クリスマスの話をしたときに喜んでいたのも、実は少し嬉しかった。
(私らしくもない)
変なことを考えるのはきっと満月のせいだ。
そう結論づけ、リーマスは天蓋をめくっていた手を離し、分厚い天蓋で囲まれた暗闇の檻の中で膝を抱えた。
結局たいして距離を置くことができないまま、1月が過ぎ、2月が過ぎ、3月がやってきた。
ホグズミード休暇をリーマスの部屋で過ごすのが定着したレナは、今日もまたやってきている。
3月10日はレナが言っていた向こうの学校の卒業式だからもしかしたら帰ることになるかもしれないと思ったが、ダンブルドアからは何も知らせが入らなかった。
『あ、リーマス、取れかけてる。――そこ、ボタン』
ティータイムで正面に座ったレナがリーマスを指差しながら言った。
視線をたどると、カーディガンのボタンが1つ穴から飛び出していた。
一応つながってはいるものの、少し引っ張ったら簡単に取れてしまいそうだ。
「修復魔法は得意じゃないから直してもすぐに戻っちゃうんだよね」
『そんなことにまで魔法使わなくてもよくない?』
めんどくさそうに杖を取り出すリーマスを見て、レナが驚きの声をあげる。
そして『貸して』と言って半ば強引にカーディガンを奪った。
あっけに取られるリーマスを尻目に、レナはその辺を物色して手ごろなものを針と糸に変え、ボタンを付け始めた。
「へえ、器用だね」
『授業で――あ、向こうのね――習ったから、このくらいなら魔法なくても余裕余裕』
「魔法、使ってたけどね」
『あれはいいの!針と糸なかったから仕方ないの!』
つい出た意地悪な言葉にプンプン怒りながらレナはリーマスに完成したカーディガンをつき返した。
何重にもぐるぐるまきにされたボタンは、他のに比べて少し飛び出てしまっている。
そして向きが縦だ。
「ありがとう。助かるよ」
あまり手際がいいとは言えないが、魔法で治してしまうよりも味があっていいだろう。
何より頑丈そうだ。
「上手になったね」
『それ嫌味?自慢じゃないけど家庭科3だから』
「カテ……?変身術のことだよ。ずいぶん上達してる」
自由にできる時間が多いからなのか、変身術に特化して勉強しているからなのか、はたまたもともとセンスがあるのか。
レナの変身術の習得の早さには目を見張るものがあった。
このままここで学べば本当にアニメーガスになることもできるんじゃないかと思えるほどだ。
それをレナに伝えると、一瞬パッと顔を輝かせたあと、なぜか疑いの目を向けてきた。
『ほめても何も出ないんだからね』
「別に何かを期待してほめているわけじゃないよ。思ったことをそのまま言っているだけだ。レナはいいお嫁さんになると思うよ」
『……狼少年って話、知ってる?』
「いや。どんな話だい?」
唐突に出てきたあまりにも自分にぴったりな単語に、ドキッとする。
自然体を装ってカーディガンを着直したついでに立ち上がり、カップを片付けるためにレナに背を向けた。
『嘘ばっかり言ってると肝心なときに信用してもらえないよって話!』
「嘘はついてないんだけどなあ」
言っていないことがあるだけだ。
自分を偽っているという意味では嘘つきかもしれないが――。
片付けを終えたリーマスが振り返ると、レナがふてくされた顔で杖を取り出し、机の上に小物を並べていた。
休憩は終わりだと判断し、浮遊呪文の練習の準備を始めたようだ。
『冗談とかいじわるとか言うじゃん。もう騙されないんだからね』
「それは嘘とは言わなくない?」
『いいの。同じなの』
「ええと、つまり、からかいすぎて信用がなくなっているということかな?」
『そういうこと』
「うーん……それは困るなあ。なるべく控えるようにするよ」
『わー、心こもってなーい……ってやっぱりからかってたの!?』
「嘘うそ冗談」
『ほらもう言ってる!てかいまのは嘘ってのが嘘!狼少年!狼おじさん!』
悔しそうに地団駄を踏む姿が微笑ましくて、やはり控えるのは難しそうだとリーマスは思った。
(そういう反応をするからからかわれるんだよ)
最近リーマスへの当たりが強くなってきたのはこのせいかと思ったら自然と口元が緩んだ。
レナがいると本当に飽きない。
『他人で遊んでいるとそのうちバチが当たるんだから』
「そうだね」
リーマスはレナが飛ばす折鶴を眺めながら上の空で答えた。
いつまでもこんな平和が続くわけではないことはわかっていた。
しかし、リーマスが思っていたよりも早く、予想外の形で事件は起こった。
突然暖炉が緑色の炎をあげ、「ルーピン!」という怒りの声が聞こえてくる。
驚いたレナが、杖を構えた格好のまま固まった。
視線を暖炉に移したため、折鶴が床に落ちてしまう。
リーマスは折鶴を拾って手渡し、「静かに」と口に指を当て、そのまま奥に行くよう手で伝えた。
「話がある!」
「はい、はい。いま行くよ」
向こうから来ると言われる前にこちらから向かう旨を伝え、暖炉の中へ入る。
移動した先には、声の主であるセブルス・スネイプと、ハリー・ポッターがいた。
憩いのひと時を邪魔された文句を言いたくなるのを我慢し、リーマスは穏やかな表情を向けた。
「セブルス、呼んだかい?」
「いましがた、ポッターにポケットの中身を出すように言ったところ、こんなものを持っていた」
怒れるスネイプは羊皮紙を1枚、リーマスに見せた。
ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズという名前と、スネイプを侮辱する言葉が書き連ねてある。
――忍びの地図だ。
衝撃的だった。
大昔にフィルチが自分達から没収したものだ。
緊張を悟られないよう、羊皮紙をよく見るふりをして顔を隠す。
「この羊皮紙には闇の魔術が詰め込まれている。ルーピン、君の専門分野だと拝察するが、ポッターがどこでこんなものを手に入れたと思うかね?」
スネイプの聞き方は、何か確信を得ているような話し方だった。
目だけを動かしハリーの様子を窺うと、不安と困惑が入り混じった表情をしていた。
知っているかどうかは別にして、スネイプには何も話していないようだ。
リーマスはそのまま黙っているようにと目で警告し、努めていつも通りの表情を作ってからスネイプに答えた。
「闇の魔術が詰まっている?私が見るところ、無理に読もうとする者を侮辱するだけの羊皮紙に過ぎないように見えるが。ハリーは悪戯専門店で手に入れたのだと思うよ」
「そうかね?むしろ、直接製作者から入手した可能性が高いとは思わんのか?」
「ここに名前が書かれている連中の誰かからという意味?ハリー、この中に誰か知っている人はいるかい?」
「いいえ」
ハリーは即答した。
スネイプが怒りと疑いの目を向ける。
「セブルス、聞いただろう?私にはゾンゴの商品のように見えるがね――」
合図を待っていたかのように、ロンが研究室に飛び込んできた。
胸を押さえながら、それは自分があげたものだと途切れ途切れにしゃべる。
「ゾンゴで――ずいぶん前に――それを――買いました……」
「ほら!これではっきりした。セブルス、これはわたしが引き取ろう。いいね?」
納得のいかないスネイプが再度確認をしようと羊皮紙に手を伸ばしたので、リーマスはさっと丸めてローブにしまい込んだ。
文句を言う間を与えず、ハリーとロンを呼び、開けっ放しのドアから廊下へ出る。
目的地を決めずにずんずん進み、玄関ホールにたどり着いた。
「先生、僕――」
「事情を聞こうとは思わない」
口を開いたハリーが最後まで言うのを待たず、リーマスは短く答えた。
それから玄関ホールを見回し、誰もいないことを確認してから声をひそめて言った。
「何年も前にフィルチさんがこの地図を没収したことを、わたしはたまたま知っているんだ。――そう、私はこれが地図だということを知っている」
羊皮紙をしまい込んだ場所をローブの上から触りながら2人の目をのぞき込む。
驚くハリーとロンの反応は、“これが地図だと知っている”反応だった。
これを使って何を見たのかなんて、もちろん聞けない。
「ハリー、この次は庇ってあげられないよ」
頭を抱えたくなる衝動を抑え、静かに息を吐く。
レナの名前を見られていたらという不安は、強引に押し込んだ。
彼らは全校生徒の名前を覚えているわけではない。
知らない名前がホグズミードの日にリーマスの部屋にあったところで気にも留めないだろう。
平日の夜に興味本位でマクゴナガルの私室を見ることもきっとしない。
ハリーが興味を持つとしたら――そう、例えば、ホグズミードへの抜け道などだ。
「君がこれを提出しなかったことに、私は大いに驚いている」
事の重大さを知らせるために、きつく注意をし、返すわけにはいかないと告げる。
打ちひしがれた顔を見て、これで懲りてくれればいいと願った。
「はい。……でも先生」
抗議をするかと思ったハリーは、信じられないことを口にした。
「その地図、間違えていると思います。だって、死んだ人の名前が書かれていたもの」
「死んだ人?」
「ピーター・ペティグリュー」
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