ズキズキという鈍い痛みでレナは目を覚ました。
体を起こすとその痛みは急に増し、眉間にしわを寄せて頭を抱える。
「飲みすぎだ」
『え!?シリウス!?』
「とりあえず顔でもを洗ってさっぱりして来い。部屋を出て右だ」
驚くレナにタオルが投げてよこされる。
言われるがまま部屋を出て、レナはタオルを顔に当てた。
目を開けた瞬間からなんとなくわかっていた。
ここは三本の箒じゃないし、リーマスの家でもない。
『……うわ』
洗面所に入ったレナは、鏡に映った自分の顔を見て愕然とした。
散々酒を飲んで泣いたうえ、そのまま寝たため、ひどい顔になっている。
とても人に見せられるような状態じゃない。
見ないふりをしてくれたシリウスに感謝しながら、レナは部屋に戻った。
『あれ』
部屋はもぬけの空だった。
間違えたかと思い廊下に出ると、いつの間に移動をしたのか、下の階でシリウスが手を振っている。
静かに下りてくるようジェスチャーをされ、レナはなるべく音を立てないように階段を降りた。
ずいぶんと年季が入った建物だ。
レナが初めてリーマスの家に行ったときのように、ところどころにくもの巣があり、壁紙がはがれている箇所もある。
ただ、天井は高く、手すりに装飾があることから見ても、なかなかの豪邸のようだ。
廊下は細いが部屋の数も多い。
手招きされて入った部屋はダイニングキッチンのようだった。
厨房の奥に大きな暖炉があり、真ん中に長い木のテーブルがある。
羊皮紙の巻紙やワインの空き瓶、古い鍋ややかんなどがごちゃっと乗っている。
促されるままに空いている場所に座ると、シリウスは暖かいスープを出してくれた。
「リーマスなら今は任務で出かけている」
おもむろに話し始めた最初の言葉がレナが一番気にしていたことだったので、肩がびくっと跳ねた。
「任務の前に君を迎えに行ったんだが、寝ていて起きなかったようだ。だから私が預かった」
『そうなんだ……』
「勝手に連れてきたのは悪いと思っている。しかし、騎士団を優先せざるを得ない状況なんだ。実感は湧かないかもしれないが、いま、イギリスの魔法界はかつてない重大な危機に陥っている」
冷めないうちに食べろといいながら、シリウスは説明を続けた。
いくつか聞き慣れない単語も出てきたが、だいたいのことは理解できた。
相変わらず現実味のない話ではあるものの、緊迫感はしっかり伝わった。
「リーマスの提案が急だったのは私のせいだ。私がけしかけた。私は隠し事が嫌いでね。信頼している相手ならなおさらだ」
『私は信頼されてないから仕方ないよ……リーマスにはぐらかされてばっかりだもん』
「あいつの場合は逆なんだ。重大なことほど――相手の為を思うときほど、隠して勝手な思い込みで行動したがる」
『隠すことが、私のため?』
「そうだとあいつは思っている。その証拠に、レナの思い出に危険なことや苦いことは必要ないと決めてかかっている。ここに連れてくることも最初は反対していた」
本部にいることである程度の安全は保障されるが、逆に狙われる危険と常に隣りあわせにもなるからだとシリウスは言った。
大怪我をして戻ってくる人や、死を目の当たりにする可能性も出てくると。
過去に出た犠牲者の話はリーマスの説明よりもずっと具体的で、レナの想像力をかきたてた。
ハリーの両親についての話や、学校で亡くなったという生徒の話も、急に生々しく感じられる。
自分の周りでそんなことが起こるかもしれない――。
そう考えたとたん、粗い石壁にできた黒ずみすら血痕に見えてきて、ぞっとした。
『リーマスやシリウスも、そういう危険なことをするの?リーマスが今やってる任務は、そんなに危ないことなの?』
「そこで、だ」
神妙な面持ちをしていたシリウスは、待っていましたとばかりに表情を変えた。
「レナはリーマスが好きか?」
『うん……』
「それなら話は早い。レナがここにいることがリーマスの安全につながる。そう思ってくれ」
『どうして?』
「あいつの気持ちの問題だ。君を1人にしておくことで、リーマスが任務に集中できなくなるかもしれない。それは身の危険にもつながる。君だってリーマスと一緒にいることよりもリーマスの命のほうが大事だろう?」
『それは、命、だけど……』
それはいくらなんでも大げさじゃないかと言いかけたところで、ベルが鳴り、突然大きな声が聞こえた。
しわがれた老婆のような声で、何か悪態をついているようだ。
シリウスは舌打ちをし、廊下を見た。
「ここはひとつ、レナが大人になってやってくれ」
『私が?どうして?』
「あー……これを私が言ったと知られたら怒られるから黙っていてほしいんだが……クソッ、うるせえな!悪いがちょっと行ってくる」
『えっ。言ってから行って!』
「あいつは今、気持ちに余裕がないんだ。どちらを選んでも君を傷つける可能性がある選択を迫られたからね」
部屋を出る直前に言われた言葉が、スープといっしょに、じんわりと体に広がっていく。
言葉の意味を理解するにつれ、ぽかぽかはやがてドキドキに変わった。
(私のせい……?)
あのリーマスが、と思った。
いつも大人の余裕を見せつけて、レナをからかってばかりいたリーマスが、余裕がない。
しかも、レナのことで。
(身の危険に繋がるくらい、私のことが心配なの……?)
バタバタと玄関から走ってくる音が聞こえ、閉めろだの閉めるなだのと声が聞こえてくる。
喧騒はしばらく続き、叫び声は消え、代わりに別の小さな声がした。
何を言っているのかまではわからないが、シリウスと、リーマスの声だ。
だんだん近づいてきて、足音が部屋の前で止まる。
なかなか開かないドアを、レナが開けた。
『お帰り、リーマス』
「……ただいま、レナ」
レナが微笑むと、リーマスからも眉を下げた笑みが返ってきた。
「勝手に話を進めて悪かったと思っている。これはレナのためなんかじゃなくて、私のわがままだ」
『私のほうこそわがまま言ってごめん。学校にいられなくなって、行き場がなくなったからリーマスの家に入れてもらっているってことを忘れてた。他の場所ができたなら、そっちのがいいよね』
「レナ、厄介払いをしたいとか、そういうんじゃないということだけはわかってほしい」
『うん。わかってる』
自分の気持ちを正直に話せないのが大人なのだとしたら、とてもなりたいと思えるものじゃない。
でも、リーマスのためになるのなら、と考え、そうかリーマスも同じような理由で移動を薦めてきたのかもしれないと思ったら、少し気持ちが楽になった。
『前みたいに、たまに会いに来てくれたら嬉しいな』
微笑みを張り付かせたまま言うと、リーマスはレナの頭に手を乗せた。
子ども扱いは変わらずか――そう思ったとき、手のひらが頬を撫でるように滑り降りた。
一瞬手が止まり、哀しい微笑みを向けられる。
しかし、驚いてまばたきをした次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っていた。
手もいつの間にか肩に移動をしていて、ポンポンと励ますように叩かれる。
「私もこちらに移動することにした」
『ほんと!?』
「ほとんど任務で家をあけることになるからね。寝泊りするだけならどこでも変わらない」
「それだけじゃないだろ」
「“レナを私に押し付けるな”ってシリウスに怒られたんだ」
リーマスが肩をすくめ、シリウスは渋い顔をした。
「それに、シリウスがちゃんとレナにアニメーガスを教えているか確認しないといけない」
「おいリーマス。私に任務をやらせないつもりか?」
「そういうつもりじゃないよ」
「そうであってたまるか」
数日前と同じやりとりだ。
そう気づいた3人は目配せしあい、同時に笑った。