「ナマエ」
ざわめきの中で名前を呼ばれた気がした。遠慮がちで包み込むような優しい声――。やわらかくて甘い。雲の上にいるようなふわふわした気分になる。
ここはどこだろう。あたり一面が白くて、マシュマロの中に浮いているようだ。ふわりと目の前に羽が一枚落ちてきて、顔を上げると黒い羽を持った天使(黒いから悪魔だろうか?)が舞い降りてきた。
『セブルス……?』
顔はぼやけて見えなかったが、大好きな彼の姿に見えて思わず胸がときめく。現実ではありえないことに、ああこれは夢なのだとぼんやりと悟った。
『大好き』
手を伸ばして言うと、ふっと笑った顔が降りてきて、少しかさついた柔らかい唇が重ねられる。もうこのままずっと夢の中にいたい……。
――なんて願いは叶えられるはずもなく。
「おい」
うって変わって無機質な声に、現実に引き戻される。周りを見渡すと、授業を終えた生徒たちが廊下へ出ていくところだった。
「いつまで寝ぼけてるんだ。授業ならとっくに終わったぞ」
先程までの甘い雰囲気はどこへやら、いつも通りのそっけない態度でセブルスは私に本を押し付けてきた。寝てるうちに落としてしまっていたらしい、枕代わりにしていた教科書だ。
『うん……私、夢の続き見るからもう1回寝る』
「また口を半開きにした間抜け面晒す気か?」
『え゛』
「よだれのあとついてるぞ」
『うそっ!?』
「嘘だバカ」
あわててごしごしと口の周りをこする私を見て、セブルスが呆れたようなめんどくさそうな困ったような……なんともいえない表情を浮かべた。
セブルスは私を名前で呼んではくれない。「おい」とか「バカ」とか……よくて「お前」か「君」だ。早く夢の中に戻りたいけど、現実のセブルスと話していたいという気持ちもある。寝ても続きが見れるわけではないから、このままでいいかなーなんてぼーっと考えていると、セブルスはイスを引いて隣の席に座り、怪訝そうな顔のまま覗き込んできた。
(うお、顔近づけないでよっ)
さっきまでの夢が頭から離れず、まともにセブルスの顔を見られない。
「続きって……」
『え?』
「夢――どんな夢を見ていたんだ?」
『ひみつ。でも幸せな夢だった』
セブルスが私の名前を呼んでキスしてくれたの――。なんて言えるはずもなく、笑ってごまかすと、セブルスは急に真剣な表情になった。
「その夢に僕が出てきてたのか?」
『な、なんで?』
(まさか、寝言とか言ってないよね……?)
背中に嫌な汗が伝う。夢の中で自分が言ったセリフを思い出し、心拍数が急上昇する。いろんな意味で心臓がバクバクして、口から飛び出してしまいそうだ。
「ナマエが僕の名前を呼んで――」
『きゃーーーー!!』
「――耳元で大声出すな!」
うるさいと顔をしかめ耳を塞ぐセブルス。普段なら急いで謝るところだが、今はそれどころではない。逆に一段と声を大きくしてまくし立てた。
『食べ物!食べ物のを話してたのよ!!マシュマロが大好きって!!!』
「嘘だろ」
『嘘じゃない!夢よ!!』
「は?」
『いいから!夢よ夢!全部夢!夢だからセブルスも忘れて!!』
「嫌だ。……それに、夢じゃない」
目の前にセブルスの顔が広がり、唇にふにっと柔らかいものが押しあてられる。突然のことに思考が追いつかず、さっきと同じ少しカサついた暖かい感触だなぁなんて私はのんきに客観視していた。
(ん?さっき?――え、まさか……えええっ!?)
さっきと同じはずなんてない。だって、そしたら、さっきのキスは……。リアルすぎる夢のキスの感触を思い出し赤面する。
『うそ……』
「嘘でも夢でもない」
『そんな、だって……』
恥ずかしさやら嬉しさやらで感極まって、喉の奥がつかえて言葉が出てこない。多分あれだ、心臓が喉に蓋をしてしまったのだ。出ない言葉の代わりに、目から熱いものが溢れて頬を伝った。
「……すまない」
ナマエの涙を見たセブルスは、別の意味に捉えたのか、ひどく傷ついた顔をした。
「夢だから、忘れてくれ」
違う。忘れたくなんてない。私はずっとセブルスが好きだったから、嬉しいの。これはうれし涙なの。だから待って、行かないで――。
言いたいことがありすぎて、何から言っていいかわからない。うまく声も出てくれないことに焦りを感じ、頭が真っ白になった私は、気づくと立ち去ろうとするセブルスの腕をつかんでいた。
『もう1回して』
かろうじて出てきた言葉がいろいろと手順をすっ飛ばした言葉で、セブルスの顔が赤くなるのを見てやっと自分の発言に気付いた。恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになる。
『ごめ、違っ!えっと、今のナシ!間違い!聞かなかったことにして』
「好きなやつにそんなこと言われて聞かなかったことになんて無理に決まってるだろ!このバカっ」
『好……!?』
掴んでいた腕を逆につかみ返され腕の中に収められ、視界が再び奪われた。
「ナマエ」
抱き寄せられた胸は硬く、先程まで作っていた薬品の香りが染み付いていて、マシュマロの世界とは程遠い。でも、聞こえてくる鼓動と手の温もりが暖かくて、夢の世界よりずっと心地よかった。
『セブルス……大好き』
「僕も同じだ」
「好きだ」と言って近づける顔は今度こそ紛れもなくセブルスのもので、黒い羽はついていなかったけど少し赤みを帯びた柔らかい微笑がはっきりと見て取れた。
『ねえ……さっき寝てる私にキスしたでしょ?』
「無防備な姿を晒してるナマエが悪い」
僕の前以外でやるなよ。そう言って笑う黒い天使は、また視界と唇と、心までも奪っていった。
君をのみ 思ひねに寝し 夢なれば
わが心から 見つるなりけり
想いの強さは、2人とも同じ