夏休みの最終日、ノアはトランクに荷物を詰めながらあっという間に過ぎ去った8月のことを振り返った。
クィレルの作った計画表は実に効率的で、短い間に3年の教科書をひと通り浚うことができた。全てを覚えきった自信はないが、それでもOWLに向けていいスタートがきれるだろう。
特に“古代ルーン語”、“数占い”、“マグル学”の3つは、奇遇にもクィレルが選択していた科目だったおかげで、まったくの未知であるというハンデを覆すことができた。杖を振る必要がない分、細部まで詰めることができるのもありがたい。気になることは聞けるうちに全部聞いておこうというノアの意欲に、クィレルは最後まで舌を巻いていた。
「ま、またマグル学ですか?」
『ですです。すごくおもしろくて、ドハマリしそうです』
「意外ですね……あなたのような純血主義にとっては、な、軟弱でつまらない学科だと思ったのですが……」
『純血主義?私が?そう見えます?』
「見えますが……ち、違うんですか?」
『どうなんでしょう』
純血主義の人たちは好きだ。マグル生まれを蔑んだり、都合の悪い人を家系図から抹消してまで純血を保とうとしているのはどうかと思うけれど、そういう行き過ぎてるところまで含めて素敵だと思う。
ただ、好きだからといって自分も同じ考えかというと、それはちょっと違う。ノアは彼らほど自分に価値を見出せないし、だからこそ血に誇りを持っている彼らに惹かれるのだ。
『“純血主義”主義ってやつだと思います。たぶん』
「は、はあ……」
クィレルはさっぱりわからないという顔をしていた。それはそうだ。自分でもよくわからない。だからノアは、電気について質問をすることでお茶を濁した。
* * *
翌朝、ノアはいつもより1時間も早く目が覚めた。今日から杖を使えるようになるだと思うと、嬉しくて仕方がない。朝ごはんを食べ終わるなり『早く行きましょう』とクィレルを急かし、「汽車の時間は変わりませんよ」と笑われた。
「そ、それから……わ、私は見送りにいけません」
『えっ1人で行くの?』
「す、すみません」
『いえ全然!』
当然のことなのに、ガッカリが顔に出てしまった。ノアは甘えきった考えに侵された自分に鞭を打ち、気を取り直してトランクを玄関まで運んだ。
『荷物よし、切符よし、バス代よし』
「き、気をつけて……ふ、フクロウ便を送ります」
玄関まで見送りに来たクィレルは、最後にハグをしてくれた。すっかり気分を良くしたノアは、『イギリス最高!ハグ文化万歳!』と心の中で叫びながらキングズ・クロス駅へ向かった。
ホームには既に何組かの家族がいた。しかしそれもマグル界とつながる壁付近だけで、後部はガランとしている。ノアは変に目立たないよう適当なところで汽車に乗り込み、貸切気分を味わいながら最後尾の車両を目指した。
(いたいた。ルーピン先生みっけ)
思ったとおり、ルーピン先生は誰よりも早く乗り込んで座席に座っていた。相当眠いのか、窓辺に肘をつき、既にうつらうつらしている。ローブのよれ具合といい、つぎはぎだらけなところといい、組み分け帽子と良い勝負だ。
あまりのくたびれ具合に声をかけていいものか迷っていると、気づいたルーピンが顔をあげて「やあ」と力なく挨拶した。
『こんにちは。良い天気ですね。えっと……あなたもホグワーツに行くんですか?』
とびきりの笑顔を作ってから、ノアは自分がいかに間抜けな質問をしたか気づいて後悔した。空は今にも雨が降り出しそうなほど分厚い雲に覆われているし、ホグワーツ特急に乗っているのだから行き先はホグワーツ以外にありえない。
先んじて接触することで仲良くなり、自分も守護霊の呪文を教えてもらおうと思っていたのに、これでは不審者を見つけて怪しんでいるようだ。
「そうだよ。R.J.ルーピンだ。こう見えても先生でね……今年からだけど」
ルーピンはとても申し訳なさそうに言い、窓にもたれかかった。顔が真っ青で、今にも倒れそうだ。どうして汽車移動なんだろうと思っていたが、もしかしたら、姿くらましできないほど体力を消耗していたのかもしれない。
『あの、大丈夫ですか?』
「ああ。少し眠いだけだよ。昨日は眠れなくてね。久しぶりのホグワーツが楽しみで」
『わかります。私もなかなか寝付けませんでした。あ、これよかったらどうぞ』
嘘をついていることはわかったが、ノアは『ゆっくり休んで下さい』とチョコレートを置いてコンパートメントを出た。ディメンターを退治するところを見たかったけれど仕方がない。これ以上ルーピンに会話を続けさせるのはさすがに気が引ける。
それに、ノアがあのコンパートメントにいたら、ハリー達に3人分の空きがあると判断されない恐れもある。ノアは隣のコンパートメントに入り、さっさと着替えてロックハートに手紙を書いた。
* * *
手紙を書き終わる頃には、ホームが人で一杯になっていた。コンパートメントにも、いつの間にか他の生徒が座っている。そのうちの1人はネビルだった。ピカピカ光る思い出し玉を見て、困り果てた顔をしている。
ハリーたちは汽車が駅を出てカーブを曲がり、スピードを上げた頃になってやってきた。ノアがいるコンパートメントを通り過ぎ、隣を覗いて何か言っている。無事ルーピン先生と旅を共にすることに決めたらしい。
昼下がりになって、通路でまた足音がした。チラリと見えたプラチナブロンドはドラコのもので間違いないだろう。ハリーたちのコンパートメントの方から、気取った声が聞こえてくる。
ややして引き返してきたドラコは、ノアを見つけると無遠慮にドアを開け、同乗者の顔ぶれを見て目を丸くした。
「どうしてこんな場所にいるんだ」
『え。空いていたから座っただけ……です』
「来いよ。みんな向こうにいる」
『うん。でもこれを読んでからにする』
ルーピンの吸魂鬼退治をどうしても見たかったノアは、セオドールの真似をして誘いを断った。ドラコは何か言いたそうにしていたが、結局眉を上げただけで、クラッブとゴイルを引き連れて戻っていった。
「マルフォイの誘いを断るスリザリン生がいるとは思わなかったよ」
足音が去ってから、ネビルが感心したように言った。ノアがそれほど本に夢中ではなかったことは、同じコンパートメントにいたネビルには丸わかりだった。
「スリザリンの連中はみんなマルフォイの言いなりかと思ってたのに」
『私も最初はそう思ってたけど、意外とそうでもないのよ。セオドールだってマイペースだし、ドラコが女の子に命令すること自体がほとんどないし』
「でもわざわざ逆らったりしないだろう?君ってマルフォイよりも立場が上なの?」
『え。立場……は、下じゃないですかね』
下も下、最下層だ。むしろスリザリンヒエラルキーの中に入れてもらえているのかどうかすら怪しい。ピラミッドとは別に、“その他”枠として横に転がっていてもおかしくない。
「寮の条件に合わないっていう意味ならまさに僕がそうだよ……」
ノアのブツブツを聞き取ったネビルは、自分は勇気もないし何をやってもうまくいかないからと苦笑いし、雨で霞む丘陵風景を見てため息をついた。
汽車が北へ進むにつれ、雨はどんどん激しさを増していった。おかげで窓の外は雨足がかすかに光るだけの灰色一色だ。その色も墨色に変わり、やがて通路と荷物棚にランプが灯った。
そろそろだ。ノアは汽車が速度を落とし始めるのを待って、コンパートメントを出た。通路では減速に気づいて準備のために自分のコンパートメントへ向かう生徒と、まだつかないはずだと不思議そうな顔をコンパートメントから突き出す生徒が入り混じっていた。
「何かが乗り込んでくるみたい」
ネビルが顔を出したとき、汽車がガクンと止まった。はるか前方の車両から、荷物が落ちる音が聞こえてくる。そして、何の前触れもなく、灯りが一斉に消えた。
「ヒッ」
真っ暗闇の中で、ネビルの悲鳴がやけに大きく響いた。
「ね、ねえこれって……」
『静かに』
月明かりもなく、真っ暗な車内では、目的のドアを見つけることすら難しい。なんとか手探りで取っ手を見つけて横に引くと、そこに手をついていたらしいネビルが支えを失ってすっころんでいく気配がした。
『あ、ごめん』
「大丈夫――アイタ!ごめんね!誰だかわからないけど――」
「やあ、ネビル。大丈夫だよ。座って」
暗闇の中からハリーの声が聞こえたとき、汽車の中が急激に冷え込んだ。吸魂鬼が乗り込んできたのだ。マントに覆われた闇よりも黒い影が、音もなく近づいてくる。
ノアは観光客気分で通路に出たことを後悔した。直前まで胸を満たしていたワクワクはあっという間に消え去り、後悔と恐怖が押し寄せる。このままでは、ハリーよりも先にノアが餌食になってしまう。
(わ、私そんなに幸福ないしおいしくないですよ……!)
早くコンパートメントに入らなきゃと思うのに、手足が震えてうまく動かない。意志に反してジリジリと後退した足はもつれ、ついに尻餅をついてしまう。
(つ、杖……杖……っ)
ポケットを探るノアの前で吸魂鬼は止まった。ゆっくりと向きを変え、すぐ横のコンパートメント内を覗き込む。助かった、と思ったのもつかの間、吸魂鬼の長いひと呼吸によってノアは冷気に溺れた。
コンパートメントからまばゆい光が飛び出してきたのは、その直後だった。青白い光に押され、ディメンターが去っていく。ドサリと誰かが倒れる音がして、車両に明かりが灯った。